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とある職場の一年半  作者: やゐゆゑよ
3/16

7月 本村

後輩の安倍さんがアルバイトの吉井さんが妊娠しているらしいと教えてくれた。

予定日は12月上旬。

吉井さんは産後休暇取得後、育児休暇を取らずに仕事に復帰するつもり。

吉井さんのお母さんが協力するといってくれている。


やたら詳細な情報だ。他の人から聞いたよう口ぶりで言っているが吉井さん本人から聞いたのだろう。

安倍さんと吉井さんは仲が良い。安倍さんが積極的に構いにいくので吉井さんも慕って頼りにしているようだ。


「無理じゃないの」

こういう時言わなくていいのに言ってしまう。

「育休取らずに仕事するって、お子さん預けるアテはあるの?100パーセントお母さんに預けるつもりなの?保育所に預けるの?生まれるの12月なんでしょ?1月とか2月とか年度替わりでもない時期からゼロ歳児預かってくれるちゃんとした保育所見つけてるの?ゼロ歳児の保育料って安くないはずでしょ?ゼロ歳児って免疫着く前だからかなり頻繁に保育所から呼び出しあるんじゃないの。アルバイトの方にも病児介護休暇あったのかしら。ここのアルバイトってそこまでして続けなきゃいけない仕事なの?こういっちゃなんだけど、キャリアを積むとかそういう仕事とはいえないじゃない?」

安倍さんは白けた顔でよそ見をしている。育児休暇を取らないデメリットを言っただけのつもりだが、癇に障ったようだ。


キャリアを積むとかそういう仕事ではない点では、アルバイトさんだけではなく私や安倍さんがしている仕事も似たようなものだ。

キャリア志向とは程遠く、元々そんなにまじめに働いていたわけでもない安倍さんはいい例なのだ。

安倍さんはご自分の出産時、産前休暇に入る前に残っている有休を全て消化し、産前・産後・育休をそれぞれ上限まで使った上で保育所が見つからない時だけ申請できる延長育休まで使用した。延長育休が有休で使える期間を限度いっぱいまで使い切った後に安倍さんはやっと職場復帰した。


復帰した後は、保育所から子供が熱を出したと電話がかかってきたら帰る。

何もなくても時短勤務なので早く来て早く帰る。

ここまでも仕方がないと私も思う。私を含め周囲の者は大変な思いをして彼女を支えたが、安倍さんが与えられた休暇を使うことは労働者としての権利だ。それに対して面と向かってダメと言える人間は存在しない。


彼女の場合、出勤してもわすかな勤務時間中に「昨日の晩は子どもの夜泣き大変だったあ」などとあくびをして堂々と居眠りすることがよくあった。

見かねて上司が「体調不良なら帰ったら」と気遣う。「大丈夫です」と答えるがまだうつらうつらしている。再度「万全とは言い難いようなので医務室にいくように」と促されてやっと立ち上がる。そして今度は行ったまま戻ってこない。

結局彼女が戻ってきたのは繰り上げ退勤時間前だった。そのままロッカー室に直行し、きっちり化粧をやり直した後に平日の午後とは思えぬほどすっきりした顔つきと歩調で保育園にお迎えに行った。

体調不良であったはずの彼女に気遣いの言葉をかける者などいない。

事務所を出る彼女に「お疲れ様」と上司がかろうじて声をかけた。

誰が疲れたって?と何人が胸の中で毒づいただろうか。遅く来て上司お墨付きの昼寝をして化粧して早く帰っただけ。あれで出勤したことになるのだからこっちはやってられない。

無言で眉をひそめう私達。彼女が残して帰った仕事を振り分けるだけで自分は何一つ分担するつもりのない上司は、「医務室でよっぽどぐっすり眠ったんだろうね」と苦笑いするだけだった。

事務所に残されたのは何とも言い難いやりきれない空気と彼女が放置した仕事だった。


夏は子どもの顔を田舎の親戚に見せに行かなくてはらないと言って優先的に夏季休暇を取得した。

一週間もしない間に、親戚の家で気を遣って消耗した、家族水入らずの旅行に行って楽しまなくちゃと言って有休を取った。家族旅行が終わった後、子どもが旅行疲れで熱を出したと言って病児介護休暇を取った。


夏季休暇に限ったことではなかった。普通の土日にも子ども連れで出かける様子だった。あちこち連れ回して、きっと無理をさせるのだろう。月曜になると子どもが高確率で体調を崩す。月曜に安倍さんが出勤することはほとんどなかった。たまに月曜の午前中に彼女が会社にいると他部署の面々が他意なく「今日は珍しいねー」と驚きの声を上げた。

同じ部署の私達は間違ってもそんな言葉を口に出すことはなかった。嫌味か怨念か恨みかどす黒い何かが、「今日は珍しいね…」という言葉にこもらせてしまいそうだった。


冬にインフルエンザが流行した。保育士さんが確保できないと言う理由で彼女の子どもが通う保育所が2週間閉鎖された年があった。その2週間、子どもを見る人がいないと安倍さんが仕事を休んで家で見ることになった。ところが家にいるはずの2週間の間にどうやら子どもを連れて外に出歩いていたらしい。せっかく2週間後に保育所が再開された時、当の子どもがインフルエンザに罹患して保育所が預けられない事態となった。彼女は自分の子どもが全快するまで再度1週間ほど出勤しなかった。

出勤して休暇の事務処理をしながら安倍さんが放った言葉は「うちの子にあたしの休み全部使われちゃう~」だった。


皆も疲れていた。

私も同僚に不思議でたまらないのよ、と愚痴をこぼしてしまったことがある。

安倍さんは出かけたら子どもが熱を出しそうだなとわかっているだろうに、何故あんなに頻繁に子供を連れて出かけるのか、と。

子どもが熱を出さないと病児看護休暇が取れないからじゃないですか、とその同僚は吐き捨てるように言った。仕事したくないんでしょう、と。

そんなバカなと言ってその同僚をたしなめた。熱出している我が子を見守るのってつらいのよ。自分が休みたいからって子どもに熱を出させる親がどこにいますか。あなたもつらいでしょうけど、私も頑張るからあなた自身の人間性を下げるようなことをいわないでちょうだい。とたしなめた。

するとその同僚は激昂した。私の言葉があまりに正論過ぎて彼女の気持ちを追い詰めたのかもしれない。

「それなら言わせてもらいますけど」と普段大人しい振る舞いに似合わぬ口調で言った。

「病児看護休暇を使うには休暇届以外に休暇報告書を書かなきゃいけませんよね。でもあれって病院の領収証も診断書もいらないんですよ。休んだ日付と子どもの名前とその子が熱出しました。って書いて出すだけでいいんです。別に証明とかいらなんです。今日は子どもが熱出しましたー。休みまーす。て電話して後から熱出しました。って書くだけでいいんです。本当かどうかなんて誰も確かめてないですよね。会社から保育園に安倍さんの子どもはなんていう理由で休みされてますか。えっ通園してますか元気なんですか、なんて絶対問い合わせしませんよね。看護休暇って別の名前がついているだけで安倍さんには私達より20日有給休暇が多いだけなんです。嘘を書いてもバレない紙切れ一枚で休めるんです。嘘なんていくらでもつけるんです。もし今までの「熱出しましたー」が嘘じゃないなら安倍さんは弱いお子さんを産んだってことです、安倍さんのお子さんは一度精密検査でも受けた方がいいんじゃないですか、いっそお母さんがずっと付いていた方がお子さんのためにも良いと思うんですけど」

それだけ聞くとずいぶんと心無い言葉だった。それでも今までのこの同僚の仕事ぶりを知っている私は無下に否定することができなかった。


その後、この普段大人しい同僚は退職してしまった。休み放題の安倍さんに対して不満があっただろうし、その安倍さんを仕事を他の者に回すだけの上司や会社にも言いたいことがあっただろうに結局何も言わずに辞めていった。

彼女が抜けて職場はいよいよ仕事が回らなくった。それまで実質一人欠員の状態で無理矢理回していたのだから当然のことだった。一人退職者が出たからといって安倍さんが心を入れ替えて働くということには当然ならなかった。事実上二人欠員の窮地だった。残った者が頑張ろうが頑張らなかろうが業務は破綻した。一人退職者が出るだけで起こる停滞の程度を超えていた。それまで状況を把握していなかった上層部にとっては突然一つの部署が崩壊したような印象を持ったらしい。とうとう事態が明るみになった。

上層部の対応は社外の体面を考えたものだった。

大幅な組織改編と人事異動にに紛れて部署自体がなくなった。業務は新しい面々に引き継がれていった。元居た私達はそれぞれ別々の部署に振分けられていった。

有効な手立てを講ぜず、他の者に仕事を振り分けるだけで安倍さんの振る舞いを放置し勤勉な社員を退職に追い込んだとして上司は責任を問われ降格となった。

安倍さんは子育て中の社員であるという理由で不利な扱いはできないと判断されたのか、異動先は出勤してもしなくても、遅く来ても早く帰っても、特に誰の迷惑にもならない席を与えられたらしい。何の仕事をするのかは誰に聞いても結局わからなかった。どんな会社にも仕事はできないが退職させることもできない社員に用意された席があると聞いたことがあるが、どうやらそこに据えられたようだった。

私達は結局安倍さんの一人勝ちだねと囁きあった。


それから何年か経って、私がいる部署に安倍さんが異動してきた。子どもがある程度大きくなったのでそろそろ働けるだろうという判断なのだろうが、正直もう勘弁してほしいと思った。

安倍さんは子どもが小さいから休んでいたのではなく、子どもを小さいことを利用して休んでいたんです。とえらい人達一人一人をつかまえて説明して回りたい気持ちでいっぱいだった。子育て社員を大事にしなくてはならないというのであれば上層部と直に接する仕事に配属すればいいとさえ思った。


私は安倍さんは妊娠する前から受け取った給料に見合う仕事をしたことはないと思っている。元々、そういう働き方の人なのだ。職場に籍があるので机椅子は確保されているが、保育所に子ども預けて他人(ひと)より遅く出勤し他人(ひと)より退勤して保育所に迎えに行く間、椅子を温めるのがせいぜいだったろう。

安倍さんは、産休前から育休明けの期間に自分が働かなくても職場が回ることを学んだ。仕事を振られた時の上手な身のかわし方、手の抜き方を体得した。今や子どもがある程度成長し働けるはずの彼女が、職場のお荷物様であることは本人以外の周知の事実だ。


再び、安倍さんと働くことになってから一度だけ、子どもの体調不良ではなく安倍さん本人が熱を出して早退したことがあった。職場の誰もが「早く帰ったら」と口をそろえた。が、誰も心配する様子を見せなかったらしい。

帰宅直前「あたしがこんなにつらくても誰もあたしのことを心配しない」と言って給湯室で泣いていた、と後に聞いた。

当然だ。この職場もまた安倍さんがいなくてもちゃんと回る。要領よくやっているつもりで同僚に余分な仕事を押し付けているさぼり癖のついた人間が不調な時に心配してもらおうなんて厚かましいにも程ある。


今はろくに仕事もせずに、仕事を教えると言って必要以上に吉井さんに構っている。安倍さんは基本的に仕事をしないので職場の年長者や同僚からは距離を置かれている。職場に来たばかりの人やアルバイトの人ばかりと距離が近い。若い人達が安倍さんのゆるい仕事の仕方を真似るのでいいことではないな、と思っていた。


その中で吉井さんは他の若い人とは少し立場が違うのだが、使い物になるのだろうかと思って見ていたら、こんなことになったのだ。




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