哲学編①
放課後になった。
私は教科棟にある、理科室の隣の空き教室、哲学部の部室前に来ていた。
ドアには手書きで『哲学部』と書かれた紙が貼ってある。
文学部の部活動が今日もあったけど、部長に「用事があるので休みます」とラインして休むことにした。
小説を書かないといけないけど、こっちのほうが重要だと自分で判断した。
男子に呼び出されるなんて、初めての経験だった。だからちょっと動揺している。
今日の授業中も上の空だった。先生に指されないで本当に良かった。
朝倉くんを訪ねることは誰にも言っていない。あきらちゃんにも。
言えば反対されるだろうし、最悪の場合、妨害される可能性もあった。
これは友情から来るものだと思うけど、邪魔はされたくなかった。
なぜなら一対一で話したいからだ。
色々な噂を聞いて、かなり不安が心の中に広がったが、それでも話したいと思っているのだ。
この感情はなんなんだろう。
好きとか嫌いとかの分かりやすい感情ではない。かといって、複雑な思いでは一切ないのだと思う。
それを証明するために、私はここに居る。
だけど――私はなかなかドアを開けられなかった。
ドアの前で三十分くらい、佇んだままでいたのだ。
「ああもう、どうしてこんなに緊張しているんだろう?」
小声で聞こえないように呟く。
たかが、ドアを横に引けばいいのに、それができない。
有り体に言って、ビビッているんだ。
噂の怪人物に会うのが怖くなってきた。
一回開けてしまえば楽になってしまうのだけど、その一回が踏み出せない。
こんな緊張は高校受験以来だ。
「面接で失敗したこと、思い出すなあ」
なるべく小さく言って、中に聞こえないようにする。
というより基本的に他人に甘えるタイプだから、主体的に動くのが苦手のようだ。
それでも――三十分は時間かけ過ぎた。
誰も廊下を通らないから、恥をかくのは避けられたけど。
それに焦りもあった。
朝倉くんを待たせているという焦り。
私は人を待たせるのが嫌いだ。
約束の三十分ぐらい早く、待ち合わせ場所に行く。
なんというか、待たせるという行為に罪悪感を覚えるのだ。
いけないことをしているような、禁忌を破っているような。
だから、悩んでいる時間さえ苦痛になってくる。
とりあえず、ノックしようかな……
そう思って、こぶしを作り、思いっきりドアを叩こうとして――
ガラッとドアが開いた。
「えっ? あっ!」
「うん――ぐはっ!」
強めに叩こうとしたこぶしが朝倉くんの胸辺りにヒットする。
右手だったから、ちょうど心臓の上。
「いってえ……! 何すんの……!」
「ああ! ごめん! 大丈夫朝倉くん!?」
その場に崩れ落ちた朝倉くんの背中を擦る。
「いや、ゲロ吐くときでしょ。背中擦るのは……」
「あっ、そうだねっ! えとえと……」
どう介抱すればいいんだろう?
「胸をさすった方が良いかな?」
「いや、男性の胸を触るのは、女性よりマシだけど、倫理的に良くないと思う……」
ああ、もう、パニックだ!
その後、十分くらい朝倉くんはうずくまったあと、ようやく回復したのか、立ち上がることができた。
「さて、いきなり殴った浅井涼子さん。まだちゃんとした謝罪がないと認識しているけど」
「はい、ごめんなさい……」
哲学部の部室は机と椅子が五つずつしかなく、がらんとしていた。
電気は点いているけど、カーテンは閉めっぱなしで、息苦しさを感じる。
ロッカーには本がたくさん並べてある。全部朝倉くんの私物だろうか。
椅子二つを向かいあうように並べ、その席に私と朝倉くんは座る。
「よし、許す。まあ呼び出したのはぼくのほうだから、あまり強くは責めないよ」
「あ、ありがとう。朝倉くん」
「それで、メモを見て来たのかな? それとも依頼で来たのかな?」
依頼? 何それ?
「依頼ってなあに?」
「いや、なんでもないよ。それじゃあメモを見て来てくれたんだね。それには感謝するよ。ありがとう」
今度は朝倉くんからお礼を言われた。
「うん。それはいいんだけど、一体私に何の用で呼び出したりしたのかな?」
「それは――いや、答える前に一つ質問があるんだけど」
質問を質問で返す禁じ手をしてきたけど、殴ってしまったという負い目があるから「いいよ、なに?」と答えてしまった。
「浅井さんは、ぼくの噂を知っているの? 知っていてここに来たのかな?」
なんて答えづらい質問だ。
だけど、これは正直に言った方がいいと思った。
「うん。知っているし、知っていてここに来たんだよ」
「……自分で言うのもなんだけど、よくもまあ来られたよね」
流石の朝倉くんも驚きを隠せないようだ。
「噂がすべて真実だと限らないし、真実だとしたら、尚更無視できないよ」
「それはどうしてだい?」
「だって、無視したら仕返しされるかもしれないじゃない」
私の言葉に朝倉くんは感心したように「なるほど」と頷いた。
「見た目はあまり深く考えないタイプだと思っていたけど、意外と考えるんだね」
「それは馬鹿にしてるのかな?」
「そんなことないよ」
そう言って軽く笑う朝倉くん。
「私には『行かない』って選択肢はないの。それは朝倉くん自身分かることでしょ」
「そうかな? ぼくは分からないことだらけの人間だから」
「なにそれ。学年一位のクセして、分からないことなんてあるの?」
「こんなこと言うと、性格が悪く思えて仕方がないけど、勉強なんてテキトーにやっても一位になれるよ」
「それはどうして?」
「ぼくより頭の良い生徒がいないから」
学年一位の言う言葉としては、正しいし事実だと思うけど、傲慢だと思った。
「朝倉くんは謙虚な人だと思ってたのに、そういうこと言うんだね」
「だって、本当のことだしね」
「だったら、分からないことだらけではないじゃん。テストで分からない問題とかないんでしょ」
「そこなんだよ。ぼくが分からないことは」
朝倉くんは真剣な顔をして言う。
「たとえば国語。作品の意図なんて文章を読めば分かる。たとえば英語。単語と文法を知っていれば分かる。たとえば日本史。年代と出来事と人物を暗記していれば分かる。たとえば数学。解き方が分かっているならその通りにすれば分かる。だけど――みんなが問題を解けないことが分からない」
「……私は朝倉くんが本気で言っているのか分からないよ」
多分、本気だと思う。本気で朝倉くんは自分が特別だと思っていないんだ。
天才は天才を理解できない。
昨日の朝倉くんとの会話を思い出した。
「本気で言っているよ。というよりみんな努力が足りないんだと思うな」
「朝倉くんは努力しているの?」
「さっきも言ったじゃん。勉強はテキトーにやってもできるって」
「だったら、みんなも同じなんだって思えないの?」
私は少しむきになって反論する。
「みんなは百点を取ろうなんて思っていないんだよ。八十点とか七十点とか、そんなんで満足するんだよ。ぶっちゃけ言えば、私なんか、赤点じゃなければいいと思う。みんながテキトーにやっているから百点取れないんだって、どうして気づかないの?」
「――なるほど。そういう考え方もあるんだね」
朝倉くんは感心したように手を叩く。
……本気で感心してるの?
「分からなかったことが一つ分かって嬉しいな。ありがとう、浅井さん」
「お礼を言われるようなことしてないけど」
「ぼくは分からないことが苦手なんだ。嫌いじゃないけど、喉に魚の骨が刺さった感覚に似ているから苦手。だから今はすっきりしているよ」
「私も分からないことが嫌いだから、一つ訊いていい?」
「うん? ぼくに答えられることなら、なんでもいいよ」
「どうして――私を呼び出したの?」
その質問に――朝倉くんは薄く笑った。
うすっぺらな笑い方だ。
「そろそろ教えてくれるかな? 私、これでもやることがあるの。別に忙しいってわけではないけど」
「ああ、簡単なことだよ」
朝倉くんはもったいぶらずに話すつもりらしい。姿勢を正して私の目を見据える。
私は身構えて言葉を待つ。