第222話『I want you to be happy』ただ幸せでいて
海に向かうベンチに腰を下ろした2人は、時間の経過に気付いた。
「そろそろ行こうか。あんまり遅くなると、今後、君の親友から許可が下りなくなるかもしれないからね」
葉月は見納めと言わんばかりにコンビナートを見上げると、くるっと徹也の方に振り向いて頷く。
歩き出した2人は、ウッドデッキの広場にさしかかった。
床面から空に向かってライトアップされた光の柱の間をぬうように歩いて横切っていると、葉月がやたら足元を気にしていることに気付く。
「ん? どうしたの?」
「あ……いえ、なんでも」
その時、光の柱にサッと黒い影が通った。
「キャッ!」
葉月が突然走り出したので、徹也は驚いてあと追う。
「ちょ、ちょっと! 急にどうしたの!」
葉月の腕を後ろから掴んで引き止めた。
「あ……えっと、なんでもないです」
「なんでもない人がいきなり走ったりしないだろ? どうしたの? 何が理由?」
「あ……あの広場には……むしが……」
「え? むし?! ああ……君が苦手な、虫?!」
「あ……ええ」
「ははっ、はははは」
徹也は笑い出す。
途端に葉月は居心地が悪そうな顔をした。
「なんかさ、あの時のこと思い出したよ。ふふふ」
葉月が怪訝な顔をする。
「あの時の事って……?」
「ほら、三崎さんのマンションに君を迎えに行った時にさ、川沿いの公園で。ははは……あの時は衝撃的だったからなぁ」
「もう……変なこと思い出さないでくださいよ!」
「ははは! だってさ、あの時のあの君の体勢っていうか……クックック、ダメだ! 笑いが止まらない……しばらく笑っていい? ふふふ」
葉月は目を剥く。
「失礼な……いいわけないでしょう!」
「だって……マジでびっくりしたもん。君、まるでゾンビみたいでさぁ、あはは、ダメだ……クックック」
「もういいです!」
葉月はプッと頬を膨らませて、そのまま車の方に向かって歩き出そうとした。
「待って!」
徹也がまたその手をつかむ。
「ごめん、ごめん! これからはさ、虫が出たら俺が全力で守ってあげるから。だからそんなに怒んないでよ」
「もう……」
徹也は調子良く、葉月に笑顔を向けた。
「さっき見たのってホントに虫だった? もう秋なんだけどなぁ」
「あ……確認はしてないですけど……あの時みたいにサッて影が通ったから」
「あの時? ああ……リュウジと来た時か」
葉月はまたぎこちなく頷く。
「そっか。リュウジが君のパパになった日だな?」
徹也は茶化すように言った。
「そうですね……」
戸惑いに溢れた彼女の横顔を見つめる。
「少し風が出てきたね。寒くない? ああ……それより、全力疾走したから疲れてるか?」
「いいえ、大丈夫ですよ。バスケ部はこれしきのことでへこたれていられないので」
徹也は葉月の瞳を覗き込むように、真正面から見据えた。
「バスケ部はボールを追いかけて走るけどさ、心をすり減らしながら、何かから逃げたりはしないだろ?」
葉月は驚いたように徹也を見上げる。
「ごめん。もう君を追い詰めるつもりはないよ。俺はさ、ただ心配なだけなんだよ。健やかで楽しそうにしてる君と冗談を言いながら笑っていたい。だからさ、辛い思いをして欲しくないんだ。もしも辛い時は辛いって言って、ちゃんと甘えて欲しいし、俺のことを頼って欲しい。わかってもらえる?」
葉月がまた俯いた。
「どうした? 俺、なんか変なこと言ったかな?」
「やっぱり……親友なんですね」
「え?」
徹也はその言葉の意味を模索する。
「同じことを言われたってことか……リュウジに」
葉月を見つめながら、徹也はため息をついた。
「あーあ! あいつはいつも俺の先を行ってるからなあ……ボールを追いかけてる時だけじゃなくても、あいつにはいつもかなわなかった。なのについつい同じ道をいっちまうんだよな。そう思ったら……気が合い過ぎるのも良し悪しかもな」
投げやりな言葉に、葉月はそっと視線を上げる。
「徹也さん……」
「でもさ、俺は俺のやり方で君を守って行きたいと思ってる。つまんないことをボヤいちまったけどさ、誰かと張り合うとかそんなことじゃなくて、本当の意味で君の力になりたいって、心底思ってるんだ」
「どうしてですか? 私なんかに……」
「出た! ネガティブワード! どうしてそんなこと言うかな?! 君にどれだけ俺が助けられてるか、力をもらってるか、いくら説明したって分かってもらえない……あのさ、今の俺は以前より多くの色に囲まれてるって実感があるんだよ。今、自信を持って今の自分でいられるのは、君という存在が現れたからだと思ってる。現に、俺の仕事は変わった。元々の俺のキャンバスにはなかった色が、今は君のおかげで随分増えた。君はそれほどの影響力があるんだよ? 少なくとも俺にとってはね。だから守るに決まってんじゃん。虫だろうが何だろうが、君を困らせるものの全てから守ってみせる」
葉月は徹也の顔を凝視したまま、その場に突っ立っていた。
「ああ、ごめん! ちょっと熱く語りすぎて……もしかして引いてる?! あ……なんて言うか、こういった自分の内面の事ってさ、うまく言葉にしにくくて。ホントは可能なら脳内を覗いてもらいたいぐらいなんだけど」
そう徹也が苦し紛れに微笑むと、葉月の目から一筋の涙が流れた。
「あ、あれ?! どうしたの?! ごめん! 俺、変なこと言ってるよね? なにか……嫌なこと言ったっけ? あ……ごめん、ごめん。泣かせるつもりはなかったんだけど、どうしよう……」
葉月は静かに首を横に振る。
「違います。嬉しくて」
「え?」
「誰かに必要だって思われることが、本当に嬉しくて……私はずっとそんな自分になりたくて頑張ってきたような気がします。それを認めてもらえて本当に……」
涙声でそう言った葉月は、両手で顔を覆いながら俯いた。
その頭にそっと手を置いた徹也は、その不規則な息遣いに彼女の思いの深さを感じる。
そしてその華奢な肩に手をかけ、ぐっと抱きしめた。
途端に、胸の奥からほとばしるような感情が流れ出す。
彼女を真正面から抱きしめた、あの想命館が頭によぎった。
あの時も、自動販売機に身を隠しながら、ただ彼女を悲壮な苦しみから助けたい一心だった。
彼女を守りたいという気持ちはあの時と同じはずなのに、今はまるで彼女からの温もりので自分が救われているかのような気持ちになる。
彼女の背中にまわした手のひらに熱を感じた。
ビューッと風が吹いて、葉月の髪を揺らす。
「あ……」
我に返ったように、声を発した葉月がそっと徹也の胸から顔を上げた。
徹也は動揺を隠すように、ゆったりとした声で尋ねる。
「落ち着いた?」
「はい……」
「ちょっと寒くなってきたね」
「いえ、あったかいです……」
葉月は自分の言葉にハッとしたように、また恥ずかしそうに俯いた。
「あの……ありがとうございます」
「いや……」
そう言って徹也は葉月の身体から離れた。
「行こうか。親友に心配かけちゃいけないからさ」
「はい」
葉月を助手席に乗せてから、回り込んで運転席に乗り込むと、葉月はぼんやりと前を向いたまま座っていた。
「どうしたの?」
そう言いながら葉月の方に近づき、腕を伸ばしてシートベルトを引く。
目が覚めたような顔をした葉月は、慌てて徹也の方を向いた。
「あっ……ごめんなさい」
「なに謝ってんの? いいよ、こんなことぐらい」
発車しても葉月は静かに座っているだけで、徹也は一方的に明後日の祖父の四十九日の流れについて話し始める。
「明日も三崎さんのところに泊まってるなら、日曜の朝はあのマンションに迎えに行くよ」
「ありがとうございます」
ずっと放心したようなその表情に触れられないまま、車はかれんのマンションに到着した。
車を停めてもまだぼんやりしている葉月に、徹也はまた尋ねる。
「さっきからどうしたの? そんなに虫が怖かった?」
葉月はぐっと徹也の方に向き直ると、ゆっくりと首を振った。
「私、仕事頑張りますね」
「え?」
「徹也さんに必要とされてるって思ったら、心がボワッてあったかくなって……この気持ちを返したいって思ったんです。どうやったら返せるのかわからないんですけど、でも一生懸命、徹也さんの役に立つように頑張ればいいのかなって、そう思って……」
彼女のあどけない表情に、思わず腕を伸ばしそうになるのを、徹也はぐっと押さえた。
葉月はすっきりしたような面持ちでさっとシートベルトを外すと、ドアを開けて立ち上がる。
「では、明後日の朝に、よろしくお願いします」
「あ……ああ。こちらこそよろしく」
笑顔で手を振りながら、かれんのマンションに入っていく葉月を見つめながら、徹也はそのままシートに身体を埋めて首をひねる。
「俺が " 必要としてる " って言った意味は、仕事面だけだと受け取られてるのか? もしかしてリュウジが彼女にアプローチしているということにも、彼女自身は気付いていないとか……気付いていないというよりは、信じていないような口ぶりだったし……もしそうなら、やっぱり彼女は自分のことを過小評価しすぎだな。まあそんな謙虚なところがみんなに愛される要因なのかもしれないけど……なら、こっちが不器用で慎ましやかなことを言ったって、彼女には微塵も伝わらないってことかもしれないぞ!」
徹也は身震いするように肩をすくめるた。
「うわ、マジで前途多難……まあでも、それよりまず自分自身の気持ちを整理してからでないと、俺も何も伝えられないかもしれないなぁ。我ながら情けない……」
いつになく落胆した徹也は、肩落としながらエンジンをかける。
「明後日が勝負だな。この日こそはリュウジじゃなく、俺にカードが回ってきてるんだから」
そう言って徹也は、アクセルを踏んだ。
第222話『I want you to be happy』ただ幸せでいて - 終 -




