第36話『Lack of sleep』睡眠不足
合宿所の食堂から、朝食を終えて階段を上る時、梨沙子が小さくあくびをした。
「ごめんね。昨日、遅くまで話しすぎた……眠いよね?」
申し訳なさそうに言う葉月に、みんなが首を振る。
「いやいや、実に有意義な時間やったで!」
「うん、楽しかったし!」
「これぞ合宿所の醍醐味! 深夜の女子トークって感じ」
そう言いながら、皆が葉月の肩に触れた。
「ありがとう」
葉月もその手に触れる。
「でも葉月、あんた今日頑張りや!」
「そうそう、たじろいでばかりもいられないってことよ! しっかり初仕事、してこい!」
翼は少しトーンを下げて言う。
「あ……ただ、前も言ったけど、リュウジさんにもコアなファンがいるってことは忘れないように! 目をつけられたらマジでヤバイことになる恐れも、無きにしもあらずよ、わかった?!」
「はい!」
部屋に戻ると、各々、今配布されたスタッフTシャツに着替える。
葉月は膝の上にそれを広げて、まじまじと見ていた。
昨日はこれを着た “ タカヨシ ” さんと半日、呑気に楽しく過ごしてしまった。
今日はきっと、すっかり“キラ”になった姿で再会する事となるのだろう。
みんなにもユウキにも頑張るとは言ったけれど、
一体どんな顔をしてあの場所にいればいいのかすら、わからない。
「ほら葉月、物思いに耽らないの! これを着て、しっかりとスタッフとして働きな!」
「でも、ゆうても葉月はステージ周りの仕事なんやろ? ほんならメンバー目の前やん! ええなあ、めっちゃ羨ましい!」
「ちょっと! それ言っちゃうとこの子、またカッチカチになるじゃん!」
「いや、そう思うと確かに私でも緊張と興奮でぶっ倒れそうなるわね。……葉月マジで大丈夫?」
「翼まで……葉月をビビらせたら厄介よ」
「確かに。そう言われると、また緊張してきちゃっうんだけど……」
「ほら、もう!」
「まあ、ドキドキの青春してきいや!」
そう言って、梨沙子はまたメイクポーチを葉月に向かって高く掲げ、笑顔を見せた。
全員スタッフTシャツに身を包み、集合時間に再び食堂に集まると、本物の現場主任の山下さんがメガホンで指示をした。
「じゃあ皆さん揃ったところで、現地に向かいます! それぞれ担当に分かれて、現地に着いたらそこにいる各担当者に仕事内容を聞いて動いてくださいね。では移動を開始してください」
3人が葉月の肩を叩いて、手を振った。
山下はメガホンを下ろして葉月に近付いてきた。
「白石さんは僕と一緒に来てくださいね」
「はい、私は一体何をすれば?」
「一応聞いてるのは、ステージ周りのお手伝いをして欲しいとのことで」
「……やっぱり。そうですよね」
「あのローディの大浜くんも一緒に来てるでしょうから、彼の指示に従って行動してください」
「はい、わかりました」
柔和な山下と一緒に、前回のフェスでのネタ話を聞きながら歩いて会場に向かう。
ぞろぞろと連なるスタッフTシャツの波の横を、スーッと白の Range Roverが追い越した。
左の運転席には裕貴がいて、助手席には隆二の姿もあった。
サングラス姿の隆二の隣で、裕貴はチラッと葉月に視線を送るも表情も変えずに正面を向いて加速する。
その車を見て、スタッフからは黄色い歓声が上がった。
前の方では車に向かって走り出しているグループもあった。
「今日はずいぶん早いですね。メンバーの入り時間は、まだだいぶん後のハズなんですが」
山下が独り言のように言っている。
「あれってさ、ドラムのリュウジの車だよね!」
「え? マジ! ねぇリュウジ見れた?」
「うん、助手席に乗ってたよ」
「えーウソ、見たかった! カッコ良かった?」
「うん! なんかお洒落なサングラスかけてたの!」
後ろを歩いている女の子達も色めき立っている。
山下がその様子を横目で見ながら、葉月にひそひそと言う。
「ここではリュウジさんもメンバー同等なので、白石さんもちょっと気を付けてもらった方がいいかもしれません」
「ああ……はい。実は同室の先輩方からも話は聞いていて、注意は受けています」
「そうですか! なら安心ですね」
山下はスッキリした表情で、先程していた昨年度のフェスの話を再開した。
山下と分かれ、指示通り各控え室のセッティングをするためにステージ裏に向かった。
この辺りはすっかり熟知している。
親切に案内してくれた “ タカヨシさん ” と会ったのが、遥か昔の事のように思える。
「おはよう葉月」
裕貴が奥から歩いてきた。
「おはよう。昨日は色々とありがとう」
裕貴は肩を上げて微笑む。
「どういたしまして。眠れた?」
「あの後、女子トークで盛り上がっちゃって……ちょっと寝不足だけど、大丈夫。ユウキのおかげ」
少し恥ずかしそうに頬を掻いた葉月を裕貴はギロッと睨んで見せる。
「今回のフェスは、リュウジさんのボーヤというより、葉月のお守り役って仕事の方が大きくなるかもな」
「またそんなイヤミ言うんだから!」
「なんか……?」
裕貴が葉月をまじまじと見た。
「なによ?」
「雰囲気違う」
「ああ、梨沙子に朝からメイクの手解きを受けてたの。変かな?」
「いや……悪くない」
「なに、その言い方! 柄じゃないって、思ってるんでしょ?」
「いや、そんなことないけど」
「そこ! 朝から何を盛り上がってるんだ?」
大きな声に驚きながら振り向く。
「あ、リュウジさん! おはようございます」
「なんか葉月ちゃんに会うの、すごく久しぶりのような気がする」
「確かに。私もそんな気がします」
裕貴がまたため息をついて、少し嫌な顔をした。
「ラブラブのカップルみたいな会話、しないでくださいよ。会場に来たら現場スタッフもたくさんいるし、変な噂が立ったら大変ですよ」
隆二が攻撃的な顔をして裕貴を指差す。
「すぐこれだよ、コイツは! 最近コイツさ、マネージャーみたいに口うるさくなってきてさ」
「リュウジさんが無頓着だからですよ」
「な? 聞いた、葉月ちゃん? この口の利き方! 可愛かった俺のボーヤはどこに行ったんだ?」
「そんなに可愛がってもらった記憶、全くないんですけどね」
「ほら、これだよ! まったく、お前は……」
葉月はころころと笑った。
「ほんと、仲いいですね」
「葉月ちゃんが俺らのことを笑うなんて、立場逆転だな。ちょっと俺も笑いに飢えてるからさ、葉月ちゃん、なんか面白いことやってよ」
「またそんなこと言うんだから! リュウジさん、何気に失礼ですよね! でも……」
「うん? なに?」
「リュウジさん、私のことで、キラ……さん?に、 色々物申してくれたんじゃないですか? なんだかすごくご迷惑かけたんじゃないかって、それが心配で……」
「なんだ、そんなこと気にしてたの? 渡辺なんかさ、言い過ぎるなんて事なんかないぐらい、何言ったって聞きゃしねえんだよ。ほんと、災難だったな葉月ちゃん。アイツの悪戯好きはもはやビョーキだから。だから今後もちょっと警戒が必要だぞ。俺とユウキも、もっとディフェンスを強化しねぇとな」
裕貴も頷いている。
「っていうか、大分ショック受けてたってコイツから聞いたけど、葉月ちゃん、今日とか大丈夫? 奴が目の前に現れるぞ。あ、そうだ。 “ 憧れのトーマ ” もだった」
イヤミな言い方をして笑いを取ろうとした隆二の前で、葉月は顔を赤らめた。
「おいおい! マジで憧れてやんの! ユウキ、どうするよ? 葉月ちゃん」
裕貴がお手上げのポーズで首を振った。
「昨日ボク、色々話してやったんですけどね。全く、あんなとこまで連れて行ってやったのに……」
「ん? どっか行ったのか?」
「あ、まぁ……」
裕貴が取り繕うように言った。
「あ、そろそろタイコ見てみませんか? PAさんにリュウジさんも来てるっていったら、それならドラムから始めようかって、言ってたんで」
「そうか、わかった。じゃあ葉月ちゃん、また後でね」
「はい、頑張ってください!」
2人は足早にステージ脇から階段を上がった。
「なんだお前? 女子と深夜にデートなんて5万年早いぞ!」
「そんなんじゃないですよ! けど、あまりにも葉月が憔悴してる様子だったんで……」
「そんなに?」
「ええ。ボクが見に行った時は、玄関の前に座り込んでて」
「は? それって……俺、ちゃんと聞いてないけどさ、渡辺のヤツ、ホントはなんかしたんじゃないだろうな!」
「あー、それは違うと思います」
「そうなのか?」
「おそらく。葉月は自分の気持ちの処理を出来ないことが自分で嫌になってて、それで落ち込んで……まあ、このフェスに対する不安も出てきちゃったんじゃないですかね」
「なんだそれ? ホント真面目だな。まあ彼女らしいけど。それで? 気持ちの処理はできてるのか?」
「まあ、結構話もしましたし、その後にはボクの知り合いのルームメイトとも色々話したらしくて、すっきりしたみたいですよ。明るい表情だったでしょ?」
「まあ確かにな。悩み抱えてる顔じゃなかったけど」
「とはいえ……やっぱりメンバーを目の前にしたら、ダメだと思うなぁ葉月は」
「ん……確かにな。マジで失神するとか?」
「昨日のあの様子だと……ありえなくもない気もするんで。やっぱ心配ですけどね。まあボクもそばにいるんで、どうにかなると思いますけど」
「それって “ ファン心理 ” ってやつか? やっぱ俺にはわかんねぇな」
「ボクには分かりますけどね。だって……」
「ふーん……」
隆二はしばらく裕貴の顔を見て、その肩を強めに叩いた。
「まあ、葉月ちゃんのこと、頼んだぞユウキ!」
「了解です。じゃあまず、チューニングの確認から始めましょうか。お願いします」
隆二をドラムセットに座らせて、裕貴はバッグから “ チューニングキー ” と “ チューニングメーター ” を取り出す。
テンションボルトにチューニングキーを差し込みながら、隆二がスティックでスネアドラムをトントンと叩くのを注意深く聴いている。
「一応、昨日の午後に来たときに音は作っておいたんですけど、チェックしてもらえますか?」
「ベードラのペダルはどうですか?」
「まあいいだろ。打感もアタックもいいけど、胴鳴りはもう少し……これはPAで調整するって?」
「あ、音の太さが足りない感じですか? じゃあフロント側の張り具合を変えるんで」
チューニングキーを片手に細かい作業がはじまる。
「ユウキ、タムのチューニングちょっと上げといて、ちょっと後半なるとダレてくるから最初ちょっと高めにセットした方がいいかな。逆にフロアタムの余韻が短すぎるかも」
「わかりました、ボトムヘッド側も調整します」
「タムの音程差はいい感じだ」
手際よくこなす裕貴の背中を見て、隆二は彼の成長とそこに至るまでの努力を感じ、頼もしさを覚えた。
「リュウジさん、どうしたんですか? ボーッとして」
「……いや、別に」
「あとの微調整はボクの方でやっておきますんで」
「ああ……そうか。ユウキ、当日のセットはシンバルを離し気味にしといてくれよ。でないと葉月ちゃんから俺のプレイが見えないじゃん?」
ふざけ気味に言って繕いながら、ドラムセットから立つ。
「分かったか! ユウキ」
「わかりましたよ、リュウジさん。邪魔しないで休憩しててくださいよ」
「コノヤロー、ナマイキだな! まぁわかりゃいいんだよ」
隆二はフッと微笑んで背中を向けた。
「お疲れさまです」
隆二の背中に向かって裕貴が言った。
「おお、あとよろしく」
隆二は後ろ手で手を振って、ステージ裏の方に降りていった。
第36話『Lack of sleep』睡眠不足 ー終ー




