第9話『A New Wind Blows』新しい風
葉月が窓に目をやると、オレンジ色を帯びた陽の光が優しく差し込んできていた。
数時間かけて作成した資料を親友に送信すると、ぱたんとパソコンを閉じ、時計を見上げる。
今日も陽が傾くのを、心待ちにしている自分がいた。
夕方に街に出掛けることにも幾分慣れてきたようで、今日も軽やかな足取りで家を出た。
いつものように『Blue Stone』の看板を仰ぎ、 薄暗い階段に足を下すと心地良ささえ感じる。
赤い両壁にかけられたアーティスト写真も、隆二に教えられて誰だかわかるようになってくると楽しくて、毎回挨拶するような気分で一段一段階段を下りていく。
お酒は……強くはならないような気がするけど……
バスケに誘ってもらってから隆二とはグンと距離が縮まった気がした。
実際、バスケの話を人と交わすのは、高校の現役のとき以来だった。
仲の良い親友であってもさすがにNBAで盛り上がることなど皆無で、まして趣味が合う男の人とそういった話をしたのは、ひょっとしたら生まれて初めてだったのかもしれない。
「しかも! 『Eternal Boy's Life』の、あの武道館ライブの!
あのアルバムの! ドラマーだったなんて! 信じられない!」
思わず心の声が漏れる。
この週末は、エタボのすべてのCDを引っ張り出してきてずっと聴き浸っていた。
ベースのトーマの音にからむ隆二のドラムのフレーズが、一層際立って聞こえてくる。
ライナノーツの後ろのレコーディングの欄には、どのCDにも “Drams: Ryuji Mizushima” と書かれていた。
「あんなにいっぱい冗談を言って私を和ませてくれる人が、実は凄いアーティストなんだって思ったら……なんか緊張してしまいそう……」
しかしカウンターを挟んで話していると、そんな大物感を全く感じさせない隆二を素直に好きだと思う。
「頼りがいのあるお兄さんみたい……」
今週の後半になったら、夢のような 四日間を迎えることになる。
「憧れの『Eternal Boy's Life』に直に会えるだなんて!」
想像するだけで顔が火照るのを感じる。
今日もまたエタボの話を聞かせてもらえるかなと期待して、重厚な中扉に手をかけた。
いつもこのくらいの早い時間に行くと、『Blue Stone』のカウンター席は大概貸し切りだった。
中に入ってかかっている曲が分かった時は、ちょっぴり嬉しい気分になる。
今日も華やかな音楽に出迎えられ、いつものようにカウンターへ向かう。
「あ……今日は知らない曲だ……リュウジさんに聞こう」
そう思ってカウンターへ急ぐと、今夜は珍しく先客がいた。
カウンターの中に隆二の姿は見えない。
客を一人にしていることから、この人は常連なのだろうと思った。
いつも自分が座っている席の隣にその客人が座っていたので、葉月はそこから更に二つ右に空けて座るつもりで近付いた。
なんとなく会釈をしようと、そちらに顔を向ける。
「はっ!」
目を見開いて、引いた椅子の横に立ち尽くす。
「こ、鴻上さん……」
「久しぶりだね、白石葉月さん」
照明の下で見る彼はなんとも端正な顔立ちで、もし麗神女バス軍団に投入したら、ひどくもみくちゃにされそうな……そんな想像が頭に浮かぶ。
いや、私は何を考えてるんだろう……混乱してる……
「どうしたの? 突っ立って。こんな間近でそんなに熱い視線を送られたら勘違いしちゃうじゃない?」
そう言って葉月に向けられた顔は、花火に照らされて見たあの素敵な微笑みそのものだった。
「ほら、座ったら? あ、リュウジは今買い物に行ったんだ。僕じゃなんにも出してあげられないけど……もう帰って来るだろうから、ちょっと待ってね」
私……緊張している。どうして?
飲み物がないせいか手持ち無沙汰で、そして何を話していいかもわからなかった。
「あ、あの……ハンカチきれいに洗ってもらって、ありがとうございました」
鴻上徹也は椅子を回転させてこっちに向き直る。
「なに言ってんの、ハンカチを借りたのは僕の方でしょ。なんか改まってない? 久々に会ったからかな? まあそうだよね、俺たち、会うのは二回目だし」
またクルっと半回転して、グラスを煽った。
カラフルな花火の光に縁取られた影絵のようなあの時のシルエットが、また目の奥に浮かぶ。
飴色のカウンターに置かれた黒いコースターの上に、カランと音を立ててグラスを置いた彼との距離があの日よりも遠くて、寂しいような不思議な気持ちになった。
「こっちに来れば?」
彼は自分の隣を指差す。
そこはいつも自分が座っている席だ。
「あ……はい」
そこに移ると、不思議なことに心の距離も縮まるかのようで、わりと普通に話せた。
「リュウジの方が俺より君と親しいんじゃない? 何回か遊んでるって聞いたよ。バスケ出来るんだって?」
「まぁ高校時代にしてた、ってだけで……」
「いやでも相当強い女バスだったって聞いたよ」
「もう二年もやってなかったんで。でも久々にいい汗かいて、すごく気持ち良かったです」
「またやればいいのに」
「そうですね、とっても楽しかったので。鴻上さんもバスケ部だったんですよね? リュウジさんのチームに参加したりしないんですか?」
「ああ、僕はもっとブランクがあるからね。君と対戦したら負けそうだ」
「どうでしょ? バスケはいい勝負かもしれないですけど、私にはビルの屋上まで人を担いで上がるような体力はないですね」
「あはは、あれは久しぶりにキツかったな」
「なんか、すみません」
「いや、体なまってんなって実感したから、ちょっとは体を動かそうって思ったよ。イイきっかけになった」
「ホントですか?」
「だって、翌日は筋肉痛でバキバキになったんだよ? 二十代中盤であれじゃあなぁ……もと運動部の意地がすたるよ」
「そのフレーズ! あはは……」
「なに? そんなにおかしい?」
「だって、 “運動部の意地” とか言うから、もっとハードなスポーツを想像してたのに……」
「バスケ部じゃダメ? どんなの想像してたの? 重量挙げとか?」
「そうそう!」
「見りゃわかるだろ? そんな体じゃないよ!」
「ですよね? それなのに “運動部の意地” とか言うから……あはは」
「バスケ部って言ってたら断ってた?」
「少なくとも、もう少し気兼ねしてたかもしれませんね」
「なら言わなくて良かったんじゃん!」
「ですね」
彼と一緒に笑うのはもちろんあの日以来だったが、まるで旧知の仲の久々の再会のような安堵感があった。
一通り笑って少し落ち着いた時に、彼が言った。
「で? 彼氏とは仲直りした?」
予想外のワードに思わず口ごもってしまう。
「ん? どうした? 何か問題でもあった?」
「いえ……元々喧嘩も何も……」
「すごいな!」
「何がですか?」
「寛大だなぁと思ってさ」
「え?」
「だって花火大会すっぽかされてるんだろ? 普通、女の子は怒るでしょ?」
「まあ、そうですね。怒っていいのかも」
「なんだそれ? 遠慮してるとか?」
「遠慮かどうかは……分からないです」
「へぇ、そんなもんなんだ?」
「あ……感情がそんなにわかなくて」
「付き合ってるのに?」
「付き合ってるんでしょうか?」
「なんだよそれ?! 君は彼が好きじゃないの?」
「好き?……だんだんそれが分からなくなってます。あの日も深夜に連絡はあったんですけど、怒る気持ちも湧かなくて……」
「最初からそうじゃなくて、だんだんそうなったんじゃないの?」
「ああ、それはあるかもしれないですね」
「諦めていったんだね、きっと」
しばらく二人は沈黙した。
何かを思い出そうと、過去を探っていた。
「……情はあると思うんですけど、眠れないほど人を好きになったこととか……まだないから」
「そうなんだ」
「鴻上さんは? ありますか?」
「あるよ……あった」
「即答ですね! でも…過去形?」
「まあね」
彼は少し遠くを見るような目で言った。
「じゃあ、あの日……」
「あの日? 花火大会の日?」
「はい。見てる間だけ彼女になってって言った意味は、何ですか?」
「あー……アレね」
彼は息を吐きながら、少し天井を仰いだ。
第9話『A New Wind Blows』新しい風 ー終ー