ヒロイック症候群
供養の投稿。
ヒロイック症候群の弟子
「んー、これはヒロイック症候群かもしれないねぇ」
精神科医の先生は、佐藤が答えたアンケートを見ながら指先で眼鏡を掛け直した。
「俺様が病気だと!? そんなわけないだろ! ちゃんと診察しろ!」
佐藤が椅子から身を乗り出すと、隣の母親が縋るように体を押さえつけた。
「あぁー…… これは結構重症だねぇ……」
「すみませんすみませんすみません!」
佐藤の母親が先生に頭を何度も下げる。先生は慣れたように苦笑いを返した。
「この藪医者め!」
佐藤は母親の拘束から片腕を抜け出させると、詰めるように先生を指差した。
「この俺様を病人扱いするなんて、名誉毀損で訴えるぞ!」
「すみませんすみませんすみません!」
親子の言動を気に留めず、先生はペースを崩さず続ける。
「まぁ中高生は掛かりやすい病気だし、4、50代で掛かるよりはマシだからねぇ。ポジティブに、早めに掛かって良かったと思いましょう、お母さん」
「人の母親をお母さんと呼ぶな! 貴様!」
母親という重りを引きずりながら一歩前へ、指を先生の眼前に突き出した。
「すみませんすみませんすみません!」
「大人になるための一歩だと思って、寛大な心で見守ってあげてくださいねぇ」
「何だと貴様! さっきから何様だ! 病院の先生だからって自分の言っていることが全て正しいと思うなよ!」
「はいはい、お薬だしておくのでお大事にねぇ」
〈ヒロイック症候群〉
別名:ヒーロー症候群。
思春期の中高生が掛かりやすい精神疾患のこと。
物語の主人公でありたいという願望欲求が肥大化した末、自分のことを何かの物語の主人公だと思い込んでしまう病気のこと。
重症化した中二病などとネットで揶揄される。しかし実態はしっかりとした病気であり、トラブルを起こしたり、自殺したりしてしまうことがある。また、自分が主人公じゃないと自覚した際、ショックのあまり心臓発作を起こしてそのまま亡くなってしまうケースも珍しくない。
裁判では責任能力がないと判断され、殺人事件に無罪判決が下された事例も存在する。
青少年が掛かりやすいが、年齢と共に自然と完治することが殆どである。
稀に4,50代が掛かる。その場合治るのは困難であり、薬物投与で精神を安定させる方法が主流。
女性が掛かった場合、ヒロイン症候群と呼ばれることもある。
「あの藪医者め、あの藪医者め、あの藪医者め」
登校途中、佐藤は障害者手帳を破ると、通り掛かったコンビニのゴミ箱に押し込んだ。
『進さん。あなた高校生になってから、その、少しおかしいわよ』
そう言われて、母親は佐藤進を近所の精神科の病院に連れて行った。
誰だって自分の人生は自分が主人公のはずだ。だというのにそれを病気扱いされるのは佐藤にはとても我慢がならなかった。
佐藤はコンビニから出てきたサラリーマンを指差した。
「貴様! 貴様も自分のことを主人公と思っているだろ!?」
「は、はぁ?」
「貴様もそうであろう!?」
今度は通り掛かった学生に指を差す。
サラリーマンと学生は互いに目を合わせると、困り眉をしてその場を立ち去った。
「何故誰も声だして自分を主人公だと認めんのだ!」
「お客様、そこで騒がれると他の方に迷惑ですので……」
初老のコンビニ店員が申し訳なそうに佐藤に声を掛けた。
「うるさい! 俺様に指図するな!」
佐藤は指を差してからプイとそっぽを向いて、再び学校に向かって歩き出した。
世の中が如何に間違っているのか、そのことに気付かない人が多すぎることに不満が溢れ出し、つい口から出る。
道行く人が佐藤を見るが、佐藤はその一つ一つを論破する気概で見つめ返した。時には振り返って相手の姿が見えなくなるまで見つめ続けた。
教室に到着すると、出入口の前で談笑する男女のグループがいた。どうやら最近巷で話題の【ぶっかけおじさん】について盛り上がっているようだった。
「昨日駅前で初めて生で見てさー」
「え、あの人ってマジで実在するんだ。ネット上の架空の生き物だと思ってたわ」
佐藤は肩で退かすようにグループの真ん中を通ると、自分の席へと向かった。
グループ全員が迷惑そうに佐藤を見つめたが、迷惑なのはそっちだろ、と睨み返した。
席に着くと、遮るようにイヤホンで耳に蓋をした。
胸糞な気分を変えるべく、アイドル声優のきゃわいいグループソングを脳みそに流した。
気分が上がる曲に合わせ、自分が考えた最高の戦闘シーンに合わせたオープニングアニメを脳内再生する。
曲の向こう側からさっきのグループの笑い声が聞こえてくる。
きっと誰かが俺様の悪口を言って、それを皆で笑っているのだろう。
佐藤はイライラしながら胸の動機を押さえつけるように音量を上げた。
高校生活は想像以上に退屈だった。
価値観の合わない同級生の物差し。他人の噂。些細なことで崩れる人間関係。子供くさい話題。どれも時間の無駄に思えて仕方がなかった。
授業の合間、窓の外を眺める。三階の校舎から見える一段高い景色は街を大方見渡せた。
見える範囲だけでもこんなにも世界は広いと感じるのに、どうして俺様はこんなクラスにいるのだろう。
俺様の身の丈に合っていない。教室を見渡すと、ガキくさい顔が並んでいる。
俺様はこんな狭い所に収まる人間じゃないはずなのに……
そうこうして今日も誰とも話さずに授業を終えた。
帰りのHRが終わると、佐藤は机の中から古典文学を取り出すと栞を挟んだ部分から続きを読み始めた。
クラスの喧噪に負けないように、文字に意識を集中させる。
佐藤は下校が集中する時間と態とずらして帰宅することにしていた。
「佐藤くん、まだ帰らないんですか?」
不意に声を掛けられ、顔を上げた。担任の山田だった。
教室を見渡すと、佐藤一人だけになっていた。読み始めてから30分ほど経っていた。
「この時間帯が一番落ち着いて読めるんだよ」
つっけんどんに答えると「そうですか」と山田は溜息交じりに
「あまり帰りが遅くならないようにしてくださいね」
と言い残し、教室を後にした。
佐藤は「ったく」と独りごちると、読めない漢字をすっ飛ばした。
夕陽が教室を染め上げていた。
ふと時計を見ると一時間ほど経っていた。目頭を揉み、緊張した筋肉を揉みほぐす。
窓の外からは運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏がガラスのフィルターを通して聞こえてきた。頬杖をついて、感傷に浸る。
些細なストレス。小さな積み重ねで心が疲れていた。どうして生きているだけでこんなにも疲れるのだろう。
校庭に落ちる影を眺めていると
「佐藤くん、まだ帰らないんですか?」
声を掛けられた。また先生か。
はぁ…… とこれ見よがしに溜息を鼻で吹くと、やれやれと佐藤は振り向くことにした。
落ち着ける場所はどこにもないのか……
振り向いた先にいたのは先程の山田ではなかった。
「貴様はえっと…… 田中……」
「花子です」
同じクラスにいる女生徒だった。ショートボブの髪型に向日葵のヘアピンで前髪を分けて、首にホクロがあるのが特徴的な特徴のない子だ。
プリントの受け渡しをするときに何度か喋ったことはあったが、特にこれといった関わりはなかった。下の名前も今初めて知った。
「貴様は」
「花子です」
訂正するように被せてくる。もしかしたら花子と呼ばれたいのかもしれない。
「花子、俺様に何か用か?」
「少し前から思ってたんですけど、佐藤くんってヒロイック症候群ですよね?」
佐藤は虚を突かれた。
ヒロイック症候群とは自分にとって不名誉なことだ。恥ずべきことを医者でもない素人、しかもあまり関わりのない生徒に図星を突かれ、佐藤は顔を熱くした。
「どうしてそう思うんだ?」
「類は友を呼ぶって言いますよね。だから私の琴線に触れる感じがするんです。それに」
花子は佐藤に近づくと二枚の紙を机に置いた。
「こ、これは……!」
花子が妖しく、薄く笑う。
机に置かれたのは、今朝コンビニ捨てた佐藤の障害者手帳と、同じくビリビリに裂かれた花子の障害者手帳だった。
「似た者同士ってことです」
「貴様、貴様もヒロイック症候群なのか!?」
佐藤は花子を指差した。
「ふふ」と花子は肯定を含んだ笑みを浮かべる。そして彼女は佐藤の指先に、人差し指を当てた。
「佐藤さん、私の弟子になりませんか?」
「は、はぁ……?」
突然の謎の提案に首を傾げる。
「佐藤さんもこの世界に不満はありますよね」
佐藤は目を丸くした。自分の本心を一言で言い当てられたようだった。
「不平等な社会、それに気付かない頭の悪い人達、どうでもいい恋バナに一喜一憂する同級生。皆、馬鹿だと思いませんか?」
佐藤は頷くことも忘れて、花子の言葉に夢中になる。
「弟子、というのはどういうことだ?」
「私、もうすぐココとは違う異世界に行くんです。そこで魔法使いになる運命なんですよ。そこで前もって弟子を用意しておこうと思って」
話が見えず、佐藤は再び首を傾げた。
「魔法使いと言えば、黒猫にカラスに弟子ですから」
「そうなのか? どちらかと言えば魔女に使いイメージだが」
「私にとったらそうなんです。細かいことは気にしなくていいんです」
「まぁ確かにそれもそうだ。それでココとは違う異世界、というのは?」
「死んだ人ってどこに行くと思いますか?」
「死んだら何もない。まさか異世界に行くとでも言いたいのか?」
トラックに轢かれて気がついたら異世界に、とアニメや小説で散々見た話だが、現実にそんなことがあり得るはずがない。
「話が早いですね。そうです。そう言いたいんです」
「何を馬鹿な」
話を遮り、花子は続けた。
「死ぬことを他界という言うじゃないですか。他の世界、略して他界。天国や地獄とも言いますが、要するにこの世ではない異世界のことを指しています。昔から人間は亡くなったら異世界に行くことを本能的に気付いていたんですよ」
花子の言いたいことを考えてから佐藤は返事をした。
「それはつまり、君は自殺するつもり、ということか?」
「自殺は異世界に行く手段であって目的ではありません」
否定ではなく、肯定に近い物言いだった。
「俺様を弟子にしたい、というのはつまり、俺様を道連れにして死ぬことを考えている、ということか? ならばお断りだ!」
ビシッと花子に指を突きつける。
「世の中の不満があるのは共感する。異世界という話も面白い。しかし死ぬ気はない! 以上だ!」
「その自分に素直な所、ますます弟子にしたくなります」
「そもそも俺様が誰かの下で教えを乞うなど全くもって興味がない!」
「でも主人公が強くなるための前段階として誰かの弟子になるっていうのは定番ではありませんか? そうして師匠を越えてより磨きを掛けていくものだと思いますよ」
「確かに。一理ある。しかしなぁ……」
花子は誰もいない教室なのに、秘密を持ち出すように耳元に口を近づけた。
「もしご興味がお有りでしたら、今日の深夜二時に校庭に来てください。そこで二人だけの秘密を作りましょう」
耳が熱くなる。ハッと顔を上げると、花子は手を振って、一つ笑って見せてから教室を出て行った。
「行くわけないだろ…… 馬鹿者が……」
深夜二時、佐藤は言われた通りに学校に向かった。
好奇心と興味には抗えなかった。
昇降口まで行くと、建物の影からぴょんっと花子が現れた。
「やっぱり来てくれたんですね」
「こんな時間に学校で何をするというのだ?」
「?ミステリーサークル。?校舎の窓を全部割る。?花火。どれがいいですか?」
どれもこれも何かの作品で見たことがあるものだった。死んだら異世界から始まり、なんてオリジナル性に欠けた奴なんだ。
佐藤は指を突き出して答えた。
「全部だ」
「ふふ、それは考えもしませんでした」
花子は笑いを隠せない様子だった。
校庭脇の体育倉庫から白線を引くラインカーを引っ張り出すと、ネットで調べて適当に選んだミステリーサークルを二人で描いた。
「意外と器用なんですね」
「俺様を何だと思っている」
「それはそれは、失礼しました」
校庭いっぱいに大きなミステリーサークルを描き終えると、今度は倉庫の横にある廃材置き場から鉄パイプを引っ張り出した。
「さて、次は窓ガラスを割りに行きますよ」
行為に物を壊したことはなかった。しかも無意味に。本当にこんなことしていいのだろうか。
窓の前で戸惑っていると、花子は躊躇いもせず窓を叩き割った。
「んー! きっっっもちぃ……!」
佐藤は生唾を飲み込んだ。
「弟子くんもほら早く。気分爽快ですよ」
「弟子ではない。しかし」
まぁここまで来たら、もうどうでもいいか。
佐藤も窓ガラスを叩き割った。
一度割り始めたら引き返す道はどこにもない。坂道を下り始めた車輪。佐藤と花子は校舎の一階にある窓を全て叩き割っていった。
どれぐらい時間が経ったのだろうか。一瞬のように感じた。久々に時間を忘れて楽しんでいた。
窓を割り終えると、花火の代わりに体育倉庫の中にあったマットや綱引きの縄など燃えそうなものを片っ端に校庭の中央に運び、火を付けてキャンプファイヤーをした。
火は炎になり、辺り一帯を照らす。炎を眺めながら大仕事を終えたように二人は小さく語り合った。
「流石に疲れましたね」
「でも悪くなかった」
空が白み始めていた。
不法侵入に器物破損。立派な犯罪行為。しかしそれ故に、奇妙な一体感が二人の間には出来ていた。サークルを描きながら、窓を割りながら、体育倉庫のものを運びながら、言い合った軽口や屁理屈に互いの価値観が近しいことを実感していた。
「それで、どうしてこんな刹那的主義のようなことに俺様を誘ったのだ? これも俺様を弟子にするための手段か何かか?」
「そうですよ。私のことがよく分かったでしょ? 類友だって」
「否定はしない。だが弟子になる気はない。それに、俺様を弟子にして何がしたいんだ」
ややあって、花子は語った。
「……一人は寂しいじゃないですか」
否定は出来なかったが、肯定して自分の弱さを見せたくなかった。
「貴様」
「花子」
「花子は何をするつもりなんだ? ただの直感だが、何か大きなことをしようとしているな。類友だから分かるぞ」
花子は秘密を隠した引き出しを開けるように、意を決してから口を開いた。
「通勤時間帯の東京レトロ南北線で自爆テロをしようと思っているんです」
「……そうか」
「驚かないんですか?」
「現実離れしていて実感が湧かないだけだ」
「まぁ、普通は信じられませんよね」
「……冗談ではないんだな?」
「はい。今は強力な爆弾の作り方を勉強している最中です」
「いつ実行するつもりなんだ?」
「爆弾が完成次第すぐにです」
「その自爆テロに俺様を巻き込むつもりなのか?」
「そうです」
「……どうして俺様なんだ。俺様と花子はこれまで全くと言っていいほど関わっていなかったでないか。こんなことを俺様に話して、もし俺様が警察にこの話を告発したらどうするつもりなんだ」
「ヒロイック症候群の方の妄言を信じる人がいると思うんですか?」
「実に不服だ。他人に信用されないことを信用されているとは」
花子は嬉しそうに笑った。
「それで、どうしますか? 自爆テロ、一緒にやりませんか?」
佐藤はしばらく考えてから答えた。
「……しばらく、考えさせてくれ。ただ弟子になるつもりはない」
「これは脈ありですね」
そのおちょくりにも佐藤は答えなかった。
自爆テロなんてしていいはずがない。しかし、花子と共に過ごした時間にほだされたのか、断ることは出来なかった。
翌日の学校はお祭り騒ぎになっていた。
四六時中警察が行ったり来たり。通学路にも警察が待機し、クラスは根も葉もない噂で盛り上がり、誰が怪しいだの何なのと熱が冷める様子は微塵もなかった。
「私、佐藤進が犯人だと思うのよねー。普段から反抗的な態度してるし」
教室の出入口から、態と大きめな声でそんな話が聞こえてきた。
イヤホンの音量を上げる。逃げる小説の文章を目で追い掛ける。現実から目を背ける。監視されているような気味の悪さ。不安が過る。
そんな皆の視線が集まる中、花子は佐藤に近づき、イヤホンの片耳を外してこっそりと言った。
「(バレないといいですね)」
佐藤は体をビクリと跳ねさせると花子はまたあの妖しい笑みを作った。
緊張とストレスの中、佐藤はこれまでに味わったことのない気持ち良さに満たされていた。主人公。まさに今、自分は物語の中心にいた。
だからこそ、自爆テロの誘いを断ることが出来なかった。
佐藤は考えていた。
花子は恐らく自分より重症のヒロイック症候群だ。冷静に考えればこれ以上関わってはいけない。だけど興味と好奇心が強く惹かれてしまっていた。
処方された薬は飲まなかった。ヒロイック症候群は不名誉だ。しかし、自分以上に重症な人を身近に感じて、悔しいと感じる部分もあったからだった。
放課後、花子と過ごすようになった。人気のない雑木林の奥に行き、爆弾のテストを繰り返す。一週間、二週間と時間を共に過ごし、花子の存在が佐藤の中で次第に多くなっていった。
その日、雑木林一帯が吹き飛び、木々は倒れ、地面に大きな穴が開いた。
こんなものが電車の中で爆発したら…… 想像しきれなかった。
「出来ました…… 完成しました…… ようやく、ようやく完成しました! これでようやく私は異世界に行けます!」
あの花子が涙を流しながら泣いて喜んだ。喜びのあまり佐藤の手を取って跳ねた。
良いことなのか、悪いことなのか、佐藤にはもう判断が出来なくなっていた。
「我慢出来ません。明日、明日です。早速明日実行です!」
佐藤の心の準備は一ミリも出来ていなかった。
翌日。自爆テロ決行日。午前七時半。東京レトロ南北線。
今朝は乗客のトラブルにより遅延が発生し、日本屈指の混雑率を誇る南北線はより一層に人でごった返していた。
爆弾をいつものスクールバッグに詰め込んだ花子と一緒に佐藤は駅のホームにいた。
佐藤の顔を見て、花子が首を傾げた。
「もしかしてまだ悩んでるんですか?」
「まさか、そんなはずないだろ」
悩んでいた。今ならまだ止められる。
爆弾の仕組みはこれまで何度となく花子本人から説明されている。バッグのチャックからはみ出させた紐を引っこ抜くと起爆する仕組みだ。
だから単純にあのバッグごと奪えば花子は何も出来なくなる。
たったそれだけ。それだけすればいいのに。
これまで花子と共に過ごした時間が、心を揺さぶるあの妖しい笑みが、人を弄ぶような耳元での囁きが、時折触れた肌が、佐藤の正常な判断を鈍らせる。
そして何より、自分が今、物語を動かせる中心にいることに心が震えていた。
その時、ドンと誰かに肩をぶつけられた。
数歩後ずさり、人波に更に押される。
「おい、ぶっかけられたいのか!? 変な所で立ち止まってるんじゃねぇよ!」
上裸のおじさんが次々と人に肩をぶつけながら突き進んでいく。
「どけどけ! ぶっかけるぞ! いいのか!? 俺は世界の中心だぞ!?」
おじさんが立ち去った後に、めんつゆの匂いがした。
あれがぶっかけおじさん。初めて生で見た。恐らく乗客のトラブルの原因だろう。
少し離れた花子が佐藤に手を差し出した。
「ほらおいで。それとも辞める? 日本で一番多い苗字くん」
「誰が日本で一番多い苗字だ!」
佐藤はビシッと指を突き出した。
花子は罠にハマったネズミを見たかのようにねっとりと笑みを溢し、佐藤の指を掴んで引っ張った。
「じゃあほら、一緒にいこう」
佐藤はもう花子の手中にいた。ツルで絡め取られるように指の隙間に指が入り込み、佐藤はもう逃げられなくなった。
10分遅れで電車がホームに入ってきた。
これから死ぬ?
佐藤は直前になってもいまだに実感が湧かなかった。
電車から大量の人が吐き出され、真空に空気がなだれ込むように人が電車に吸い込まれていく。
「どけぇ! ぶっかけるって言ってるだろ!」
戻ってきたぶっかけおじさんが人混みを分けながら電車に向かって突進していく。
「朝からイチャついてるんじゃねぇ! 俺がぶっかけるぞ!」
「き、貴様、何を!」
ぶっかけおじさんが佐藤と花子を分断した。
人波に揉まれて、佐藤は改札方面へ、花子は電車の中へと流れていく。
二人は無意識に離れていく手を伸ばす。目と目だけが交わり続ける。
雑踏は聞こえなかった。耳鳴りが聞こえる。
花子の声がやけに鮮明に聞こえた。
「ごめん。私、もう待てない……」
花子の伸ばした手が爆弾の紐へと向けられる。
そして――
焦げた臭いがした。ゴムが溶ける臭いがした。肉が焼ける臭いがした。
駅のホームは悲鳴で満たされていた。緊急車両の緊迫した音が頭を通り抜ける。
しかし、鉄バットで殴られたような頭は呆然として、佐藤は目を開いたまましばらく、何が起きているのか理解出来ていなかった。
目の前に人間だったものが転がっていた。血が体に纏わり付いて離れない。電車の上半分がなくなっていた。
少しずつ状況を理解し、頭が鮮明になり始める。
目の前で倒れた人を揺さぶる。反応がない。隣の人も、隣の人も……
吐き気がする。気分が悪い。気を失いそうになる。
駅のホームを這いずり回っていると、見つけてしまった。
髪の毛を数本挟んだままの向日葵のヘアピンだった。
そこで、実感した。
佐藤は人混みと電車に反応するPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患うと引き換えに、ヒロイック症候群は完治した。
東京レトロ南北線自爆テロの事件の調査により、佐藤は警察に特定され、芋づる式に深夜二時の学校での出来事も明るみに出た。
しかし、一連の佐藤の行動は【未成年であること】と【ヒロイック症候群により責任能力がない】として世間に公表されることも罪に問われることもなかった。
しかし、死を肌で感じた佐藤は自身の魂に罪を刻み込むことになった。
誰にも言えない罪と罪悪感を抱えたまま生きていく。
それが佐藤なりの贖罪仕方だった。
数年後、事件が起きた同日同時刻、事件現場前に設置された献花台に佐藤は向日葵を持って訪れた。訪れたのは事件後、初めてだった。
現場は当時のことを思い起こさせないためか、駅ごと新築に建て替えられていた。当時の傷はもう目に見える形ではもうどこにない。だからこそ生々しく傷を感じた。
いまだに言えない痛みを抱えた遺族達のすすり泣きが聞こえてくる。
そこにいる誰も、佐藤が事件に深く関わっていることを知らない。罪の意識のあまりその場で懺悔しようかとも考えた。
だけど勇気は湧かず、順番が来て、佐藤は黙って花をそっと乗せた。
その時、不思議な現象が起きた。
献花台に置かれた花が突然発火し、火は瞬く間に燃え広がった。それこそ魔法のように。
火災警報器がサイレンを鳴らし、スプリンクラーが作動する。
建物内で降る雨。騒然。水が髪から滴り落ちた。
近くにいた人が佐藤に声を掛けた。
「あなた…… 何をしたんですか?」
主人公は答えた。
「自分、魔法使いの弟子なので」
ヒロイック症候群が、再発した。