2 私と彼と白い月
それから丸二日間、私は意識が戻らなかった…らしい。
その間、私はずっと夢の中で「渡瀬紗奈」の記憶をめぐっていた。
平凡な家庭に生まれ、父と母、それに妹の4人暮らし。
家族仲はそれなりに良く、金銭面でも何不自由ない生活を送っていた。
中高は思春期特有の色々に巻き込まれ、友達のいない学校生活を送っていたみたいだけど、大学卒業後は都心の小さなコンサルティング会社に就職し、それなりに忙しい毎日を楽しんでいたようだ。
29歳で交通事故で亡くなるまで恋愛経験はたった2回。
そのうちの1回はただの片思いだったから、実質は一度だけ。
その一度も、相手の男性に裏切られた上、結婚式のために貯めた預金を持ち逃げされるという最悪な形で終わりを迎えた。
もう二度と恋愛はしないと心に決め、これからの人生を自分のためだけに生きていこう、そう前向きに頑張っていた矢先の事故だった。
それにしても…なんてつまらない死に方をしてしまったんだろう。
事故前後の記憶はどうしても思い出せない。
普段滅多な事では酔わない私が、その日に限りベロベロに酔っていた事をなんとなく覚えている。
一人だったのか、それとも誰かと一緒だったのか、それは全く記憶にない。
千切れた映画のフィルムのように、断片的によぎる静止画。
コンビニで買った大好きなハッシュポテトを頬張りながら歩き出した帰り道。ふわふわとした足取りで踏み出した右足がなぜかもつれた。
持っていたポテトが包み紙からスルリと抜け落ちる。
慌てて受け取ろうとして一瞬周りが見えなくなった。
そこそこ人の往来のある狭い歩道。誰かの肩が私にぶつかる。
「あっ」と思った瞬間、私の体は道路に投げ出され……。
最後に見た光景は、目がくらむほど眩しいトラックのライトと激しいクラクション。
そこで私の…「渡瀬紗奈」としての人生は時を止めた。
ほんとにもう!!なんであんな死に方……っ!悔しいったらありゃしない!
そもそもたいして長くない足がなんであの時ばかり絡まったのか……。
ああそっか酔っ払ってたからだ…。くそ…なんであんなに飲んだんだ、私…。
それに、ポテト落とすまいとして車道に飛び出すとかとんだ食いしん坊じゃない。マジで恥ずかしい…。
私を跳ねちゃったトラックにもホントに悪いことしちゃった。
今からでも土下座して謝りたい……。
他にも迷惑かけた人とかいたら…ああ!ホント申し訳ない!!
家族はどう思ったかな…。きっと悲しませちゃったよね。
ホントごめんなさい。
そして現在。
私はこのロクシエーヌ王国北に位置する、ヴェルナー男爵領の下層階級街、いわゆるスラムでたくましく暮らしている。
名前は「ステラ」。今年で10歳になった。
両親はいない。
生まれたばかりの私は町外れの墓地の外れにぼろきれに包まれて捨てられていたそうだ。
運良く育ての親でもあるソフィアおばあさんが薬草を摘みに来ていなければ、きっと今頃狼の養分となって別の生き方をしていたことだろう。
ただでさえ貧しい暮らしの中、子ども一人養うことがどんなに大変なことかそれは幼い子供でもわかる。それを考えるとおばあさんには感謝しかない。今はまだ無理だけどいつか必ずこの恩を返したい。そう思っている。
「ステラ。起きたの?」
声をかけられ、自分が目を覚ましていたことに気がついた。
あれから寝たり起きたりを繰り返す私の側にアレンはずっとついていてくれたようだ。
「うん…。おはよう、アレン」
「おはよう、ステラ」
彼は優しく微笑むと濡れたタオルで顔を拭ってくれた。
「ねえ、アレン。きっとおばあちゃん心配してるよね。私、もう大丈夫だから早く家に帰りたい」
「ソフィアさんには伝えてきたから心配しなくていいよ。君がイモを追いかけて怪我したから、しばらく男爵様のお世話になるって言ったら呆れてた」
ククッとアレンが笑う。ヴッ……恥ずかしい。
「あんまり心配させないで。今度の事に限らず、君は落ち着きが無さすぎる。木からは落ちるし、川にも落ちるし、穴にも……。蛇には噛まれるしハチにも刺されるし、それから……」
「やめて!恥ずかしい!わかったってば!ごめんなさい!」
そう言って布団に隠れる。しょうがないじゃない、確かに注意力がなかったことは認めるわ。でもいろいろ好奇心に勝てない場面ってたくさんあるじゃない!
布団からそっと目だけを出す。
「反省してます……」
そう言うとアレンはニコッと笑って優しく頭を撫でてくれた。
アレンは私より二歳年上の12歳。
今から4年前の寒い冬の夜、スラムにやってきた新参者だ。
あの日は、連日降り続いていた雪がようやく止み、満月の輝く真夜中だった。
ドンッ!!
何かが扉にぶつかる音と馬の嘶き、馬車の走り去る音、ざわめく人の声で私は目を覚ました。
騒音や怒声の止まないこの地域ではちょっとの事では驚かないが、自分の小屋のドアである。さすがに気にしないわけにはいかない。
慎重に、近くにあったのし棒を片手に鍋をかぶる。
そっとドアノブに手をかけゆっくり回すと、何かの重みで内側に押される扉。
ヒッ!っと慌てて後ろに飛び退き慌ててのし棒を構えると、雪明かりがぼんやりと照らすそれは、人だった。
まだ幼い少年。マントのフードから覗くエンジ色の髪だけが、色のない景色の中鮮やかに輝く。
私はあわてて彼を小屋の中に引きずり込むと、慎重に外を伺い急いで扉を閉め鍵をかける。
ドアに耳を近づけると、馬の足音と馬車輪の回る音、人が走り回る音が聞こえた。
どうしてそんな事をしたのかわからない。
私は急いでその子の靴を脱がせると自分の足に履き、彼が着ていた外套をその身に羽織った。
そして彼に布団をかけて隠し、裏口から外に走り出た。
まっさらな雪に私の足跡がくっきりと残る。
遠く背後から「いたぞっ!」「こっちだ!」と言う男の声が聞こえ恐怖に足が震えた。
住民街を駆け抜け、墓地を抜ける。
徐々に深くなる雪が足を捉えて走りづらい。
静寂に包まれた森の中、ハァハァと自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
後ろから追いかけてくる大人たちの足は意外にも速くはなかった。
おそらく雪に慣れていないのだろう。
そのまま森の奥、おばあちゃんが絶対近づいてはいけないと言っていた崖の手前まで走り続ける。吸い込んだ冷気で息ができないほど肺が痛い。
それでも捕まるわけにはいかない。私は走り続けた。
森が途切れ、眼下にパックリと口を開けた大地が見える。
雪のせいで境目のわからない亀裂にギリギリまで近づき足跡を残す。
そして急いで靴と外套を脱ぐと勢いよく崖下に放り込んだ。
運良く外套が崖の途中に引っかかり、風にヒラヒラとはためく。
私は更に近くにあった岩を谷下に向かって押し出した。
両腕に抱えるほどの岩だけど、凍りついてびくともしない。
急がなければ足跡を追って男たちに追いつかれてしまう。
たいして重くはない自分の全体重をかけて強く押し出すと、岩は少しずつ崖下に近づく。
もう少し……あとちょっ…と……っ!
岩が崖下に躍ると回りの雪や枯れ枝を巻き込み一気に下に落ちていった。
急いで近くの木に登り下をうかがうと、追い付いてきた男たちが崖下を覗き込んでいるのが見えた。
「落ちたのか?」
「わからない……が、あそこに引っ掛かってる外套はそうだろう。この高さと寒さだ。どのみち助からない」
「……行くぞ!」
男たちは足早にその場を離れる。
完全に姿が見えなくなるまで見送ってから木から降りた。
体が震える。
それが寒さのせいなのか恐怖からくるものなのかわからなった。
第三話は明日投稿予定です。