2人の奏者は夢が尽きない
控え室の鏡を最終確認として覗き込み、私は小さく頷いた。
「よし…!」
美しく結われたアップの髪に、照明映えするよう施されたメイク。
スタイリストさん達に着付けて貰った水色のドレスも、華やかさと同時に年齢相応の落ち着きが感じられ、申し分無しと言えた。
私こと浪切茉莉は、今や一児の母だけど、美容には細心の注意を払っている。
堺音大時代と変わらないスリーサイズは、密かな自慢だった。
「ここまで来たら、後は本番で万全を尽くすのみ…」
そう呟いた私は、デスクに置いた黒い楽器ケースを手に取ると、目当ての品を取り出したの。
松と楓の滑らかな感触が、私の手にピッタリと馴染む。
音大時代から愛用しているヴァイオリンは、掛け替えのない私の相棒だ。
ストラディバディウス程の高級品ではないにしても、大切な楽器である事に変わりはない。
「今日もお願いね。何と言っても、今日は私達の晴れ舞台なんだから。」
こうして呼び掛けたヴァイオリンを構え、私は静かに弓を当てる。
演奏するのは、「アメイジング・グレイス」。
今日のプログラムには入っていない、私だけのリハーサル曲だ。
SAYAKAホールに設けられた控え室に、ヴァイオリンが奏でる音色だけが美しく響いている。
「最初に覚えたのは、この曲だったっけ…」
1人こうしてヴァイオリンを奏でていると、様々な思い出が幻のように浮かんでくるよ。
私が初めてヴァイオリンを弾いたのは、小学生の時。
それから音大受験のために、中高生時代をレッスンに捧げて。
そうして堺音大に合格して、色んな奏者の友達と出会って。
堺音大を現役卒業したら、ヴァイオリニストとしてプロデビュー。
音大時代の同級生であるチェリストと結ばれ、一人娘に恵まれて。
産休中は家族の為だけに演奏していたけど、今は現役復帰。
正にヴァイオリンと共にあった人生だけど、私としては満足しているんだ。
「満足だなんて…まるで臨終の席の走馬灯じゃないの。」
苦笑を漏らしながらも、私の演奏は1音の乱れもなく、最終音節まで無事に駆け抜けたの。
今し方に行った演奏は、ヴァイオリンの調弦チェックと、私自身のウォーミングアップを兼ねた物。
誰かに聴かせる意図なんて特になかったんだけど…
「流石ね、浪切さん。今日も絶好調で何よりよ。」
控え室に鳴り響いた、賞賛のソプラノ声。
声の方を振り向くと、控室のドアが半開きになっている。
その向こうでは、清楚なピンク色のドレスを纏った美貌のピアニストが、軽やかな拍手を鳴らしていたの。
「聴いてたの、千恵子さん?」
ヴァイオリンをケースに戻した私は、先のウォーミングアップの唯一の聴客にして、今日のデュオコンサートのパートナーに向き直ったんだ。
彼女こそは堺音大が産んだ珠玉のピアニストである、笛荷千恵子その人だ。
早世した叔母の遺志と才能を継いでプロ奏者デビューの夢を叶えた、「鍵盤の聖女」の異名で称えられる美貌の名奏者。
そんな立志伝中の人である千恵子さんだけど、私にとっては音大時代からの仲良しな友達なんだ。
「うん、浪切さん。打ち合わせも兼ねて様子を見に来たんだけど、あんまり綺麗な調べだったんで、つい聴き入っちゃって。」
気品ある端正な細面に悪戯っぽい微笑を浮かべ、美貌の天才ピアニストは優雅に軽く頷いた。
天賦の才を決して驕らず、私を始めとする他の奏者の演奏を真摯に聴き、その音色を愛してくれて。
誰よりも音楽を愛していて、誰よりも努力家で。
そして何より、自分の夢に向かって、どこまでも真っ直ぐで。
そんな千恵子さんに憧れたからこそ、私もここまで来れたんだろうな。
最終の打ち合わせを済ませた私達は、大ホールに向かう廊下を進んでいた。
「関係者ルートで良い席をキープしたから、子供達の顔は舞台からでも視認出来るわ。うちの興奈ったら、『ママの晴れ姿を間近で見られるんだね!』って大喜びなの。」
千恵子さんも私と同じく、今では1人娘を持つ母親だった。
4歳になる長女の興奈ちゃんは、母親である千恵子さんのピアノを愛していて、コンサートには欠かさず来場しているらしい。
-娘が産まれたら、コンサートホールで生演奏を聞かせてあげたい。
そう言えば、これも千恵子さんが学生時代から描いていた夢だった。
そして何時しか、それは私の夢にもなっていたの。
「うちのマドカったら、興奈ちゃんに迷惑かけてないかな?」
「そんな事ないよ、浪切さん。興奈ったらマドカちゃんの事、まるで妹みたいに気に入ってるの。」
上手い巡り合わせがあった物で、私が産んだマドカは、千恵子さんの愛娘である興奈ちゃんとは同い年。
引き合わせてみたら、娘同士も気が合ったようで、今では家族ぐるみの付き合いに発展したの。
「でも浪切さんの事は、マドカちゃん以上に気に入ってるわ。興奈ったら、浪切さんのソロCDを何枚も用意してたから…後でサインに応じてあげてね。」
「お安い御用よ、千恵子さん。でも、そうなった以上、下手な演奏は見せられないよ!」
何しろ私は、小さなファンから名指しで応援されているんだもの。
そう悟った瞬間、私は新しい夢を見つけた事に気付いたの。
「今回のコンサートを成功させたら…今度は私達のコンサートの公開録音をやろうよ、千恵子さん!勿論、うちのマドカと興奈ちゃんも招待してね!」
それは正しく、私達親娘2組の記念になる夢だった。
「素敵じゃない、浪切さん!うちの興奈も、きっと喜ぶわ!」
この提案には千恵子さんも乗り気ならしく、両手を挙げて大賛成だった。
だけど今言った夢は、私と千恵子さんが今日のようにあるからこそ、思い描けた夢なんだよね。
プロ奏者としてデビューして、結婚して娘を授かって。
そして何より、今に至るまで友情を保ち続けて。
それらの夢を叶えたからこそ、こうして私達は新しい夢を育めるんだ…
これまでの人生は確かに満足だけど、私達の夢に終わりなんてない。
1つの夢を叶えても、それは決してゴールじゃなく、また新しい夢のスタートラインでしかないんだ。
だけど、私達が夢を叶えようと思える限り、同じ夢を共有してくれる人がいる限り、どんな夢も必ず叶える事が出来る。
「その為にも、今回のコンサートで子供達に最高のステージを見せてあげようよ、千恵子さん。」
「ええ。その意気よ、浪切さん。」
千恵子さんの上品な微笑みを見ていると、そう思えてきたんだ。
これからも一緒に夢を叶えていこうね、千恵子さん。