第97話『She Has A Lot Of Potential』海畔で芽吹く思い
美しい乳緑色の夜景をその目の中に映していた葉月が、大きなキャップのつばと共にこちらを向いた。
目が合うと少し不思議そうな顔をする仕草があどけなさをより引き立てる。
まるで小学生だな……
「なんですか?」
「あ……そのキャップ、似合ってるなと思って」
「そんなわけないですよ。ブカブカですもん」
「いや、かわいいけど?」
その何気ない言葉と視線に、頬が一気に熱を帯びるのを感じた。
葉月は目をおよがせて、スッと夜景の方に顔を戻した。
「ん? どうした?」
「いえ、えっと……あ、そういえば今日ユウキって、親戚の会合とかで実家に帰ったんですよね?」
「うん、そうだけど?」
「じゃあ……『Blue Stone』は……」
「ああ、今日は晃に任せてるから」
「そうなんですね。このところずっと晃さんが?」
「そうだな。そのうち店、乗っ取られる感じ?」
「あは、今度行ったらスポーツバーになってて、NBAの試合が流れてたりして!」
「もうそうなったら、俺もその路線でいく覚悟はできてるけどな」
「あははは」
葉月は再び 大きなつばと共にぐるりと隆二の方を向いた。
「リュウジさん、私のために『Blue Stone』をお休みしてくれたんですよね? ありがとうございます」
「いや、俺が勝手にやったことだからさ。別に礼なんていらないよ」
「いえ、私のために色々準備してくれたはずです。リュウジさんのそんな完璧なジョギングスタイル見たのも初めてだし。考えてくれたんでしょう? それに……彼、なかなか来なかったから、きっと私と同じように、リュウジさんも待っててくれたんですよね……」
「いいって。それよりは、なんかね君の出陣式を見届けられて良かったなって感じだ。おめでとうって、言いたい気分」
「リュウジさん……ありがとうございます。私もホッとしたのもありましたけど、なんだかわからない感情が交錯して、何が悲しいのか、何で泣いているのかも……よくわかんない状態でした。少しパニクってたのかも……」
「そんな感じだったな。覚えてる? パパの胸で泣いたのを」
葉月がぐっと下を向いた。
「あー! ごめんごめん! またからかい過ぎちまった」
「いえ。本当はすごく不安だったので……彼が来るまでも、来てからも。それにね、やっぱり彼も怒ってたので、怖くて。ひっぱたかれたとしてもそれは覚悟の上……とか思いながら行ったんですけど、いざ目の前にするとやっぱり怖くて震えてしまって……あんまり覚えてないぐらい必死だったんです。そんな時にリュウジさんの姿を見たから、もっと涙が出ちゃいました。ホッとしたっていうより、救われたっていうか……だから本当にありがとうございました!」
隆二は頷いて、優しく微笑んだ。
「分かった。じゃあ俺も、葉月ちゃんのストーカーした甲斐はあったんだな?」
「ストーカーだなんて!」
「いや! 結構怪しかったよ、俺。マジで、警察に見つかったら絶対“職質”だろうなとか? 思ったもん」
「あははは」
ようやく本当の笑顔が見れたような気がして、隆二の胸も軽くなっていった。
「晃なんだけど」
「ええ。晃さん、いつも引き受けてくれて助かりますよね? やっぱり『Blue Stone』ほどの老舗のBarは簡単に閉められないでしょうし。晃さんもそう思ってくれてるんでしょう?」
「それがさぁ、アイツ、ちゃっかり俺に条件出してきてるんだぜ」
「そうなんですか? ギャラ交渉かなんかですか?」
「いや、もうちょっと踏み込んだ条件だな……」
「えー? 何だろう?」
「予想つかない?」
「私が考えてわかることなんですか?」
「まあ、そうだな」
「えー、全然わかんないですよ。晃さんもそんなに音楽はわかんないって言ってましたから、本当にスポーツバーにしたい、とかだったら、びっくりしますけど」
「ブブー! じゃあ答えね!」
隆二はにっこり笑った。
「次の練習に君を連れてくることだってさ!」
「え?! そんなことでいいんですか?」
「責任とってくれる?」
「もちろん! 喜んで!」
「じゃあ、決まりね! ただし! 体育館に来たら、もう正式加入は免れないと思うけど?」
「のぞむところです!」
「よっしゃ!」
隆二のガッツポーズが嬉しかった。
「もうこんな時間か……」
隆二がスマートウォッチから目を上げた。
「そろそろ帰ろう。送っていくよ」
そう言って、葉月の頭からスッとキャップを外して、自分の頭に被せた。
葉月が立ち上がって、借りていたパーカーを渡そうとすると、隆二は葉月の前に回り込んで、もう一度しっかりとその小さな肩にそれを引っ掛け直す。
「車に入るまでは、着といていいから」
そうぶっきらぼうに言って、葉月の前を歩き出した。
手足が長く、頭が小さくて完璧なアスリートスタイルの隆二は、本当にカッコよくてサマになっている。
葉月は、ポケットに手を突っ込みながら軽やかに歩いている隆二の後ろ姿を見ながら、小さな溜め息をついた。
こんな素敵な人と並んで歩いている自分が、滑稽に思える。
端から見たって、妹にすら見てもらえないような気がした。
こういう人って、どんな恋愛をするんだろう?
今までまともな恋愛をしてこなかった私には、想像も出来ない……
やだ、私ったら! なに考えてるんだろう!
急に恥ずかしくなった。
今日、 “恋愛ごっこ ” がようやく終わった。
だから、私は恋愛の通有性に興味がでてきたのかもしれない……
「ん? 葉月ちゃん、どうした?」
「あ、いいえ、何でもありません」
葉月は少し繕った笑顔で返した。
真っ暗だった海辺から、駐車場へ向かうまでのデッキスペースを、またコツコツと歩く。
フットライトが埋め込まれていて、等間隔に光の柱のように白く立ち上っている灯りが綺麗だった。
目がまだ慣れなくて、葉月は眩しいそうにそちらに目を向けた。
「あれ?」
等間隔のフットライトの中で、一つだけ暗いものがあった。
何気なくそこに近づいて、顔を寄せて覗き込んだ葉月が、大きく後ろにのけ反った。
「きゃーっ!」
葉月のその叫び声に、隆二は大慌てで彼女のそばに駆け寄ると、後ずさってバッと走りだそうとする葉月を塞き止めた。
「葉月ちゃん! どうした!」
葉月は、ものすごい力でしがみついて来る。
「おいおい! ちょ、ちょっと……」
そう言うも、パニック状態の彼女は全身の力を込めて隆二のウエストに手を絡めたまま、そこから逃げ出そうとしているようだった。
「ちょっと、落ち着いて! どうしたの? 何があった?」
葉月は隆二の胸に顔をうずめたまま、指だけ後ろ向きに指した。
「む……」
「む?」
「む……し」
「む? むし?」
葉月の頭が縦に動いた。
「ん? どれどれ?」
隆二は、また一暴れする葉月を胸にしっかりホールドしてから、その小さな影の正体を覗きにいった。
隆二は大きな溜め息をつく。
「はぁ……大丈夫だって。夜だから飛んだりしない。 それより……葉月ちゃんさ、ちょっとおとなしくしてもらえないかな……」
葉月は依然として隆二にしがみついたままだったが、その言葉に少し力を抜いたのがわかった。
「あー、なるほど。なかなか立派な『オオミズアオ』だな。虫嫌いの葉月ちゃんがいかにも不得意そうなのは解るよ。でも残念だな。よく見るとすっごく綺麗なんだけど?」
葉月は頭をブンブンと横に振って、依然、隆二から離れようとはしない。
「まあ、タマムシでもダメな子だから……この手の分かりやすい “羽モノ” は完全ノックアウトだろうな」
隆二は笑い出した。
「あーもう! 面倒な子だな! あははは」
そう言って、葉月をふわっと抱き上げる。
「はい強制連行します! 葉月ちゃん、もう虫は見えないから、顔あげなよ」
「うわ……高い」
隆二はまた大きく溜め息をついた。
「ようやく正気に戻ったか……ねぇ、葉月ちゃん」
「は、はい……」
「正直に言っていい?」
「……はい」
「あのね……」
葉月は首をすくめる。
「あ、叱られると思ってる?」
「あ……はい……」
「そっか。それはやっぱり女バスで培ったスパルタ監督との関係性のせいかもしれないなぁ……」
「はぁ……」
「叱りはしないよ、君はもう高校生ではないしね。ただ……パパはちょっと心配だよ」
「……パパ?」
「フェスの初日からさ、渡辺にちょっかい出されて、俺は君がどうなったかをユウキから聞いただけだったけど、翌日の現地リハでメンバーと初対面したときの葉月ちゃんを見て、これはマジでヤバいかもって、危機感を覚えたよ」
「……すみま」
「ストップ! そんなこと、謝らせたくて言ってるわけないでしょ? 聞いて。葉月ちゃんは20才の女性だよ。そりゃいつまでも純真なままでいて欲しいって俺も無責任にいつも言ったりするけどさ、でも例えば今日の公園で、ヤツが君を置き去りにして、そこで無防備に泣いてる君がいて、実際そんな君をどうにかしてやろうって笑いながら声を掛けようとしてきた野郎が居ただろ? もし俺が見てなかったら? そう思うとゾッとするんだ。そうだろ?」
葉月は黙って頷いた。
その申し訳なさそうな、なんとも言えない横顔は、本当に小学生みたいで、これ以上話を詰めるのを躊躇わせる。
なんなら、今彼女を責めたことすら後悔してしまいそうなくらい、儚げだった。
「虫もホントに怖いんだろう。俺もそういう女性の行動は見たことがあるけど、でも今のこの状況、どうよ? 俺が “パパ” じゃなかったら、君はどこに連れていかれると思う?」
彼女の身が固くなったのがわかった。
もう、この辺にしておいてやろう。
彼女も、今日はひとつ大仕事をこなしたわけだし……
車の脇で、隆二は葉月をそっと下ろした。
「葉月ちゃん、すっかり黙り込んじゃったな……ごめん。俺はさ、心配なだけなんだ。いつも健やかで楽しそうに笑っている葉月ちゃんと、冗談言いながら笑っていたい。だから辛い目に遭って欲しくないんだ。解ってもらえる?」
葉月は頷いて、開けてもらったシートにまたゆっくりと体を埋めた。
車に乗り込んだ隆二は、元気のない彼女の表情を何とかしたくて、エンジンもかけずに言葉を探した。
葉月がおずおずと口を開いた。
「同じような事を……」
「え? ああ、うん」
「ユウキとキラさんに言われました。心配だって……私ってダメですね。自制心が成ってないんでしょうか……確かに制御不能になることの多かったフェスでした。心臓のスペアが欲しかったくらい苦しくて、でも素晴らしくて……大人ってそんな中に居ても、何を感じていても、動じることなくスマートで、私も自然とそうなれると信じていたんですけど……むしろこの所、逆走してるみたいな……」
渡辺が会ったばかりの人間に興味をもって、親身になってその子の健やかな笑顔を願うなんてこれまでには無いことだ。徹也しかり、ユウキしかり、そんなことを言えば俺が一番、意外なんじゃないのか?
隆二が葉月の手を握った。
「え? リュウジさん?」
みんなが彼女の感性と人間性に惹かれているのに、今俺が言おうとしていることは、彼女のその感性を安全という名の泥で平坦に塗り固めようとしているに過ぎない。
壊しちゃいけないんだ、この感性を。
「前言撤回!」
「……どういうことですか?」
「だってさ、渡辺やユウキは、どうせ優しいコトバで君の事を心配だとか言いながらにじり寄ってくるわけだろ? 俺だけバカ正直にオニ監督風に接したら、葉月ちゃんはヤツらになびいちゃうじゃん! そんな役回りは損だからね!」
「え? なびく?……役回りとは?」
「俺は葉月ちゃんの王子様候補で居たいってこと! もうパパも返上だ!」
「なんか……話の展開が早くてよくわからないですけど、リュウジさんは充分王子様ですけど……」
「へっ?」
「だって、パパにはこんなに緊張しませんし、ドキドキしないし……あ、うちのパパなんて楽器も出来ないし、歌も音痴で……お腹もちょっと出てきてるし、ちょっと腰をやっちゃってるので、私を抱っことか、出来ないと思うし……」
隆二はバッと口を押さえた。
「葉月ちゃん……もうダメ!」
「え? リュウジさん?」
「ごめん」
「どうしたんですか?」
「ごめん……しばらく、笑ってもいいかな?」
隆二は彼女の許可を得る前に、身をよじって笑い出した。
「あはははは! ヤベェ、マジで腹痛い……ごめん、そんな顔になるわな! あーでも……ダメだ、それも笑える。あははは」
葉月はキョトンとしながら、笑い続ける隆二を見ていた。
笑われているのは自分であるにも関わらずちっとも不快じゃなく、むしろ温かみを感じた。
そしてこの人がずっと笑顔でいてくれたらいいなと素直に思えた。
そっか!
リュウジさんも、私に対してこういう気持ちでいてくれているんだ。
そう気付けたことが、宝物のように思えた。
葉月は大きく息を吸う。
「リュウジさん! もう気が済んだでしょ。今そんな笑わなくても、どうせ私はいつでもリュウジさんに笑いを提供しちゃうことになるんですから!」
「そうなの? そりゃありがてぇけど!」
まだ笑っている隆二を、今度はしっかり見つめて言った。
「あと……本当にありがとうございます。公園で助けてくれたり、元気付けるためにこんなに素敵な夜景を見せてくれたり……感謝してます」
隆二は頷いた。
「でも、感謝だけ? 止められない思いとか、溢れちゃったりしなかった?」
そう言ってまた艶かしい瞳で覗き込む。
「だって、パパにそんな顔、見せないよな?」
「キラさん?」
「は?」
「なんか、セリフがキラさんっぽいです」
「は? なんで! アイツと俺はそもそもタイプも発想が違うんだぞ! 心外だな!」
「そうですかね? 『トムとジェリー』はいつも息ピッタリだと思いますけどね!」
「またその話かぁ……勘弁してくれよ」
葉月は、照れたような居心地の悪そうな隆二の顔を、幸せそうな表情で見ていた。
「なんだよ! そんな顔でじっと見て」
「あはは。パパに見せないような顔をしてみただけです」
「え? たまにそうやって大人をドキッとさせないでよ。さあ、帰るぞ!」
隆二はエンジンをかけた。
「ママにメッセージ、送らないと!」
「遅くなったから怒られる? なんなら俺から、訳をちゃんと話そうか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「どうしたの?」
「いきなり、生リュウジさんの生訪問があったら、ママ、心臓マヒで死んじゃうかもしれないので……」
「はぁ?」
「……あ、お恥ずかしいんですが、ママ、インスタのリュウジさんにハマっていて……」
「えっ!? あ……俺はどうコメントしたらいいんだ?」
「あ、ファンサービスの一貫として、母をよろしくお願いします」
「……なんかもう……変なことになってるよな」
「あははは。確かに!」
「笑い事じゃないぞ!」
「すみません」
「……さっきの仕返し、してるんじゃない?」
「……ちょっと、してます……」
「もう! やっぱり!」
彼女を家まで送ると、玄関先で待っていた彼女の母親は手で口許を覆いながら、声を殺していた。
裕貴の言う通り気さくで天然なお母さんで、彼女が真っ直ぐ育ったのもよくわかる。
“生リュウジ” の手をなかなか離せないお母さんを、可愛い人だなと思った。
葉月はそれを半分苦笑いで、でも微笑ましく見ながら終始笑っていた。
一人で乗り込んだアストンマーチンの狭いはずのコックピットが、今夜は随分だだっ広く無機質に感じられた。
葉月の存在感を再確認する。
今日はあんなことがあって、泣き顔も見た。
母と二人手を振って見送ってくれた最後の笑顔に心底安堵し、自然と笑みが溢れる。
まさか俺、ハマってるのか?
ここ数年、まともに恋愛をしてこなかった。
『エタボ』のレコーディングや全国ツアーもあって忙しかった。
確かにそれはある。
でもそれを理由にして、心を揺さぶられる事や、感情に煩わされる事から逃げ続けていたのかもしれない。
すっかり疲れ切った、あの3年前から……
第97話 『She Has A Lot Of Potential』海畔で芽吹く思い
ー終ー




