第50話『Set My Heart On Fire』ハートに火をつけて
『ペントハウス』に招かれ、絵にかいたような優雅な昼食になると思いきや、キラの発言で不穏な空気が流れ、波乱含みのランチタイムに消沈していた葉月だったが、バンドマスターの柊馬のちょっとした優しさを受け、すっかり放心していた。
「葉月……アンタさ、面白いくらい今日も散々よねぇ?」
「……アレックスさんまで、そんなこと言わないで下さいよ」
「まあ、でも今日は頑張ったじゃない。そこは認めてあげるわ。ちゃんとトーマにお礼言いに行くなんて、アンタにしてはすごい進歩!」
「でも、あと数秒長く話しちゃったら、倒れてたかもしれません」
「おやおや、それは穏やかじゃないわね」
2人はソファーに腰を下ろし、運ばれてきた紅茶を手に取った。
「実はアタシも気になってたのよね。キラじゃないけどさ、アンタ、どうしてリュウジについてきたの?」
「どうしてって……普通に私『エタボ』の超絶ファンなので……誘って頂いたらもちろん来たいじゃないですか? けどそれよりは、どうして誘ってくれたのかな? っていうのが、私も疑問で……」
「なるほど、もっともね。……でさぁ?」
「はい」
「さっきの話だけど、あんた、そのリュウジの親友のことが目当てで、そのバーに通ってたの?」
「まさか! そりゃお礼も言いたかったし、会えたらいいなとは思いましたけど、そもそもハンカチ返すのにも、連絡先は聞かないし教えもしない人ですからね。関心がないというよりは、誤解されたくなさそうだったんで」
「確かに変わったオトコねぇ。それってホントにアンタの気を引く作戦じゃなかったの? まあ、アンタだからそんな疑いすら抱かなかったんだろうけど?」
「違うと思います。その後に会ったのも、1回だけですし。しかも、自分の会社の個展があるからって、学生バイトを頼まれちゃって」
「なにそれ?! じゃあその彼は、別にアンタを探しにその店に来たわけじゃなかったってこと?」
「はい。会ったのも偶然って感じです。私も『Blue Stone』に行きだしてから、何か新しい世界が見えたような気がして、リュウジさんに新しい音楽を教えてもらって、何かちょっと大人になったような気持ちにもなって……それが楽しくて毎日行ってたんですけどね。基本、大学も夏休みですし」
「そっか、それを思えばリュウジとアンタが仲良くなるのも自然な話よね。しかもバスケ繋がりだって?」
「そうなんですよ。私も中高バスケ部を、わりとハードにやってたので」
「なるほど。リュウジは何気にバスケ馬鹿だから」
「そうですね。アメリカまで観に行っちゃったりとかするらしいですよね? NBA の話で盛り上がっちゃったことがあります」
「ジャズバーの店主とする話じゃないわね」
「あはは、そうですよね」
「それでリュウジがアンタのこと気に入ってるのか」
「……あれ? なんかそのセリフ。どっかで聞いたような……」
「どういうこと?」
「あんまり覚えてないんですけど……あれ? どうしてだろう? 酔っ払ってる時に聞いたのかな? 夢……?」
裕貴がグラスを持ってやってきた。
「アンタまさか、またコーラじゃないでしょうね?!」
裕貴が褐色の液体の入ったグラスを掲げる。
「コーラですが、何か?」
「だからいつまでも子供扱いされるのよ! 食後にコーラって!」
「ふふふ、なんかお母さんに怒られてる中学生みたい!」
葉月は2人同時に睨まれた。
葉月は周りを見回しながらアレックスに尋ねる。
「皆さんは、ライブの前日は練習とかしないんですか?」
「リハーサルは昨日たっぷりやったし、『エタボ』はよっぽどスケジュールがタイトじゃない限りは、前日はわりと各々好きなように過ごすっていうパターンが多いわね。トーマの方針なのかも。他のアーティストは、やっぱり前日のスタジオリハをやるところがほとんどだから、こういうバンドは珍しいわ。まあ自由にしていいよっていうのも『エタボ』らしいしありがたい話だけど、お酒飲めないんじゃあねぇ」
「アレックスさん、今日これからは?」
裕貴が聞いた。
「それがさあ、アタシ今、他のバンドのレコーディング抱えててさ、明日『エタボ』の本番が終わったら、すぐ帰んなきゃいけないのよ。それに今からも、せっかくのフリーなのにスタジオにこもることになるわ。残念」
「そうなんですか? 大変ですね」
「そう。サポメンは職人だからね。じゃあアタシ、そろそろ行ってくるわ」
「頑張ってください」
「ええ。あ、ユウキ! この子にキラを近付けちゃダメよ! じゃあね」
優雅に手を振って、アレックスはエレベーターホールの方に歩いて行った。
「アレックスさんと、明日でお別れなのね。……淋しいなぁ……」
「葉月、マジで懐いてんな。もうさ、アレックスさんに正式に飼育してもらったら? マジで子犬に見えてきた」
「もう! そう言うユウキだって充分、子犬要素あると思うけどね!」
「なんか笑えないな」
「あははは」
「葉月、それ飲んだらさ、合宿所に帰るよ」
「え? どうして?」
「もっかいスタッフTに着替えてもらうから」
「え、何で? なんか会場の仕事があるの?」
「やっぱり忘れてる、翼たちに怒られるぞ!」
「あ!」
「そう! 夕方にさ、彼女たちが帰ってきたら バスケットしよう!」
「ヤッター! やりたいやりたい! 久しぶりに」
「へぇ、やっぱそうなんだな、体育会女子って。今そんなきれいな服着てても、Tシャツに着替えてこのクソ暑い時にまた汗をかきたいんだ?!」
「うん! やっぱりバスケは別物!」
「スイーツみたいに言うなって!」
「あははは」
「なんかさ、急に元気になってない?」
「ずっと緊張してたから……なんか今からバスケすると思ったら、元気になっちゃった!」
「よかった」
裕貴は葉月の顔を見て笑った。
「やっぱ、子犬だな」
葉月がエレベーターホールでフロアガイドを見ていると、裕貴が後ろから言った。
「まだ時間もあるし、せっかくだからこの建物、見学していかない?」
「わぁ! 見たい見たい!」
2人は階を変えて、順番に見学する。
「すごい! ギャラリーもシアターも2つずつあるのね!」
「うん、ここはシアタールームだよ」
「わあ! 大きなスクリーンね」
「この前言ってたライブのバックスクリーン映像の試写をここでやったんだけどさ、すごく良かったんだ。繊細で迫力もあって。今度のクリエーター、みんなが気に入ったからこれからの『エタボ』のライブのスタイルも多分変わってくると思うよ」
「そうなんだ! 明日観られるのね」
「うん。バックスクリーンとライブとが連動してて、見ものだよ! これまでとは違う演出だと思う。残念ながらボクはライブ中はリュウジさんのすぐそばにスタンバイしてるから観られないんだけどさ、葉月はPAブースの所に行って観たらいいよ! 絶対感動すると思う!」
「楽しみだなぁ!」
となりのガラス張りのブースは洗練された空間だった。
「ここはギャラリー。画廊っていうのかな。今回は展示はないみたいだけど、前回はたまたま『エタボ』がフェスに来る前にイタリアのアーティストが個展開いててさ、それをすごくキラさんが気に入ってね、結局去年発売したアルバムジャケットの……」
「あ、『Treasure The Time』? 持ってるよ!」
「そう、あのアルバムの裏表紙はそのアーティストの作品なんだ」
「そうなんだ! 面白いね! 色々な偶然から何かが生まれたりするんだなって、感じる」
「そうだろう?」
更に階を変える。
「ここはプレイルームなんだけど、奥にちょっとしたライブラリーもあるんだ。ボクは見たことないけど、リュウジさんが『VR』も、ボルダリングのクライミングウォールもあったって言ってた」
「ホントすごい……どこかに遊びにいかなくても、この建物の中で充分楽しめそうね!」
「まあ、ボクらはほとんど使ったことないけど。レコーディング目的の長期滞在のアーティストなら、飽きなくて助かるだろうなぁ。折角これだけ色々アトラクションがあるのに、リュウジさんは専らジムがお気に入りだったけどね」
「リュウジさん、自分のマンションにジムもプールもあるのにね。ここに来てまで鍛えるんだ?」
「ライブ前の数週間だけだよ。実際、大きいライブが終わったあとは一切しないし」
「あ、リュウジさん、そんなこと言ってたかも? あ、あそこに卓球台がある!」
「ああ……去年は凄かったよ。メンバーで酔っぱらいながら夜中まで卓球対戦してて、あのとなりのバーコーナーで無茶苦茶なカクテルとか作って、それを罰ゲームにしてさ。みんなベロベロに酔ってるから全然うまくいかないのがまたおかしくて……そのうち審判やってるヤツとか、何点だったかわかんなくなっちゃってさ、もうひどかったんだ」
「楽しそうだけど……怖いね」
「今年はさ、トーマさんも言ってたように、合宿所で打ち上げするから、昨年みたいな事にはならないんじゃないかな。ひょっとして去年の失態が再び起きないように、トーマさんが企画したのかも?」
「失態って……」
「いや、実際、打ち上げが深酒過ぎて、リュウジさんとボク以外は延泊したんだって。 “ 酒が抜けないから運転できない ” って言ってもう一泊だよ。リュウジさんだって、ボクがいなかったら延泊だっただろうな……」
「そうなの? 私リュウジさんが飲んでるのは見たことあるけど、酔ったところなんて見たことないよ」
「そうなんだ? なんかね、やたらアツくなったり、誉めてきたりするんだ。男気が全開になって、ちょっと暑苦しいって言うか……」
「あはは、やだオジサンっぽい!」
「だろ? 言ったらめっちゃ怒るけどね」
ぐるっと回って中庭に出る。
「ここが例のハヤトさんがダイブしたプールだよ」
「あはは、何度思い出しても笑っちゃう! 後でもっかい見たいな」
「それがさ……インスタに切り取られてる部分は面白いけど、プールから引き上げたときは、ハヤトさん死んでんじゃないかって思うくらい意識なくてさ。マジびっくりしたんだ」
「ええっ!」
「キラさんが助けるのが本当あと1分遅かったら、ヤバかったんじゃないかなって……マジで思うぐらい」
「そうだったんだ……」
「うん。キラさんが咄嗟に飛び込んで、ハヤトさんを引き上げてさ、それこそ心臓マッサージとか……」
「え! キラさん、そんな心得があるの?!」
「キラさん、何気に凄いからね。『近接格闘術』だったかな? なんかそういう格闘技も身につけてるし、空手は師範だし。華奢に見えるけど、多分誰とケンカしても負けることはないんじゃないかな?」
「そうなの?! そんなふうには見えないね」
「だろ? 一回、酔っ払って腕相撲をしようとしたんだけどさ、もう、握った手の感じが違うっていうか……わかる? で、実際やってみたら瞬殺だった……トーマさんでも勝てないんだって」
「え! ウソ!」
「ちょっと見る目が変わるだろ?」
「うん」
そこからペントハウスを離れ、すぐそばの建物に入る。
「では最後に……ここ!」
「スタジオ……よね?」
「うん。実は入っていいかちょっと躊躇したけど……見つからないようにすればいいかなと思って」
「え?! なになに? 怖いよ」
「今さ、スタジオに入ってるのは多分アレックスさんだけだと思うけど、アレックスさんのピアノ、聴きたいと思わない?」
葉月はハッとして胸を押さえる。
「聴きたい! すごく聴きたい!」
「ここのスタジオは、色々はパターンの部屋があって、今居るここは個人ブースっていうか、コンパクトなスタジオが五角形に配置されててね、それらにぐるっと囲まれた真ん中の部屋が “ PAブース ” になってるんだ。録音したり、エフェクト……まあ音質のコントロールって意味だけど、こういう調節をサウンドクリエーターがする部屋なんだけどね。きっと個人ブースの1つにアレックスさんが入って弾き込んでるんだと思うんだ。だからPAブースに忍び込めば……」
「でも、勝手に入ったら怒られるんじゃ……」
「だよね? だから、PAルームの電気をつけないでさ、窓をあんまり覗かないようにすれば、スタジオ側からは見えないと思うんだけどな……」
「え? ナイショで観るの?」
「そう!」
「なんか心配……あ、でもスタジオの中の音は外に漏れないように作られてるんでしょう? 聴こえないんじゃないの?」
「PAルームは各ブースのモニターレベルを個別にあげて聴くことができるんだ。だから、そこだけそっと電源をつけてレベルを上げれば聴けるってわけ!」
「でも……ハラハラするよ……」
「そんなの、アレックスさんのピアノ聴いたら、きっと振っ飛んじゃうって!」
葉月は裕貴の後ろについて、細い通路をしゃがんだまま歩く。
「立ち上がったらスタジオ内の光の反射でPAブース内が見えて見つかっちゃうから、絶対に座ったままな!」
「はい!」
無事に中に入って重い扉を閉めた。
少し耳がツンとする感覚と共に、無音の静寂に包まれる。
防音壁の木の懐かしいような仄かな香りと、だんだん暗闇に慣れて見え始めたガラスの向こうのアレックスの背中に、安堵を感じた。
「じゃあ『P-studio』のレベルをあげるよ」
そう言って裕貴が、しゃがんだままPAミキサーのツマミを押し上げた。
「……わぁ」
葉月はうっとりと、目を閉じる。
まるで泉から迸る透き通った水のような澄んだ音が、頭の上から降ってきた。
フレーズひとつひとつが繊細で、時に、内に秘めた感情がじんわりと外に現れるような叙情的な雰囲気に包まれながらも、抑えきれないパッションの海を泳ぎ回る魚のような、突き抜けた自由さが心を解放してくれる……そんな演奏だった。
「なんて素敵な……」
そう心の声が自然に出た時、背後からガチャっという音が鳴る。
防音ドアが開き、それと共に “ 声 ” がした。
第50話『Set My Heart On Fire』 ハートに火をつけて ー終ー




