第51話『Hide And Seek』かくれんぼ
裕貴の粋な計らいで、『ペントハウス』内のスタジオのPAブースに潜入した葉月は、アレックスの奏でるピアノに心を奪われていた。
透き通った水のような澄んだ繊細なフレーズから、情熱的なパッション溢れる突き抜けた自由なその演奏に心が解放され、幸せに満たされていた時、背後から防音ドアが開く音と共に “ 声 ” がした。
「コラ! 盗み聞きしてるなんて、悪い子達だな!」
その声に驚いて、思わず立ち上がりそうになる葉月の肩を、裕貴が掴んで止めた。
「ト、トーマさん……」
「シーッ」
「えっ! ト、トーマさん?! あ……ご、ごめんなさい」
「いやいや、こっちこそごめん! キラの真似してイタズラしてみたんだけど……驚かせちゃったな」
艶やかなバリトンヴォイス。
真っ暗でその姿が見えないのが、ある意味 “ 幸い ” とも思えるほど、その声は至近距離から聞こえてきた。
裕貴がアレックスのブースの音を少し下げた。
「実は俺も同罪」
「え?」
「君達と同じことをしに、ここに来たんだ」
「……そうなんですか」
裕貴が尋ねる。
「どうしてまた? トーマさんが盗み聞きなんて似合いませんよ」
「ははは、アレクが別アーティストのレコーディング抱えてて練習に来るのは知ってたんだけどな。いや、キラがどこにもいないから、もしやと思って来てみたんだが……」
その時、左側のスタジオの電気がパッと着いた。
3人は一斉に姿勢を低くして、サッと身を隠す。
「やっぱり。ここに来たか」
「え?」
葉月がそう言って、少し明るくなったブース内を振り向くと、思ったよりも近くに柊馬の顔があって、思わずサッとまた前を向いた。
葉月の位置からはスタジオの中は見えない。
「キラさん……ですか?」
「ああ」
裕貴が不思議そうに言った。
「キラさんが個人練習?! そんなタイプでしたっけ? あ、今回はギターの弾き語りがあるから、それでですかね?」
「いや、キラはライブのグルーヴ感重視だから、事前に作り込むようなことはしないんだけど……ただ、ここに来た日にもスタジオ覗いたらキラが居てさ、その時はさすがに心底驚いたけどな。聴いてみて更に驚いた。なんか、いつものアイツと違ってて」
「あ、そういえばシアタールームで夕食をとった時に話してましたよね。その前の時間にスタジオに?……」
「うん、そうなんだ」
「それって、キラさんが葉月に悪戯したあとですよね? “ 貴良 ” って名乗って」
葉月は下を向いた。
「そう。どうも、その時の君の言葉でヤツの心に火が着いたみたいだ」
「え?」
葉月は見えない暗がりに顔を向けた。
「私は何も……」
「キラがさ、君に “ 気付かされた ” って、言ってたよ。それまでヤツの中で、 “ 一塊だったファンの群れが、本当は一人一人のそれぞれの思いを持ってるんだっていう、そんな当たり前の事が判らなくなってたから ” って」
「キラさんって意外とストイックですもんね。武道しかり、実はかなり真面目なんじゃないですか」
「おお! ユウキ、よく見てんな。そうなんだよ。本人はそれがカッコ悪いと思ってんのか、隠したがるけどな」
「今もそうですよ。さっきからずっとギターの “ 運指の練習 ” してるじゃないですか。基礎を大事にする人だなんて、普段のキラさんからは想像つかないし」
「ははは、まったくだよ。で? アレクのピアノ、どう思った?」
「素晴らしいです! あんなに美しい音色……情緒的なのに、時にすごく情熱的だったり、少し寂しげだったり……私も少しだけピアノはやってましたけど、同じ楽器なのかなって思うくらいです。ホント、表情がありますよね、アレックスさんのピアノって」
「そうだろう。俺ら『エタボ』が、ただの無骨なロックサウンドじゃないのはアレクのおかげなんだ。アレクのエッセンスがあってこそ、洗練された曲に変わるんだよ。しかし、今弾いてるこの曲もイイよなぁ。一体どこのバンドでレコーディングするんだろ?」
「え? トーマさんも聞いてないんですか?」
「ああ。明日からレコーディングとだけ。どのバンドで弾いてるとかは、あえて聞かないようにしてるんだよ」
「なぜです?」
「うん……そうだなあ、ジェラシーかもな?」
「ええっ?! トーマさんにそんな感情があるんですか!」
「当たり前だろ。俺だって普通のミュージシャンだ。崇高なるピアニストを他のバンドになんて渡したくないよ」
「わぁ、情熱的だな。トーマさん、きっと今また葉月の目がハートになってると思いますよ」
「……ちょっと! ユウキ!」
「え? どれどれ」
暗がりから柊馬の声が近付いてきて、葉月の腕に何かが触れた。
「わっ!」
ガタンとぶつかる音がして、それが椅子だったと気付く。
「トーマさん、マジでキラさんの悪戯好きがうつってきたんじゃないですか? 葉月は今度はマジで倒れるかもしれないんで」
「わかったわかった! ごめんね」
「あ……いえ……」
息も絶え絶えなのを誤魔化しながら、葉月はそっと深呼吸した。
この狭い空間に『エタボ』のトーマと一緒にいるなんて……
邪念を必死で拭い去る。
「ユウキに言うことじゃないかもしれないけどさ」
柊馬が落ち着いた声で話し出した。
「リュウジのことも、アレクと同じように、思ってる」
「……そうなんですね」
「その調子だと、お前も色々考えてるんだろうな。でもお前もリュウジに、何も聞けないんだろう?」
「はい」
「リュウジがどういう意図でサポメンにこだわるのか、分からないわけでもないが……でも “ 正式メンバー ” っていう発想が、奴の中で一体何割あるのかっていうところは、正直、知りたいと思ってるよ。あとは、奴らのあれほどの才能をさ、ウチだけのものにしちまってもいいのかなぁって、漠然と思う時がある。奴らの可能性を封じ込めてしまうんじゃないかってな。だから今は、この関係性を壊したくなくて、なかなか切り出せない。なんかまるで恋愛の駆け引きみたいで、笑えるだろ?」
「いえ。すごく分かります、その微妙な感じ」
「そう? お前がリュウジに聞けないのと、同じ理由かもな」
アレックスの奏でる美しメロディーに重ねて、2人の思い深く温かい会話を聞きながら、葉月は目を閉じた。
真っ暗なPAブースの中ではその2人の表情は見えないけれど、その思いがその狭い空間に充満して、葉月の心までも熱くしていた。
「トーマさんもユウキも、リュウジさんのこと、すごく大切に思ってるんですね」
「まあ、そういうことかな」
「あ、キラさんが譜面台を広げたした!」
裕貴がそう言って『V-Studio』のボリュームレベルを切り替える。
マイクの高さを調整しながら、キラがギターを抱え直した。
やさしいアルペジオが流れた。
「この曲は……」
『I just want to feel you』
そう一言呟いた葉月の影を、暗がりの中、トーマは優しい目で見つめた。
I can't go on this way
With it strong everyday
気付いたのさ
I wanna be more than a friend
見渡す空が 終わりなきように
ボクの気持ちに 限りはない
You made my soul a burning Fire
止まらない思い
I just want to feel you
I wish that you were mine
I ain't going nowhere
明かりが灯る
All I do is think about you
心のままに 駆け巡る思い
ボクの鼓動が今 音をたてる
You made my soul a burning Fire
走り出した思い
I just want to feel you
キラの、すべてを擲って身体の真ん中から歌い上げる姿と、沸き上がるように響くその鋼のようなハイトーンボイスは、時に力強く、そして甘く、葉月の心を揺さぶり続けた。
胸が苦しくて切なくて、前後不覚のまま心は丸裸にされているような気持ちになり、葉月の鼓動は高鳴り続ける。
最後のアルペジオが終わっても、葉月の涙は止まらなかった。
幾筋も幾筋も流れ落ちるその涙は、薄暗いブースのかすかな光を反射して、裕貴と柊馬の目に映っていた。
さっきダイニングで感じたのと同じ、大きくて温かい手が、葉月の頭の上に乗せられた。
「どうだい? うちのボーカルは?」
「……最高に、素敵です」
「そうだろ? 見てよ、歌った本人も出し切った感じだ」
スタジオの中で、キラはアコースティックギターにもたれかかるように、体を前に倒しながら静かに佇んでいた。
「ミュージシャンにとっては、この余韻も大事なんだよ。二度と同じ歌は歌えないからね」
葉月は涙を拭いもせず、流れ続けるままに大きな目でキラの背中に視線を送った。
柊馬が裕貴の肩をバンと叩いた。
「あーあ、せっかく俺が勝ってたのになあ。こんな歌、聴かされちゃあ、キラの方に彼女の軍配が上がるのも時間の問題か?」
そう言って柊馬は笑った。
「じゃあ、俺は先に行くわ。ユウキ、うちの大事なファンをよろしくな!」
そう言ってもう一度、葉月の頭の上に手を置いた。
「じゃあね!」
柊馬が出て行くと、葉月の涙のスピードが上昇した。
「葉月……大丈夫?」
「どうしよ、ユウキ。涙が止まらないよ。分からない……悲しいじゃなくて、なんなの? この気持ち……苦しくて……」
ブースの床に座り込んだまま、しゃくり上げるように泣き始める葉月の肩に、ユウキはそっと手を伸ばした。
一瞬の迷いを押して、その手で自分の胸に引き寄せた。
小刻みに肩を震わせながら泣く彼女の背中に手を回し、そっと抱きしめる。
胸の中で小さな音がした。
不思議な感覚がスッと通り抜ける。
指先に伝わる葉月の呼吸を感じながら、彼女が、こんなに小さくて華奢だったんだと気付くと同時に、この儚なげな女の子を守りたいという思いが、裕貴の胸に静かに湧いた。
バタンという扉の音がして、2人は身を固くする。
「えっ!」
窓越しに『V-Studio』に目をやると、キラがギターを置いて、スタジオから退出したようだった。
葉月は我に返る。
「あ……ごめん! ユウキ」
2人は少しぎこちなく身体を離した。
「いや別に……ってか、葉月、大丈夫?」
「うん……もう、大丈夫」
「そっか」
いつもなら気の利いたことも言えるはずなのに、今日は言葉が出なかった。
「あ……やだなぁ、私、なんか感極まっちゃって! やっぱり、“ キラ ” の歌って凄いよね? 生で聴いたらどんな女の子でもこうなっちゃうよ。そう! それこそ、ほら、ユウキが言ってた、“ 骨抜き ” ってやつ?」
葉月は自分の顔から滴る涙を手の甲に受けて、慌てて顔を触って確認した。
「やだ! 恥ずかしい! めっちゃ泣いちゃってる。トーマさん、引いちゃったんじゃないかな?」
「葉月」
「なんか私、ドジばっかりで……どうしよう! ホント恥ずかしくなってきた!」
「葉月……」
「昨日も今日も、本当に……なんかうまくできなくて。ここで盗み見なんてしてるのも、トーマさんにバレちゃったりで……笑えるよね」
「葉月。もう無理して喋んなくていいから」
「……ユウキ」
裕貴は葉月の肩に手を置いた。
「恥ずかしがることなんかないよ。誰が聴いても、キラさんの歌、凄かったんだから」
「……うん」
葉月の肩から、すっと力が抜けていくのが感じられた。
第51話『Hide and Seek』 かくれんぼ ー終ー




