第215話『Getting complicated』痴情のもつれ
金曜日、終業の時間になると葉月はいそいそと帰り支度を始めた。
今週は前々から興味があった和装のイベントにも参加することができ、経験値を積みながら満足いく結果が出せて上機嫌だった。
「では、お疲れ様です」
いつになく軽い足取りでエレベーターホールに向かう葉月の後ろ姿を見ながら、琉佳はアゴに手を当てながらその背中を思慮深く見つめる。
「フフッ、浮かれてるねぇ。白石さんは分かりやすいから。今日はデートでもあるのかな?」
窓の外に目をやる。
会社の前には特に誰も居ないようだった。
ほどなくして、正面から出てきた葉月が跳ねるように西へ向かって歩いて行くのが見える。
「ほぉ……『Blue Stone』にでも? ま、そこには残念ながらウチのBOSSは居ないよなぁ……」
葉月ははやる気持ちを抑えながら、努めてゆったりと歩く。
仕事が充実したその背景には、あの日の隆二の言葉も含まれていた。
隆二のエターナルボーイズライフに正式加入に向けての華々しいスタートに、更に新曲が加わると聞いてからは、葉月の胸は踊り、希望に満ち溢れていた。
歩きながらスッと持ち上げた手首には、隆二から誕生日に贈られたブレスレットが光る。
数日前のあの眼差しが忘れられず、触れられた手が熱くなるのを感じた。
真夏よりも日が落ちるのが早くなった事を感じながら、街並みを歩く。
遠く先に見え始めたその青いネオンサインと看板をめがけて、高鳴る気持ちを抑えながら足をすすめた。
店が近づいてくると、なにやらかん高い声が聞こえて、葉月は一瞬足を止めた。
「え……なに?」
また聞こえてきた緊迫感のあるわめき声に、不穏な空気がたちこめる。
葉月は歩く速度を落として近付いた。
「どうしたんだろう? 喧嘩?」
『Blue Stone』の少し向こう側の路地の角に、人の姿が確認できた。
ピンスポットのような街灯のたもとに、細身のブラウスにミニスカート姿の女性がいて、なにを揉めているのか声を荒げている。
一瞬女性が被害に遭っているのではないかと思い、葉月は通報するべきかとスマホを握りしめたが、言葉尻から憶測するに、助けを求めているのではなく、むしろその女性の方が絡んでいるような状況に見えた。
相手がいるようだが、路地の柱の向こう側にいて、その姿は見えない。
言動だけでなく、しなだれかかるようなその動きも尋常ではなく、明らかに酔っ払っているような雰囲気だった。
「こんな早い時間から酔っ払ってるのかしら?」
囁くように独り言を漏らしながら、気づかれないようにそっと店に入ろうとドアに手をかけた時、また荒ぶった声が聞こえてビクッとする。
「どうしてわからないの?! こんなに好きなのに!」
「いい加減にしろ!」
その声に思わず振り向いた。
女性が、相手である男性の身体をぐっと引っ張って絡みつくように首に手を回すと、スラリとしたその女性の前にもう1つの影が現れた。
すかさず両腕を伸ばした女性が相手の顔を強引に引き寄せ、その唇に濃厚なキスをする。
「やめろっ!!」
女性を突き放す男性が放った2回目の声に、葉月は思わずバッグを落とした。
「はっ!」
聞き馴染みのある声に、頭の中が瞬時にぐちゃぐちゃになっていくのを感じる。
音に気がついてこちらを振り返った男性の顔は、隆二だった。
「ウソ……」
ぎょっとしたように目を見開いた葉月は、バッと背中を向けて走り出した。
「葉月ちゃん!」
後ろからそう聞こえて、さらに加速する。
走り出そうとする隆二に、また女性が絡みついた。
「離せ!!」
その腕を振り払って、隆二も走り出す。
葉月はまた、もと来た道を逃げるように、速度を上げて走り続けた。
駅前の花壇にたどり着いた葉月は、追いかけてこられる恐怖心にいてもたってもいられず、事務所の脇の階段に伏せるように座って、手すりの内側に身を隠した。
何も考えないようにしようとしても、何度もさっきの衝撃的なキスシーンが頭で繰り返し再生され、葉月は俯いたまま何度も首を横に振る。
女性の一方的な行為だったのかもしれない。
しかし、やはり隆二は一般人ではなく、誰しもが憧れ、彼の隣を狙うほどのスターであることを改めて思い知らされた。
「そんなこと、分かっていたはずなのに……」
それでも、隆二の真っ正面から見据えるあの眼差しを信じていたかったし、これから未来に置いての隆二の存在と、彼にとっての自分の存在に、ほのかな希望を持っていた。
「でもやっぱり……住む世界が元々違ってたのかもしれない」
今はそんな希望すらも恥ずかしく、儚くも思える。
時間が経つ感覚も、明日からの自分の気持ちも、何もかも見失ったまま、葉月はただコンクリートの階段に腰を下ろしたまま俯いていた。
残業を終えてエントランスから出ようとした琉佳は、社屋のすぐ横の階段に座り込んでいる人影を見つけて一瞬足を止める。
「な、なんだ!? びっくりした! え……女の子? なんであんなとこに座り込んでるんだ?」
琉佳はエントランスのガラス越しに目を凝らす。
「顔は見えないけど……えっ? ウソだろ!? あの服は……白石さん……?!」
琉佳はもう一度、まじまじと見つめながら観察する。
「白石さん、今日は定時に帰ったから、もう2時間ぐらい前か……いつからあそこにいるんだろう?」
そう思ってガラス戸に近付こうとしてまた足を止めた。
駅前から裕貴が走ってくる姿が見えた。
花壇やロータリーの周りをぐるぐると走りながら、いかにも人を探している様子に見える。
「え? どういうこと? 白石さんはユウキから隠れてるのか?」
琉佳は一旦エントランスの奥に身を潜めてその様子を見ていた。
右へ左へと走り込み、当たりを見回しながら、裕貴はジリジリと葉月が隠れている自社ビルの階段の方に近づいてくる。
「おいおい白石さん! そこに居たら見つかっちゃうよ……」
そうつぶやきながら、なにかフォローすべきかどうか考え始めていると、裕貴がスッと速度を落とし、階段に歩み寄った。
「ああ……見つかっちゃったか……さて、どうする?」
琉佳は死角になるように身体を折り曲げながら、階段の側まで近付く。
裕貴は階段を数段上がり込み、葉月の前まで行くと声をあげて言った。
「葉月! こんなところで何してるんだよ。どれだけ探したと思ってんの!」
顔を上げた葉月が、か細い声で何か言ったようだったが、琉佳には聞き取れない。
「ボクもちゃんと聞いたわけじゃないからよくわからないけどさ、とにかくリュウジさんがすごく心配してるから……」
そこまで聞こえた時に、葉月が何かを言いながら何度も大きく首を横に振るのが見えた。
「ん? 揉め事の相手はユウキじゃなくてリュウジさんの方か? 師匠の内輪揉めにも駆り出されるなんて、弟子も大変だな……」
そう幾分楽観的に見ていると、葉月が突然突っ伏して、泣き出しているような雰囲気に変わる。
「おやおや! 事は深刻か?!」
裕貴も空を仰ぐように立ち尽くしていた。
「なんか大変そうだけど……とはいえ僕の出る幕じゃないだろうしな」
そう言いながら腕を組んで見ていると、裕貴がその場で誰かと電話で話した後、葉月の耳元まで屈んで何かをささやいた。
葉月は小さく頷くと、力なくゆっくりと立ち上がる。
「お!? なんの交渉が成立したんだ?」
葉月は裕貴に連行されるかのように肩を落として俯いたまま、駅の手前の小道を北に向かって歩いて行った。
息を殺すように2人を見ていた琉佳は大きく息をつく。
「はぁ……一体何があったんだ? 深刻な雰囲気だったよな? とはいえ、ついて行くわけにも行かないし……」
エントランスで琉佳が1人で立ち往生していると、そこにひょっこり徹也が現れた。
「ん? お前、ここで一体何してんの?」
不可解な顔をする徹也に、琉佳は慌ただしく歩み寄る。
「徹也さん! 今どっから来た?!」
「えっ? パーキングに車停めてきたけど?」
徹也は裕貴と葉月が歩いて行ったのと同じ方向を指差す。
「なら今さ、ユウキと一緒の白石さんとすれ違わなかった?」
「え! あれ、やっぱりそうだったのか?!」
「すれ違ったんだ?!」
「いや、すれ違ったってわけじゃないけど、車を停める前に交差点で裕貴を見たんだが、隣にいる子が俯いてて、顔が見えながったんだ。あれが……白石君だと?!」
「うん」
琉佳は今ここで見たことを徹也に話した。
「それは、リュウジとなんかあったっていう……」
「僕はそう認識したけどね。少なくともユウキが白石さんになんかすることもないだろうし?」
「まぁ……そうだな」
立ち尽くしている徹也の表情を琉佳は意味ありげに見つめる。
「どうするの?」
「ど、どうするって? 俺は実際目撃もしてないし、なんかこの状況で連絡するのもさ……」
「まぁそうなんだけど……僕も同じだし。でもほっといていいのかな? 僕の見解としては、あんまり楽観視できない状況に見えたんだけど」
「そんな深刻な感じなのか?」
「うん。2時間前に上機嫌で会社を出て、いつからここに居たのかはわからないけどさ、うつむいて膝を抱えて、挙句、ユウキの前で泣いてたんだよ? 徹也さん、すぐじゃなくてもいいけどさ、連絡してみた方がいいんじゃないかな」
「そうか……分かった」
琉佳が駅に向かう背中を見ながら、徹也はスマートフォンを取り出す。
いてもたってもいられずに葉月に電話をかけてはみたが、やはり繋がらなかった。
「ん……どうしたものか……」
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