帳を下げて光〜父編〜
雨が、降っている。
足許の水溜まりに、際限なく波紋が生まれる。
そうか、雨が降っているのか。
傘を差していなかった。
でも、どうでもいい。
右を向く、左を向く、雨だ、どこも雨だ。
行き交う人々は傘を差している。
私だけか、雨に打たれているのは。
だからなんだ。
スーツの下のシャツが肌に張り付く。
だからなんだ。
鞄の中の書類がびしょ濡れだ。
だからなんだ。
靴もぐっしょりと水を吸っている。
だから、それがなんだ。
私は人の流れと共に歩く。
何も考えずに、ひたすら。
と、電話が鳴った。
右ポケットが振動している。
…電話。
…だからなんだ。
いまは、いまだけは気分じゃない。
頼むから切れてくれ。
プツン
会社には戻りたくない。
このまま真っ直ぐ歩いていたい。
と、再び電話が鳴る。
また、電話だ。
…だからなんだ。
電話がいったいなんだっていうんだ。
理由があるわけじゃない。
ただの気分で出ないだけで。
しばらくしてようやく切れた。
しかし、またすぐにかかってきた。
三度目。
電話は鳴り止まない。
だから…
私は携帯を手に取った。
「もしもし」
一間をおいて返ってきた言葉を、私は理解できなかった。
流れる人々の喧騒は消え、雨足だけが強くなる。
頭上に広がる曇天、そこから垂れてくる無数の雨粒。
そんな崩れた天気の日に、妻が死んだ。
病院に向かう途中のことだった。
その日から、恐ろしく長い秋雨は始まった。
病室には息子が一人でいた。
私の方に目をやると、
「あんたが死ねばよかったのに」
とだけ残し、病室を出ていった。
私もそう思う。
妻の運命を私が背負えたらどれだけよかったか。
生きるべきは私ではない、間違いなく妻の方だった。
ベットの横に腰掛ける。
ぐったりと横たわった妻の身体。
顔は白い布に覆われている。
妻の顔が見たい。そいつを取ってやりたい。
そいつに触れてみる。無機質な布。
こいつを退かしたい。
息を吸う。覚悟する。
いや、できない、できなかった。
こいつを退かせば死を認めなければならない。私にはそれができなかった。
それでも、妻を見なければ。
この目で、はっきりとした死を。
ずっとわかっていたことだった、この日がいずれ訪れるのは。
妻にも、息子にも何も与えてやれなかった。
何もできやしなかった。
こんなことすらも、できないのか、私は。
もう一度、深く息を吸う。
妻を見る。
そして手を伸ばす。
私の中の妻の死を隔てているものに触れる。
伸ばした手を見て、初めて私が震えていることに気付いた。
もう一度、息を。
手に力を入れた。
そこには、妻がいた。
妻がいた。
妻の病室なんだ、当たり前だ。
それでも妻じゃないことをどこかで願っていたのかもしれない。
でも、妻だった。
妻だった。
私の中の何かが決壊した。
取り繕っていたものが全て壊れた。
外の雨は止むことなく、病室には年に似合わぬ泣き声が響き渡った。
これほどまでに、私は妻を愛していたのか。
流れて止まない感情が、痛かった。
この感情を受け止めてくれる人間はこの世にいない。
行き場を失った感情が私だけに渦を巻く。
そして容赦なく、現実として私に突き刺さる。
痛い、痛い。
死はあまりにも鋭利で。
そこから朝日が昇るまで、私は泣き続けた。
妻と出会ったのは、餃子屋だった。
変な出会い方をしたと、お互いよく笑っていた。
偶然入った店の、偶然座ったカウンター、些細な選択から生まれた未来。
小さな思い出が心地よかった。
餃子をつまみに話した夢。
星が好きだという彼女の話。
どれもちゃんと覚えている。
彼女の屈託のない笑顔も覚えている。
彼女の優しい匂いも覚えている。
彼女の太陽のような明るさも覚えている。
彼女の寂しさも、覚えている。
夜にだけ見せる弱々しさも、全部。
公園で静かに乾杯した夜。
それぞれの過去を肴にして飲んだ夜。
そこで知った彼女の病気。
なおも強く生きる彼女の姿。
酒の味がわからなくなった。
プラネタリウムにも行った。
北斗七星の逸話を知った。
星を見る時、少しだけ目が大きく開くことも知った。
車も買った。
星を見に行くためだけに。
テントも買った。
星を見るためだけに。
どれもこれも、彼女のために。
ある冬、雪が降った。
彼女は入院した。
友人がお見舞いに来ても、彼女はずっと笑顔だった。
それでも私にだけは弱さを見せてくれた。
私の胸で泣いて、でも私のことも気遣ってくれて。
彼女が長くはないことを知らされたとき、一緒にその夜は泣いた。
だから彼女が退院したときに、私はプロポーズをした。
そして万が一に備えて仕事を増やした。
万が一を考える自分が嫌だった。
妻を涙で溶かさせやしない。
そう誓って。
でも、それから妻が泣いたことは一度もなかった。
そして、無謀だと言われた、子供が産まれた。
流星。
妻がこの名前しかないと言って聞かなかったことを覚えている。
秋雨が明けて冬が到来した頃、誕生日にこっそりと望遠鏡を買った。
奮発だった。
本当に奮発だった。
でもそれ以上に喜んでくれて、むしろはしゃいでくれて、そんなことどうでもよくなった。
その夜は三人で星を見に行った。
1人用のテントにぎゅうっと詰めて。
全部、覚えている。
私が自暴自棄になったのは妻の入院が再び決まったころからだったと思う。
流星は中学生を迎えていた。
医者から聞いた残酷なまでの宣告が、私を仕事に駆り立てた。
それからは仕事、仕事。
自分の疲れさえ気付かないほど、やった。
だから何も見えていなかった。
私のエゴで何も見ていなかった。
そして、妻が死んだ。
次の年の秋雨は例年よりも二週間も長く続いた。
いま、息子の学校裁判を退席した。
そのまま墓に行く。
墓前。
妻の墓前。
柄杓に水をとり、妻にかけてやる。
墓を伝う水。
たまらなくなった。
私も柄杓の水を被る。
少しだけ、落ち着いた。
頭から伝ってくる水がスーツに張り付く。
既視感と共に、また、溢れてきた。
もう止められなかった。
私はまだ立ち直っていなかった。
流星にも向き合ってあげれてなかった。
柄杓の水を何度も被る。
何度も、何度も。
雨に降られるよりひどく。
私は、やっぱり馬鹿だ。
大馬鹿だ。
雨は私にだけ降る。
いや、あいつにも降っている。
やっぱり私は馬鹿だ。
バケツの中の柄杓を見る。
そうか、
柄杓の中の水は私のためにあったのか。
私はまだ何もできていない。
いつも自分の中でだけで戦ってきた。
流星に何もしてあげれていない。
望遠鏡、買い直そう。
そのまま私は会社に行き、辞職届を提出してきた。
そろそろ夜の帳が降りる。