日常編②
都立不動尊高校は、私はよく知らないけど対外的には名門校であり、都内屈指の進学校であるとされているらしい。
偏差値が中途半端に高く、大学への進学率も、これまた中途半端に高いので、そう見られているようだ。
しかし通っている私たちはそんな自覚はない。それは通っている人間が自分たちを天才などと、ひとかけらも思っていないのだ。
高校とは同じ能力を持つ人間を隔離するための施設だと、何かの本に載っていたけど、まさにその通りだなあと感じる。
この学校の生徒は同級生を馬鹿だと思っていないし、逆に天才だとも思っていない。
中途半端な能力を持つ、普通の人間だと、私たちは自他共に認めているのだった。
だから、こんな平均より少し高い人間ほど、異常に突出した人間を恐れ、畏怖しているのだろうと私は考える。
馬鹿は天才の凄さを理解できないし、天才もまた天才であるがゆえに理解できないのだろう。
結局なところ、人類のほとんどが平均よりも少し上の実力を備えているのだ。
だから迫害とか冷遇が人類の歴史で起こり続けているのだろう。
人類は少し賢すぎる。
それが私、浅井涼子が考えていた自論だった。
「浅井さん、この本、読み終わったから貸してあげるよ」
授業が始まる少し前。
後ろから肩を叩かれて、朝倉くんが私に話しかけてきた。
私はこのとき、図書室から借りてきた別の本に夢中で、話しかけられたのに分からず、肩を叩かれて、ようやく気づいたのだった。
「あ。えっと、ありがとう……朝倉くん」
一瞬、名前を忘れかけたけど、昨日のことを思い出して、何とか返事ができた。
「この本、面白かった?」
「うーん、微妙かな。七十二点」
「ふふ、本当に微妙な点数だね」
「ストーリーを言うのはネタバレになると思うから、あまり言えないけど、文章は上手いと思ったよ」
「文章が上手いって褒め言葉かな? 内容が陳腐って言っているようだけど」
「ノーコメントかな。でも面白かったのは事実だよ」
朝倉くんが肩を竦めるのを見て、なんだかおかしく感じた。
「それにしても、読むのが速くない? 昨日の今日じゃない」
「ああ、浅井さんに貸してあげたかったからね。それに部活中は暇だったことも原因の一つかな」
なんだ、良い人じゃないと私は思った。
どうして、こんな良い人が忌み嫌われているんだろうと思って、何気なく周りを見渡した。
なぜかクラスの全員がこっちを見ていた。
「……えっ?」
信じられないといった眼。好奇にかられた眼。冷ややかな眼。同情の眼。
いつの間にか、クラス中が私たちを見つめていた。
「涼子! ちょっとこっちに来なさい!」
あきらちゃんが私を手招きする。
なんだか怖くなったので、朝倉くんに「本ありがとうね」と言い残して立ち上がった。
「いーよ、全然。あ、返すのは返却ボックスに入れてね。又貸ししたのばれちゃうから」
そう言って軽く手を振った。
「トイレに行きましょう。さあ、早く」
あきらちゃんに連れられて女子トイレまで来た。そして「あんた昨日の会話も忘れちゃったの!?」と怒鳴り声に近い声量で詰問された。
「いや、忘れていないけどさ、本貸してくれたし――」
「あいつと親しいと思われたら村八分にされてしまうわよ?」
それは脅しに近い発言だった。
「あきらちゃん、考えすぎじゃないかな?」
「考えすぎても足りないわ。あの朝倉に関わったらどうなるか――」
「村八分にはならないと思うよ」
私が断言すると、あきらちゃんは訝しげに「どうして、そう言い切れるのよ」と言った。
「だって、私にはあきらちゃんが居るもん」
私の言葉に――あきらちゃんは目を見開いた。
ちょっと恥ずかしいこと言ってしまったかなと反省。
「それに、話しかけられたら返事しないといじめみたいに思えるじゃない」
今度は正論を言ってみると、あきらちゃんは困った顔をした。
「そうだけど……朝倉はやばいのよ。あまりこれ以上詳しいことは言えないけど」
心配してくれているのだと、ひしひしと伝わってくる。だけど、自分の人間関係ぐらい自分の好きなようにしたい。
だって、朝倉くんが悪い人だと思えないもん。
「大丈夫だよ。やばいと思ったらすぐに縁切るし」
「あっさりと縁切るなんて言うな」
「あはは。さあ教室戻ろうよ。もうすぐ授業始まっちゃうよ」
あきらちゃんの手を引いてトイレから出る。
あきらちゃんは最後まで腑に落ちないといった態度をしていた。
教室に戻ると机の上には朝倉くんが貸してくれた本が置いてあった。
「……ありがとう」
お礼を言うのは悩んだけど、それぐらいならセーフだろうと自分で勝手に判断した。
「いいよ。もう読んだ本だし」
朝倉くんはカバンからブックカバーを付けた本を取り出す。小説だろうか。
「本なんて人間と一緒の消耗品だから」
「いや、違うでしょ」
つい突っ込んでしまう。さっき構わないほうがいいと言われたばかりなのに。
「人間は本と一緒で、人生という名の白紙にインクを垂らし、物語を創る」
おお。小説の一節のようだ。
「そして結局最後には誰にも読まれなくなってポイ捨てされるんだ。同じだよ」
「ブックオフに売ればいいのに」
私の一言に朝倉くんは「ふふふ」と笑う。
「浅井さん、結構面白いこと言うね」
そうだろうか? どこがどういう風にツボに入ったのか、理解できない。
「つまり、人間には第二の人生もあるってことを言いたいんだね」
「いやごめん。そこまで深いことを言うつもりないんだ」
「天然でそんなことを言えるなんて、天才かもしれない」
「こんなんで天才認定されたら、ノーベル賞は誰だって取れちゃうよ」
肩を竦めながら冗談を言うと、朝倉くんは可笑しそうに笑った。
「ふふふ。エジソンは天才だけどノーベル賞をもらってないけどね」
「エジソンはどちらかと言うと努力の人っぽいかも。えっとなんだっけ? 天才は1%のなんとか」
「天才は1%の霊感と99%の努力でできている、だね。だけどエジソン自身は霊感のほうを重要視していたとぼくは思う」
「どうして? それだったら霊感を100%にすればいいじゃない」
「希少価値と言えば分かるかな?」
「ああ、少なくて珍しいから価値があるってこと? 確かにそれなら分かりやすいかも」
そんな発想はなかった。まさに目からうろこだ。
「有名なエピソードだけど、エジソンは小学校を中退したよね」
「うん。中学のとき伝記で読んだかも」
「そのとき、エジソンはコミュニケーション能力を失ってしまったのかもしれない。いや、コミュニケーション能力を得る機会を失くしたと言い換えたほうがいいかもしれないね」
「それは伝記で読んだことないなあ。それはどういう考えからきているの?」
「さっきの話と繋がるのだけど、霊感だけだと人に伝えられない、伝わらない弊害が生まれるんだ」
「うん? ああ、天才の発想は凡人には理解できない、そう言いたいのかな」
「そうそう。だからこそ、99%の努力をエジソンは必要としていたんだと思う」
「自分の考えを人に伝えるのって、天才でも凡人でも大変だと思うけど。コミュニケーション・ツールが発達した現代でも、そのコミュ症に悩まされている人はたくさんいるよ」
「だからこそ、努力は必要なんだ。互いに歩み寄る努力がさ」
話していると何が言いたいのか分からなくなってくる。何がどうしてエジソン・トークになってしまったのか、不可解だ。
でも、なんだか楽しかった。
朝倉くんと話していると自然と言葉がすらすらと出てくる。まるで泉のように湧き出てくる。
こんな感覚は初めてだった。
「でもさあ、ある程度の逸脱は必要だと思うよ。人と同じ発想していたら、人類は進歩できていないし」
話の筋を少しずらしてみる。
「理解できない天才は世界にとって必要だってことかな?」
「理解できないじゃなくて、理解されないって言ったほうがいいかも。『できない』って言ったら私たち凡人に問題があるみたいに思えるしね」
「つまり、天才のほうに問題があるってことか。要するにサヴァン症候群の人が日常生活を送るのが難しいってみたいなこと?」
「サヴァン症候群?」
聞き慣れない単語が出てきたので、思わず聞き返す。
「ああ。サヴァン症候群というのは、重度の障害を持ちながら突出した才能を持つ人の症状さ。絵が上手い人いるよね。山下清って知っている? 裸の大将」
「ああ、あれね。テレビで見たことあるかも。でも私が言いたいのはそうじゃないの」
私は一呼吸置いて、言った。
「人類からの逸脱こそが世界を回してきたんだと思うの」
昔から思っていた。
普通に生まれて、普通に生きて、普通に死んでいく。
私はそんな退屈な人生を歩んでいくんだなあって思っていた。
朝倉くんの言うたとえを用いるならインクを垂らしても文字にならず、ただの染みになってしまうのが私の人生だ。
「でも、逸脱した人間が幸せになれるとは限らないよ」
朝倉くんは私の心の中を見透かしたようなことを言ってきた。
「不遇の天才だっているし、そもそも芽が出ない天才だっている。自分の才能に押しつぶされてしまった天才だって、ぼくは知っている」
「…………」
「もしもぼくが天才だったとしたら、人生が簡単すぎて、退屈だよ。まあ凡人に生まれても退屈だと思うけど」
奇しくも私と同じ考え方をしている。
少しだけ親近感を覚えた。
「浅井さんはもし天才になれるなら、何を犠牲にする?」
朝倉くんの質問に、私は言葉に詰まって答えられなかった。
「ぼくなら魂だって差し出すよ。もしも魂なんて不確かなものがあるのなら」
朝倉くんはシニカルに微笑んだ。
「魂って……自分の命みたいなものでしょ? そんなに天才になりたいの?」
「ああ、なりたいね」
即答だった。
気になったので深く聞いてみる。
「どんな天才になりたいの?」
「天才かどうか分からないけど、この世すべての知識が欲しい。だから演算能力と蓄える記憶力を持つ天才になりたいな」
知識が欲しいって感覚は私には分からなかった。知らないことがあるから人生が楽しいのだと思うんだけど。
そう言おうとしたとき、チャイムが鳴った。
もうすぐ先生が来てしまう。
「おっと、先生が来ちゃうな。また今度話そうよ」
そう言われて私は迷った挙句に「うん、そうだね」と明るく答えた。
会話をしている最中は、クラス全員から注目されているのが分かっていたけど、それでもなぜか話すのをやめようとは思わなかった。
先生が来る前に教科書を準備しようとしてカバンから取り出す。
新しい教科書からはインクの匂いがした。