リモートの世界
本来なら五十人以上の人間が仕事をしているはずの都内のオフィスは、点けられた電灯もまばらで、一見パニック映画の人類の消えた世界かと思ってしまうほど異様だった。
かれこれ三年こんな状態だ。
数年前に世界的に流行した感染症は結局根絶には至らず、そればかりか一旦沈静化するかに見えたウイルスの毒性はここ数年で増している。それに呼応して、リモートやVR、人を介さない流通やサービルの発達で、外に出なくても済む技術が確立して、外に出るのはただの物好きだけになった。そういう自分もどちらかではなく、本当の物好きだった。
とはいえ、ワクチンが開発された今、蔓延するウイルスが怖くて外に出ない人はほぼいない。どちらか言えば、出なくいいから出ない。外に出なくても事足りてしまう社会の仕組みに多くの人間が順応してしまったのだ。
今では、学校すらリモートにしようとする議論が国会にされているのだから、実際の学校にちゃんと通っていた自分としては異常に思えるが、それが時代なのかもしれない。
昼間だというのに薄暗い、広いオフィスに自分は一人だ。最近は誰も来ないので、守衛に頼んで鍵を開けてもらう。その守衛も今では電話対応で姿もない。
こんな場所、家賃払うだけ無駄だと思うのだが、リモートを行うにも結局セキュリティを万全にしたマザーコンピュータが必要らしく、どうしても箱は必要らしい。勿論、ただのコンピュータを置くだけならオフィス自体はいらないはず、でも、このオフィスを貸している会社も全くビルからオフィスがなくなってしまっては家賃収入がなくなるので、値下げをそのまま借りてもらっている状態らしい。
数年前、ここで毎日電車に乗ってやってきてはパソコンを通して顧客とやりとりして、電車を使って帰る生活だった。それが今では家で全ての仕事ができる。だったら、自分が仕事をしていたここって何だったんだと回顧するけれど、自分にとってはここは楽しい場所だった。
仕事場を楽しい場所というのは間違っているかもしれない。けれど、通いたくもない大学をどうにか見返したくて努力して入社したここは、自分にとって天国だった。がんばればその成果が評価にも給与にも、さらに周りの人間のスキンシップにも影響する。
自分はここでは人並み以上に輝けていたのだ。
それが今ではどうだろう。誰がやっているか分かりづらい仕事が増えた。幸い、給与は減ってはいないけれど、上からはなぜか効率を求められるようになった。そのくせ、ちゃんと早く終えようとすると、本当にやっているのかと言われる。疑うことばかりが増えた。
そんな自分はこの誰もいないオフィスで、家から持って来た会社から支給されたノートパソコンを開いて仕事をしていた。会社のパソコンはすでに撤去されている。だから、今このオフィスに並ぶのは無機質な机だけだ。そして、一〇〇パーセントテレワークの現在、どこで仕事をやっても実際注意はされない。
定期代も廃止されたので実費で来たが、思いの他、仕事が捗る自分がいた。
そんなときに、自分のパソコンに会社内で使っているテレビ会議用のアプリに着信を知らせるコメントが浮かんだ。
「はい、こちらは宮下」
自分はいつもの感じで応答する。
「おお、こちらは小谷、音声良好」
小谷と名乗ったその男は画面越しに右手を揚げて挨拶する。ちょっと前の中間管理職を漫画で描いたような風貌の小谷は今年の人事で自分の上長になった人物だ。
「どうしましたか、小谷課長」
「すまん、前回の会議で使った決算書の直し、どこにある?」
僕は一瞬黙るが、沸き起こる感情を抑えて、「それはですね」と話し始めた。
もう五十近い小谷課長は、最近課長になったのはそれまで自分の上長だった四十そこそこの課長が突然退職したからだ。退職理由も原因も知らないが、自分の入社当時の指導員で本当にお世話になった。いなくなったと知って、メールでは失礼とは思ったが、一本だけメールを送ったがその返信はいまだになかった。仲間とお酒を飲むのが好きな課長で、自宅でのリモートワークが逆にストレスだったのではないかともっぱらの噂だが、自分はそれが原因だと思っている。
ずっと家にいて、それで仕事ができるなんて、その人は心も機械になっていると僕は本気で思っている。
そんな後釜の小谷課長は、正直言えば年功序列で課長になった節がある。特に技術に長けているわけでもなく、実績が高いわけでもなく、そこそこ結果を長年作っていた。いわゆる会社では怒られないが、下の成長を妨げるので会社が扱いに困る社員だ。
ご多聞に漏れず、この課長はパソコンに疎い。
自分も良くないが昔から頼まれたことは文句を言わずに(腹の中では必ずと言っていいほど悪態はつくが)仕事を引き受けるので、こういう自分でなくてもいいことを聞かれることが多い。
「ああ、そこにあるのか、ありがとありがと、いやー、何年やってもコンピューターには慣れないな」
と「あははは」と笑うが、その後ろで奥さんらしい人がその笑い声に顔をしかめているのが見えた。
「宮下、そこ、自宅じゃないよな?」
と急に気づかなくてもいいことに気づく。
「あ、まあ」
「西新宿か?」
「………」
社歴が長い人間はかつての本部オフィスのことを『西新宿』と呼ぶ。
「懐かしいな、誰かいるか?」
「………誰もいませんよ、いるわけないじゃないですか、自分だけです」
そして、間髪入れずに続ける。
「気分転換です。ちょっと家だと集中できなくて」
僕は苦笑してみせた。
「気分転換、分かるな、意外と家だと集中できないことがあるんだよ」
と、小谷は画面に顔を近づけながら小声で話す。やや後ろを警戒するように。
本当にこの課長は単純で良かったと思った。
「今日も朝から、あれ片付けて、これ持ってって、俺は小間使いじゃないって。でも、家の中の男手って、そういうところで重宝されるんだよな。無視されるよりは、少しでも使ってもらっているほうが安心するというか、生かされているっ感じがするな」
要件が済んだらさっさと切ってほしいと思いつつ、上長の手前、そんなことは言えない。
「ほら、この前、宮下の同期が結婚したろ、えっと、なんだっけ、名前」
「大平です」
「そうそう、大平。結婚式には参加したのか?」
そう言われて、自分は思い出し笑いで吹き出してしまった。
小谷が不思議そうな顔をする。
「はい、文字通り、参加しましたよ」
僕の同期は全部で五人で、その中で男子が自分と大平だったこともあり、入社当時はよく一緒に飯も食べたし、酒も飲んだ。たまたま出身地が近いことともあって、以前からの友達だったかのように親しかった。お互いの家も行き来する仲だった。
ただ、それも三年以上前の話で、今では時々リモートでパソコン越しに酒を飲むのが関の山だ。
本当にこの新しい生活というのは、自分がこれまで楽しみにしていた多くのものを奪っていった。だからこそ、複雑な思いはあれ、大平の結婚式に呼ばれたのは本当に嬉しかった。久々に本人に会えると思っていた。
しかし、それは結局覆される。
そして、その予感は郵送されてきた結婚式の案内状から感じていた。
普通ならば、欠席や出席のみを記入させるところ、自分は目を疑ったが、出席が二つあり、①直接、②リモートを選ぶ形式になっていた。
時代はそこまで来ているのかと思った。わざわざ本人に会わずに結婚式にパソコンのリモートの機能を使って参加しようというのか。後で、封筒に入っていた他の案内を読んだが、結婚式のとき持参するご祝儀の郵送または電子マネーでの決済方法が載っていた。ご祝儀を郵送するなんて、人はそこまでに変化に順応しているのかと怖さを覚える。
そして、自分は①直接を選んで、当日を迎えた。
自分は戦々恐々としながらも、まだどこかで世の中は自分の味方であると信じていた。電車の中も人は減ったとはいえ、載っているし、街を歩けばかつての渋谷ほどの人込みではないけれど、一〇九に向かい人はそれなりにいる。やはり、美術館やアパレルなど、直接見たい、触れたいという願望は抑えられない。
勿論、結婚式の一ヶ月前くらいに、結婚式場から「直接のご参加でよろしいですか?」という確認がわざわざ来たときも、まさかそんなに直接参加の人が少ないのかと勘ぐってしまったが、結婚式場とはそのくらい丁寧なところなんだろうと思い込むことにした。
しかし、実際は自分の予想の上を行っていた。
列席者が三十人満たない小さな結婚式にするとは聞いていたとはいえ、結婚式場なのに誰もいなかった。そもそも受付に誰もいない。自分は途方に暮れて、ロビーと入り口を何回か往復したが、あるのは入り口に掲げられる本日の結婚式とその新郎新婦の名字の書かれたボードだけ。
このボードに大平の名前があるから、結婚式は確かにここで行われるはずなのだが、どこに行こうにも関係者以外立ち入り禁止の立て札ばかりで、自分は結局ロビーのソファーに新郎である大平にメールを打つことになった。
その数分後、ようやく自分に気づいた結婚式場のスタッフが慌てたように駆け寄ってきて、「直接参加の方ですか?」と聞くので、「はい、そうです」と、さもこともなげに言ったが、内心は猛烈な恥ずかしかの中にいた。それは怒りに似た恥ずかしさだった。
スタッフは平身低頭していた。「受付のスタッフがたまたま席を外していて」と小さな声が聞こえたが、聞こえないふりをした。
通された部屋は部屋というより小さな部屋だった。おそらく新郎新婦の顔合わせなどで使うくらいの規模の部屋だった。白地の壁に純白のクロスのかかった丸テーブルが二つ、天井は間接照明で薄青く、それだけならちょっとオシャレなダイニングぐらいだったが、正面に掲げられた百インチくらいのモニターがやけに目立っていた。
そのテーブルの左のテーブルに案内されて、スタッフはそそくさとどこかへ消えた。
そんな自分の登場を気にも止めないようで、右のテーブルにちゃんと結婚式仕様にめかし込んでいる二十代後半そうな女子二人が絶え間なく話し込んでいる。勿論、マスクはしているが、声はここまで筒抜けだった。
「本当にきれいだったよね」
「うん、実物見ておいてよかった」
などと言っているので、おそらく新婦の友人なのだろう。
そして、なにかのコネで直接会うことができたと思われる。
なら、自分は?と思ったが、自分は直接大平と会う勇気がなかった。会ってどんなことを声掛けたらいいか、正直浮かんでいなかった。「おめでとう」が一番無難かもしれないが、今自分の口から「おめでとう」を言う自信がなかった。泣きはしないが、悲しくて悔しくて、新婦の顔は絶対にまともに見れないと思っていた。
その後は当然のこと、全てリモートで行われた。
結婚式も披露宴も。自分たちはただ目の前のモニターを見ているだけだった。なんて楽な結婚式なのかと感動した。そして、なんて味気ない結婚式なのかと思った。
新郎新婦の親戚だけのチャペル、同行の撮影者がうまかったのかもしれないが決して人の少ないチャペルなのに淋しい感じはしなかった。でも、牧師が透明のマスクで現れたときは笑った。未だにこの透明のマスクが見慣れない。まるで私は余計ないことは言いませんよ、と口に衝立を立てているようで、それが結婚式の宣誓の牧師だからなおさら可笑しかった。
その後、自分は特に移動することなく、そのままの席で披露宴が始まる。ちゃんと暗転などの演出もあった。乾杯もあって、料理も出て、生い立ちビデオも流れて、事前撮影の来賓の挨拶もあれば、自宅から挨拶する者もいた。そして、結婚式によくある余興もモニター越しだった。とはいえ、限界はあるのだろう、新婦の友人が代表して歌を歌っていたが、これが最悪だった。事前に録音しておけばよかったのに、生を届けたかったのか(リモートの段階で自分はすでに生ではないと思うけれど)、モニター越しに歌う歌が背景の曲とずれて、それはそれは神経に触る歌だった。
それから、これは余談だが、結婚式にリモートで参加した家には真空パックされた料理とワイン一本、冷凍のケーキが届いたらしい。リモートの結婚式は費用が掛からなくて新郎新婦が丸儲けかと思ったが、そうでもないのだと、後日で気づいた。
僕は、このモニターから流れる全ての映像はすでにどこかで撮影済みで、自分は時間や日にちをずらして見せられているかもしれないと、勝手に思っていた。自分としては、仮にそうであっても全く問題ないと思っていた。結婚式場のスタッフが、聞いてもいないのに「新郎新婦とその御家族は、この同じ建物の別の部屋で披露宴を執り行っているんですよ」と、営業スマイルで言われたが、意味が分からなかった。物理的に隔たれたこの場所で、仮に同時刻に本当にどこかで誰からが生きていたとして、それに気づくことはできないし、それで一緒に生きていると実感できるのだろうか。
とはいえ、モニター越しの大平は元気そうで、いつもの大平で、普段仕事の上で同じようにモニター越しに顔を見ているはずなのに、ひどく懐かしく感じる。結婚してしまえば、もう気軽に一緒に飯を食ったり、酒を飲んだりはできない。ああ、こうもコミュニケーションとは難しいものになったのか。
「奥さん、初めて見ましたけど、きれいな人でしたよ」
僕がそう言うと、小谷課長が「へー」と言って、また、声を小さくする。
「でも、美人は三日で飽きるっていうからな」
何が言いたいのかよく分からなかったので、僕は黙っていた。
「そろそろ、宮下も結婚していい年だろ」
僕の右の眉がぴくりと動く。
「課長、それ、セクハラになるので、女性社員には絶対言わないほういいですよ」
「え、そうなのか、世知辛い世の中になったな…」
世の中が世知辛くなったのは相手のことをおもんばかる必要がなくなった技術革新のおかけで、この世の中が暇な時間ができると悪いことを考える人間で成り立っている以上、常に世知辛くなっていくのだろう。そして、どんどん人は生きづらく、ずるく、逃げるように陰に隠れて生きるようになるのだ。
「それでは、自分は仕事の残りをするので…」
「ああ、分かった。ありがとう」
暇つぶしか息抜きかで小谷が自分に声をかけたのは明白だったが、それも世知辛い世の中を生き抜くちょとした知恵なのかもしれない。
小谷課長がタバコを吸いに行ったのか、モニターを付けたまま立ち上がると、上は襟の白いシャツなのに(うちの会社はリモート中心になってからノーネクタイが基本になった)、下はまるでパジャマのハーフパンツだった。もしかしたら、本当にパジャマだったかもしれない。
そして、僕は課長とのリモートをぷつりと消した。
すると、今後は自分の携帯が鳴った。そこには見慣れた名前がある。
「あ、もしもし…」
さっきまで話題にしていた人物からの着信に、縁よりも闇を感じる。ただの偶然だけれど、まるで監視されていたのかと思う嫌悪感、でも、自分はいつものように電話に出た。
「ああ、宮下?元気か?」
「電話なんて珍しいな」
「いや、なに、今外に出てるんだ」
「ふーん」
と自分は何気なく答えた。仕事が完全なリモートになってから、完全な成果主義になった。だから、自分のような中途半端な成果の人間には監視が厳しい反面、例えば、大平のような優秀な人物は日中何をしていても咎められることがない。なぜなら、何をしていても成果を上げられるからだ。
「今、会社にいるんだろ?」
僕は心臓をわしづかみにされたような気分だった。
「人事部長にちゃんと伝えているんだろ、どこで仕事をしているか」
なぜ、それを知っているのか、という疑問よりも、自分が元のオフィスで一人で仕事をしていることを知られていたことの方が辛かった。恥ずかしさに近い、居心地の悪さと後ろめたさ、知られたくなったと本当に思った。
「偉いよな、ちゃんと報告してるんだろ」
「そういう業務命令だから」
「ワーケーションで、海外で仕事している奴もいるのに、偉いよな」
「………」
僕は黙っていた。
「そうそう、結婚式に来てくれて、ありがと」
「あ、いや…」
「あの後、すぐに新婚旅行やら決算やらで忙しくて話ができなかったから」
自分は別に話したいとは思っていなかった。このまま、話さないままなら話さないままでも十分に生きていけると思っていた。
「本当は直接、お礼を言わないといけないと思っていたんだ」
「……そうなんだ」
「後、やっぱり、俺も駄目だった」
と急に笑い出す」
「好きで結婚しても、ずっと一緒は辛いな。なんでなんだろうな、男だとずっといても苦じゃないのにな」
「…そうなもんか」
「仕事は仕事場でするのが一番だと、やっぱり俺は思うんだよな」
と言った瞬間、奥のオフィスの扉がかちゃっと音を立てた。そして、扉が開かれる。
僕は悟った。逃げられないと。でも、どうにかしなければいけない、そうしなければ僕は一生の傷を背負って生きていかなければならない。
しかし、次の瞬間、それでもいいかと思った。どうせ、リモートの世の中、自分のことを忘れることは簡単でも、覚えておいてもらうことの方が幸せなのかもしれない。仮に、それが負の記憶であったとしても。
扉から出てきたのは、大平だった。自分は自然と携帯電話を切っていた。大平が向こうから携帯を持った手を振る。もう一方の手には、ノートパソコンが張っているだろうカバンと、あきらかに缶コーヒーが二つ入ったコンビニの袋。
僕は泣きそうな笑顔で、手を振り返した。
そして、ちらっと右の床を見た。
そこには、オフィスについてすぐに脱いだスーツのズボンと、そこに重なるボクサーパンツが。
「あれ…」
そんな声が遠くから小さく聞こえる。
そして、僕はそのあとの言葉を聞かずとも知っていた。
『あれ…、そこ、俺の席じゃないか?』
その、声なき声を、僕は半裸のオフィスで冷たい椅子を感じながら聞く。
そうなのだ、ここはパンデミックの起こった人類の消えた街、自分は生きていると思っていて、実は死んでいたのだ。ただのガラスの向こうのリモートの存在、それが今、本当に壊れる。