日常編①
「えっと、そうだけど……あなたは同じクラスだっけ?」
今から思えば、かなり失礼な発言だっただろう。相手は自分のことを覚えているのに、自分は相手のことを覚えていないのだから。
言い訳させてもらうと、私は昔から人の顔を覚えるのが苦手だ。
それなので、彼の顔をじろじろ見て、誰だったのか思い出そうとする。
彼の顔に特徴はない。ハンサムとかブサイクとかに分けられない、ちょうど中間の顔。高校二年生にしては幼い顔つき。目が大きく虹彩がキラキラ輝いている。髪も校則に抵触しない程度に伸びている。
少し痩せ気味で不健康なイメージ。
背は私と変わらない。つまりはそんなに高くない。
しかし、じっくりと見ても記憶に覚えがなかった。彼の凡庸な顔立ちも起因していると今では思う。
本当に同じクラスなのだろうか。そう疑ったけど、私の名前を知っていた。
かといって別に私は有名人でもないし。
「えっと、同じクラスだよ。二年四組。君の後ろの席なんだけど」
そう言われてもピンとこない。後ろなんて授業中に振り返らないし、配布されたプリントを渡すのも、私はほとんど後ろを見ない。
「そうだったっけ? えっと名前は……」
「同じクラスとかも分からないのに、名前を知っているわけないか」
ずばり胸中を当てられて、どきりとした。
「そんなことないよ! 知っているけど覚えていないだけだよ」
「それ、哲学的だね」
私の滅茶苦茶な自己弁護に、あははと笑ってくれた。フォローしてくれたようだ。
「多分あ行でしょ? ちょっと待ってよ」
クラス替えしてから席替えをしていないので、五十音順に並んでいるから、それを思い出して言ってみる。
「いいよ。待つという行為は一見無駄に見えるけど、ぼくは嫌いじゃない」
回りくどい言い方をするなあと思ったけど、場の空気を明るくするためだと理解していた。
このときは。
「えとえとえっと、あ、朝倉くん?」
頭の中で泳いでいる記憶という魚が浮上してきた感覚。ようやく思い出した。
「そう。朝倉哲也。それがぼくの名前だよ」
にっこり笑って正解を示す彼――朝倉くんはそう言って、すでに背表紙から手を離してしまった、私が読みたかった本を本棚から引き抜き、そのままカウンターに向かう。
えっ? 会話はもう終わり?
「ちょっと、待ってよ! 私もその本読みたいんだけど!」
図書室だというのに、つい大声をあげてしまった。
昼休みで生徒がたくさん居る中である。
朝倉くんは私の声に反応して、くるりと振り向いて「図書室では静かに」とひどく常識的に注意した。
「だって、手を離したよね?」
「普通、女性に譲るでしょ!」
「レディファーストの精神は持ち合わせていないんだよ」
「それでも、一言断っておくべきじゃあないの?」
「クラスメイトの名前を忘れるような無礼な人に、いちいち断りを入れる必要がある?」
それを言われてしまうと、ぐうの音も出ない。それでも私は本を諦め切れなかった。
「か、関係ないじゃん! ていうか印象が薄いほうが問題でしょ!」
こうなったら逆ギレである。
普通だったらストレートに怒られてもおかしくないことを勢いよく言うと、朝倉くんは困った顔をした。
「うーん、じゃあ、ジャンケンで決めよう」
朝倉くんの提案に、私は一瞬躊躇したけど「いいよ! ジャンケンしよう」と乗った。
「一回勝負で最初はグー、だからね」
「分かった! いくよ! 最初はグー、ジャンケンぽん!」
私が出したのはグー。
朝倉くんが出したのはパーだった。
「あ、ああああ、ああ……」
「じゃあこれはぼくが借りるね。読み終わったら言うよ」
それで話が終わりとばかりにカウンターへ持っていく朝倉くん。
正々堂々と負けてしまった……
ショックでその場に崩れ落ちてしまう。
「あーあ、せっかく見つけたのになあ……」
未練がましくそんなことを言って、立ち上がり、別の本を探そうと本棚を探索する。
あれは分厚い本だから、読むのに時間がかかるだろうから、なかなか返ってこないよね。
とぼとぼとオノマトペがしそうなくらいの歩きで本棚に近づくと「涼子、ちょっと!」と声をかけられた。
「うん? あきらちゃん。どうかしたの?」
そこにはクラスメイトで友達の柿本あきらが驚いた顔で私を見つめていた。
驚愕と言ってもおかしくない表情。
「あきらちゃん? 珍しいね。図書室に居るのを見たのは初めてだよ」
「調理部で作るお菓子の本を借りにきたのよ。それより涼子、あんた何を考えているの?」
あきらちゃんは太目のポニーテールを振り回しながら私に近づき、肩を掴んだ。
あきらちゃんは私より頭二つ分背が高い。それは女子にしては大きい部類に入るので、力もそれに比例して強い。
だから、掴まれた肩が痛かった。
「あんた誰に関わったか分かってるの!?」
「誰にって……朝倉くん?」
それがどうしたって言うんだろう?
ただのクラスメイト……だと思うけど。
「ただのクラスメイトじゃないわよ! 前に話したこと、忘れちゃったの!?」
「前に話したこと?」
あきらちゃんの話をいちいち覚えていたら広辞苑ぐらいの厚みの本が山ほどできるだろう。
そのぐらいおしゃべりで話好きの女の子だ。
もちろん、話半分に聞いていたわけじゃないけど。
「前ってどのくらい前? 随分昔だったら覚えていないかも」
「私も覚えていないけど、去年の冬ぐらいよ。私の作ったクッキーを食べながら聞いていたじゃない」
私と比べて記憶力も学校の成績も良いあきらちゃんは呆れながらそんなことを言う。
いや、そんな昔の日常会話なんて覚えていないし。
「気をつけるように、関わらないようにしなさいと言ったじゃない! あんたの記憶力は4ビットか!」
ビットって単位は知らないけど、なんとなく量が少ないのだろうと思った。
「ごめんごめん。じゃあ教えてよ今」
「……はあ、あんたって本当にのん気ね」
溜息交じりにそんなことを言うあきらちゃん。なんだか悪いことをしている気持ちになったけど、何がなんだか分からないので軽々しく謝れない。
「いいわ。教えてあげる。本来説明するって形でも関わりたくないんだけどね。涼子を見捨てるみたいで嫌だから、話してあげる」
本当に嫌そうに、あきらちゃんは話し始めた。
「あんた疑問に思わなかったの? あれだけ騒いだのに、誰一人としてあんたらを注意しなかったのを」
「うん? そういえばそうだねえ。それってどういうことかな?」
私の頭が悪いせいか、何を言いたいのか分からないので訊くと、あきらちゃんは「注意するって形でも関わりたくないのよ」と答えた。
「何が何でも関わりたくない男。この学校においてもっともアンタッチャブルな学生。教師もなるべく関わりたくないと思っている生徒。それが朝倉哲也という男よ」
うーん、話が大きすぎて、どう凄いのか伝わってこなかった。
「はあ、凄いんだねえ」
「凄いってあんた……本当にのん気、いやのうてんきだわ……」
呆れを通り越して最早感心の域に達しているみたいだ。
「その人、何したの? 悪いことでもしたのかな?」
「いえ、一切していないわ。でも良くない噂は聞くの」
あきらちゃんは周りを見渡して、恐る恐る言った。
「直接関わっていないけど、この学校で起きた事件に何らかの形で関係しているのは間違いないわ」
「事件? ていうか噂でしょ? 証拠あるの?」
信憑性が低いと思ったので問い質すと「それが尋常な数じゃあないのよ」と答えた。
「野球部の部室の小火事件やサッカー部の部員を大量に疲労骨折させたとか、眉唾な事件や具体的な事件まで、数々関わっているのよ。私が聞く限り、およそ三十は越えるわ」
野球部の小火事件は私も覚えている。警察と消防も来て大騒ぎになっていた。私が一年生のとき、季節は秋のことだった。
「あんたの言うとおり、証拠はない。けど、黒い噂は不思議と絶えないのよ」
冤罪、と言う言葉が頭に浮かんだけど、敢えて言わなかった。
「それに、朝倉のキャラの訳の分からなさも原因があるわ」
噂よりも何よりも一番聞きたかったことだ。正直、事件の黒幕だなんて話がでかすぎてついていけない。
「世界がどうだとか、人間はどういう風に生きるべきだとか、とにかく哲学みたいなことしか話さない。さっき話した感じで分からない?」
回りくどいと思ったけど、哲学的かどうかは判然としなかった。
「それは別に悪いことじゃないと思うけど。ちょっと中二病入っている感じでしょ?」
「はあ……あんたねえ。じゃあ四六時中訳の分からないこと言われてみなさいよ。頭おかしくなるから」
それは想像もしたくない。
「とにかく、朝倉には関わらないことね」
そう言うと、あきらちゃんは踵を返す。お菓子の本を探そうとするのだろう。
「ちょっと待ってよ! そんなに有名人だったら、自己紹介のとき、何かみんなからリアクションがあっても良かったじゃん」
私はずっと疑問に残っていた。クラスの最初の授業、そこで行なわれた自己紹介で何らかの反応があってもおかしくない。
だったら印象に残ってもいいはずだ。脆弱な記憶力しか持ってなくても覚えていられるような、強烈なインパクトがあっても良さそうなのに。
「あんた、さっきも言ったでしょ」
本日、何度聞いたか忘れた、あきらちゃんの呆れた声。
「関わりたくないから、みんな反応を殺したのよ」
「…………」
「同じクラスだってことでもリスクがあるのに、それをハイリスクにする馬鹿はいないでしょ」
あきらちゃんは真剣な顔で「気をつけなさいよ」と言い残して、本棚の奥へ行った。
「うーん、だけど、悪い人じゃあないと思ったんだけどなあ」
私の気のせいだろうか?
まあ、それはそうとして、何か代わりの本を探そう。
私が読みたかった本。
題名はもうすっかり忘れてしまった。