第207話『Ignorance is bliss』知らぬは本人ばかりなり
『Moon Drops』から出て外の空気に触れた葉月は、その足どりも軽く、随分回復して見えた。
2人は隆二のマンションの駐車場へ向かう。
「もう……大丈夫?」
「うん」
裕貴は葉月の表情にホッとしながら、トンとその肩をたたく。
「リュウジさんとはさ、あれこれ考えずに普通に会って普通に話すのがいいんじゃないかな? ほら、今週末もバスケの練習が入ってるだろ?」
「そうね。ねぇユウキ、私がバスケに行くって言ったら……一緒に行ってくれる?」
裕貴はわざとらしいほどにおどけて見せた。
「えーっ、まぁ……超絶面倒くさいけど……葉月がどうしてもって言うんなら、行ってあげてもいいけど?」
「あはは! 相変わらずバスケにおいては皮肉っぽい!」
「ま、それで葉月がご機嫌になるなら? 仕方がないか!」
「ふふっ。よろしくお願いします!」
裕貴は不敵な笑みを浮かべる。
「じゃあさ、ボクにちゃんとシュート決めさせてくれる?」
葉月が頬を膨らませた。
「えーっ、私に八百長をさせるつもり?!」
「クソッ! 葉月はバスケに関してだけは自信満々で高圧的だよなぁ?! ムカつく!」
「あはは! 徹也さんにも同じようなこと言われたわ」
裕貴は眉を上げる。
「とにかく、週末のバスケには付き合うよ。師匠の出方にも注意を払わないといけないし。それとさぁ……なぁ葉月、1つ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
葉月は肩を並べて歩きながら裕貴に顔を向けた。
「鴻上さんとの関係」
「え? 徹也さんとの……関係?」
「うん。葉月さ、いつの間に鴻上さんのことを名前で呼ぶようになったの?」
「え、それが聞きたいこと?!」
葉月は徹也の弟の和也との商談があったことや、その後の突堤でのやり取りを簡素に話した。
「ふーん。2人で海を見ながら話してるうちに? そういう話になったと……なるほどねぇ?」
その含みのある言い方に、葉月は眉を寄せて裕貴を睨む。
「なんか……事情聴取みたい」
「まぁ実質、事情聴取みたいなもんだけどね」
「え!? なによそれ?!」
「常にヒアリングしておかないと、いつこじれるかわからないような、危なっかしい2人を扱ってる立場なもんで!」
ムスッとする葉月の表情に笑い出しながら、裕貴はその肩越しに夜空を見上げる。
すぐそばに隆二の暮らす煌びやかなマンションがそびえていた。
裕貴の視線に振り向いた葉月が同じように見上げ、表情をスッと曇らせる。
そのか細い背中に思わず手を伸ばそうとした時、車道からクラクションが鳴った。
驚いた葉月がよろめいて、裕貴は慌ててその身体を支える。
「あ……見て、葉月」
裕貴に促されて、葉月が車道に顔を向けると、開いたパワーウィンドウから顔が出てきた。
「え? ああ……」
自分に寄りかかるような格好の葉月から、裕貴はパッと身体を離す。
「鴻上さん……」
徹也はハンドルに手を置いたまま不可解な顔をした。
「え? 葉月ちゃん、まだ具合悪いとか?」
首を横に振りながら、裕貴が車に近付く。
「いえ。実は仕事終わりに、ボクの引っ越しを手伝ってもらってて……」
「そうか。で、なんでこんな所に?」
「ああ。これから葉月を家に送るんで、そこの駐車場に車を取りに来たんです」
徹也は2人の背後のタワーマンションに視線を移す。
「なるほどね。ならユウキ、その役は俺にやらせてくれないか?」
「え……」
裕貴は葉月を振り返って、また徹也の方を向いた。
「じゃあ……お願いします。鴻上さんは、仕事帰りですか?」
「ああ。これから事務所に戻ろうと思ってたんだけど……戻る理由がなくなったから、そのまま彼女を送るよ」
「あ……戻る理由は葉月……だったんですね?」
「いや……まぁ昨日休んだって聞いてたからさ、ルカに今日一日どうだったか聞こうかなって思ってただけで……」
徹也はそう言いながら車を降りて、ドアの前に立った。
「そうですか。なら、本人から直接聞くのが一番ですよね? じゃあ、よろしくお願いします。ほら、葉月! 乗せてもらいなよ!」
「あ……うん。ユウキ、今日はありがとう」
葉月は徹也に誘導されながら助手席に乗り込む。
笑顔で手を振る葉月を乗せた車が遠のいていくのを見つめながら、裕貴はまた大きくため息をついた。
「こじらせ男がもう1人……ウチの師匠よりは随分素直なタイプだよな? 余計に厄介かも……」
裕貴はもう一度振り返ってタワーマンションを見上げる。
「さて、ウチの師匠は、どう出るんだか……」
裕貴は踵を返して元来た道を戻っていった。
早々に車を走らせる徹也に、葉月は明るく声をかける。
「お疲れ様です。今日もあれからずっとですか?!」
「まぁいつものことだ。そんなことより、もう具合は? 大丈夫?」
ハンドルに手をやりながら、徹也は葉月を覗き込んだ。
「もう全然大丈夫です。それより……わざわざ私の様子を聞きに事務所へ?」
徹也は小さく咳払いをする。
「ああ、まぁ……会えて良かったよ」
「気にかけていただいて、ありがとうございます」
「いや別に……ああ、食事は?」
「ユウキと『Moon Drops』に行って食べてきました。ああ、ジャスバーなんですけど……」
「えっ?『Moon Drops』って……言った?」
徹也に聞き返されて驚く。
「ええ……ご存知ですよね? オーナーの美玲さんが作るブイヤベースが、もう格別で……」
「ミレイって……あの……?」
口の中で呟く。
「え、どうしました?」
「あ、いや、なんでも……で? リュウジも?」
「リュウジさんですか? いいえ……今日は来てません」
「そう。じゃあ……その『Moon Drops』にリュウジが来ることって……」
「ええ。ユウキと3人で一緒に行ったこともあります」
「へぇ……そうか……」
そこからしばらく、徹也は黙ったまま前を向いて運転をした。
「あの……徹也さん? なにか……」
「ああいや、ごめん。昨日はなんで……あ、いや……休むなんてさ、葉月ちゃんらしくないからびっくりしたよ。俺さ、先週末に君を連れ回しただろ? だからそれで疲れさせちまったかなって……」
葉月は首と手を横に振る。
「あ……いえ。そんなことは」
「月曜日は……出社してたんだよね?」
「ええ……」
「だよな……?」
琉佳からは、月曜日の退勤時間に隆二が葉月を迎えに来ていて、なぜかその数時間後に " 駅前で彼女が座り込んでいた " と聞いていた。
徹也はどう踏み込むか、考えあぐねる。
「あのさ、葉月ちゃん」
「はい……」
「もしも、何か悩み事があったら、何でも話して欲しいんだ」
「悩み事……ですか……?」
気の利いた言葉が見つからないままの問いかけたことに焦りを隠せず、徹也はまくし立てるように言った。
「まぁ……そりゃ俺に話したところで、さして何の解決にもならないだろうけどさ、でも心の負担が少しでも軽減されるなら、どんなことでも話してほしいって、思って。とにかく! 1人で抱えこまないように! いいね?」
「……はい」
ほどなくして葉月の家に到着した。
「ありがとうございました」
そう言って、サッとシートベルトを外して身体を起こす葉月に、徹也は手を伸ばす。
「葉月ちゃん、あのさ……」
手首を掴んだ徹也の指に、シャランとシルバーのブレスレットが絡んだ。
「あ、ごめん!」
「いえ……」
葉月は徹也の言葉を待つかのように振り返る。
「ああ……とにかく、無理のないように。ちょっと待って、家の前まで……」
そう言ってシートベルトを外そうとする徹也の手を、葉月はそっと制した。
「もう家は見えてますし、どうぞこのままで。徹也さん、あんまり私を甘やかさないでくださいね。私、" ドS BOSS " も気に入ってるんですから」
そうニコッと笑う彼女をグッと引き寄せたい気持ちを抑える。
「明日はちゃんと出社しますし、体調もいいので、社長も早朝から社に来たりしないでくださいね」
「あ、ああ……わかった」
「ではおやすみなさい。送っていただいて、ありがとうございました」
ペコッと頭を下げた葉月は、車からサッと降りて手を振るとクルっと家の方に向かって歩いて行く。
その華奢な背中を見つめながら、徹也の頭の中ではあらゆる思いが交錯していた。
隆二との関係性も、さっきの裕貴の態度も少し引っかかってはいたが、何より『Moon Drops』に通っていることが気になっていた。
頭の中に、『想命館』の自動販売機の陰で震て泣いている葉月の耳を押さえながら抱きしめた記憶がよみがえる。
「彼女はわかってるのか?! あのミレイって人が、一体誰かってことを……」
第207話『Ignorance is bliss』知らぬは本人ばかりなり - 終 -




