第169話『Realty check』認識確認
隆二にパーカーとキャップを借りて変装をした葉月は、裕貴に誘導されながら地下駐車場まで行き、車に乗ってかれんの家へ向かった。
マンションを出たところにある東公園の花時計が目に入った瞬間、大粒の雨を全身に受けながら憔悴しきっていた自分の姿が蘇り、葉月の心はぎゅっと締め付けられる。
目を背けるように窓を見上げ、晴れ渡った青空を仰ぎながら、昨日の朝もこんな空だったことを思い出す。
ほぼ24時間前に家を出た時は、何事もなく大学へ向かった。
今思えば、家を出た瞬間から何やら違和感はあった。
大学に到着して食堂で事態を知ってからは人の視線が身体に突き刺さるような感覚で、世の中のすべてから攻撃されているような恐怖を実感した。
「葉月? 大丈夫」
運転席の裕貴に声をかけられ、ハッと我に返る。
「うん……」
「そりゃ昨日のことを思い出したら、怖くなるよね……」
葉月は静かに頷いた。
「わかるよ」
葉月はポツリポツリと話し出す。
「昨日……リュウジさんに助けに来てもらうまではね、ホント、生きた心地がしなかった……大雨の中、見つけ出してもらって、リュウジさんのマンションに連れて行ってもらって……もう誰にも見られてないってことで、ようやく息が出来るような感覚で……そこからは、みんなとの電話で励ましてもらって……そのお陰で怖かった気持ちが緩和していったわ。でも、なんか今、昨日と変わらないこの空を見たら、あの恐怖が蘇ってきちゃって……あれは悪夢じゃなくて、現実だったんだって……」
裕貴が息をつく。
「辛い時間だったね。ボクですら、思い出すだけで身震いするよ。上がってきたSNS見てさ、葉月とは違う感情かもしれないけど、怒りで身体が震えた。葉月がどんな思いでいるのか、危ない目に遭ってないかって、もう心配でたまらなかったよ」
前を向いたまま話す裕貴のハンドルを握る手に、グッと力が入るのがわかった。
「ありがとう、ユウキ。鴻上さんと一緒に励ましてくれたお陰で、何とかうまく逃げ延びることもできたし、実際あの公園ではね、読みたかった本も攻略できたから……」
努めて明るく話そうとする葉月の言葉を、裕貴は遮った。
「なんで葉月が逃げなきゃならないんだ……」
「ユウキ……」
「ああ、ごめん。葉月も頑張って克服しようとしてるのに……」
「ううん。ありがとう」
人の好奇の視線や罵声を思い出すだけでも、足がすくむような恐怖が今も体中から湧いてくる。
でも自分の周りに居るあらゆる人がその絶望の淵から救い上げようと尽力して手をさしのべてくれたことに感謝していた。
その温かさはしっかりと心に残っている。
「ユウキ、私、負けないから」
「葉月……みんなが一丸となって葉月を守るよ。身近なボクらだけじゃない、トーマさんやキラさんやアレックスさんだって。ね?」
「うん」
儚げに微笑む葉月が痛々しくて裕貴の心を締め付ける。
大丈夫なわけがないと思いながら、バックミラー越しに俯き加減の横顔を盗み見た。
その表情といつになく言葉少ない理由の中に、もしかしたら隆二との何らかの関係性の変化があったのかもしれないと、裕貴はふと思う。
「リュウジさんとは……その……」
「え?」
「あ……ゆっくり話せたのかなって?」
葉月は肩をすくめて見せる。
「実はあんまり……私、由夏やかれんと話した後もママやアレックスさんと話してたから……」
「そっか」
無意識にホッと息をつく自分を繕うように、裕貴はハンドルを切った。
いつもの国道に差し掛かり、葉月の家より少し手前の桜川を左折して北上する。
「かれんの家では、ゆっくりできるといいね」
「うん。ママもしばらく神戸に居るみたいだから。毎日電話する約束をしたの」
「そう、良かった。葉月の家の周りにも人影があったって由夏から聞いたからさ、お母さんのことも心配だったんだ」
「ありがとう。ユウキがそんなこと言ってくれてるって知ったら、きっとママは大喜びね」
「そう? リュウジさんに勝てそうかな?」
「あはは、なんの勝負?」
「あはは、なんだろう」
葉月の笑顔をミラー越しに確認しながら、裕貴はひとつの提案を投げ掛ける。
「葉月、ボクたちは今からかれんと由夏に会うけどさ、そしたらきっと葉月は彼女たちに色々聞かれるよね? なにをどこまで話すかっていうことと、葉月自身が話してて苦しくならない頃合いっていうか……それをさ、予めボクと葉月で擦り合わせといた方がいいんじゃないかなって思うんだけど……どう?」
葉月は大きく頷く。
「ああ……確かに」
「エタボ関連の内情は、アレックスさんの件を始め、公開できない内容が多いからね。ごめんな、こんなこと……本当はもう少しほとぼりが冷めてから話したいところなんだけど……」
「ううん、ユウキの言うとおり。なにが話したいのか話したくないのか、今も混乱してて、実は自分でもよくわからないの。でも質問されると、複雑な気持ちを上手く表現できる自信もなくて、自分の本意じゃない言葉にが出て後悔したりするかもしれないし、それが怖くて結局何も話せないんじゃないかって……実は心配だったの……」
「そっか。じゃあ、整理する意味でも、先に話そう。ね、あそこに寄ってくのはどう?」
裕貴は桜川を北上しながら川沿いにある公園を指さした。
奥の広場から小さな子供達の はしゃいだ声が聞こえる。
その手前に忘れ去られたように閑散としたブランコが2つ並んでいるのを見て、葉月は裕貴に向かって頷いた。
「うん」
公園の脇に車を停める。
葉月はキャップにフードを被ったストリートスタイルで、後部座席からストンと降りてきた。
「ふふっ。ホント、らしくない服装だから葉月じゃないみたい。面白いね」
葉月は大袈裟にポーズをつける。
「似合ってんじゃん? キャラ変での登場で、由夏もかれんも驚きそうだ」
「じゃあ変装は大成功ってことね! ふふっ、ヒップホップも踊れそう」
ブカブカのパーカーの袖をまくりながらブランコに腰かけは葉月は、目深にかぶったフードの奥から裕貴に意味深な目を向けた。
「ねぇユウキ、今日はさすがにブランコ、漕いでもいいよね?」
「ははは。まぁその格好なら、今日はいいんじゃない? 思う存分どうぞ?」
「やった! いつもユウキが気持ち良さそうに漕いでるから羨ましかったんだぁ!」
キーコキーコと鳴らしながら、葉月は気持ち良さそうにブランコを揺らす。
「あはは、葉月、小学生みたいだよ!」
「だって楽しいんだもん!」
そう言って葉月が大きくブランコを揺らしたとき、強い風にフードがあおられ、キャップもろとも後ろに外れた。
「きゃーっ!」
露になった顔を咄嗟に隠すためブランコの鎖から手を滑らせる葉月を、裕貴は慌てて抱き止めた。
「なにしてるんだよ! 危ないじゃん! 手を離しちゃ……」
葉月は裕貴の胸に突っ伏したまま動かない。
「どうしたの葉月……」
裕貴は、声を発さないままの葉月を見下ろす。
顔を晒すのが……怖いのか……?
葉月の頭を胸に抱いたまま、裕貴は地面に落ちたキャップをそっと拾い上げ、葉月の頭に目深にかぶせてから更にパーカーでガバッと覆った。
「葉月……もう大丈夫だ。座ろうか」
「うん……」
ブランコに葉月を座らせて、裕貴は誰からも見えないようにその前に立ちはだかる。
俯き加減の葉月を見下ろしながら、自分が想像していた以上に本人が憔悴していることに胸を痛める。
本音を言うなら、親友も含めて、もう誰にも彼女が晒されないよう、話しかけられないように、なんならこのまま自分の家に連れ帰りたい衝動にかられた。
「ごめんね、ユウキ……」
裕貴はそっと葉月の頭に手を置いた。
「謝ることなんかないじゃん。ねぇ葉月、お願いだから無理しないで。ボクの前で元気なフリなんかしなくていいからさ」
「うん……」
裕貴は葉月を見下ろしながら、落ちた口調で話し始めた。
「ボクの方こそ、ごめん。あんな怖い思いしてる時についててあげられなくて。本当に心細かったよね。ボクだけでも帰るべきだったのかもしれない……」
「ううん……」
「葉月、ボクがすぐにこっちに帰って来れなかった理由は、事務所で事実関係について話し合ってたからなんだ」
葉月の身体が固くなるのが見てとれる。
「もちろんそこにいた全員が葉月の心配をしてた。遠隔のアレックスさんも。連絡がつくまでは特にね。エタボの4人も鴻上さんも、無事が確認されてホッとしたのに、またすぐに新しい画像が上がっただろ? これはもうタイムリーに動いているアカウントを突き止めて黒幕の尻尾を掴むしかないって、トーマさんも必死だった。いつになく荒々しい様子でね。あらゆる手を尽くしてる」
「トーマさんが……」
「うん。それで、あらゆる問題について協議した中で分かったことがあるんだけど……」
「わかった……こと?」
葉月に緊張が走る。
「今ここで葉月に聞かせて大丈夫なのか……正直ボクも判断を渋ってる……本当はもう少しほとぼりが冷めてから話したいところなんだけど……」
葉月はスッと顔をあげて裕貴を見つめた。
「ううん、そうやって皆さんが話し合ってくれたんだもん、私も頑張れる。それにね、引き伸ばしたっていいことなんてないと思うから……だから聞かせて、ユウキ」
「わかった」
裕貴は周りに誰も居ないことを確認してから、葉月のとなりのブランコに腰かけた。
「ボクがまず、葉月に伝えなきゃならないことは、トーマさんとボクが話した内容。それはキラさんから提案されたことなんだけど、何のことか……わかるよね?」
葉月は静かに頷く。
「まずはキラさんが、数年前のリュウジさんのファンと香澄さんとの揉め事と、フェスの初日に葉月が被った被害をトーマさんに話した。ボクはその証人としてトーマさんに話を聞かれて、リュウジさんのファンと香澄さんとのいざこざについてきっちり話を伝えた。それからキラさんに促されて、葉月が香澄さんに呼び出されて危害を加えられたことを話したんだ。もちろん慎重に話したよ」
「そう……」
「トーマさんに話したのはフェスの初日の夜のことだけだよ。颯斗さんのことは……話してない」
葉月は少しほっとした表情を見せた。
「とにかく今回はエタボファンの裏サイトを暴くっていうことが一番の目的だったから キラさんもそこにとどめる判断をしたんだ。キラさん、すごい剣幕でさ、そんなことする人間は一人しかいないだろ! って……」
葉月葉月地面を見つめたまま静かに聞いている。
「その甲斐あって、敏速に事が運んだ。トーマさんは正直驚いていたけれど、キラさんと2人であらゆる手段で手回しをして、アカウントに攻撃をかけて、裏サイトの管理人を突き止めたんだ」
「香澄さん……だったのね」
頷いた裕貴から視線を戻して、葉月は大きく息をついた。
「どうしてそんなに恨まれたんだろ……しかも大切なメンバーのアレックスさんを傷つけるようなことまでするなんて……」
「狂った人間の頭の中なんか想像もできないし、分かりたくもないけど、きっと葉月に嫉妬してたんだろう。数年前のリュウジさんのファンを手にかけた時と一緒だよ。逆上したら何をするかわからない。卑劣なやり方で……」
裕貴は忌々しげに拳に力をいれた。
「今回はキラさんがさ、諸悪の根源を一掃するんだって凄い勢いで……現に香澄さんはフェスが終わった直後から休暇をとって姿を消してて、そこから連絡がとれてなかったんだ。トーマさんもようやく合点がいった様子だったよ。ただ、最初は外部攻撃かと思って動いてたのが、実際は身内の醜態っていうことになったから、トーマさんも火消しの方法を変えてかなきゃならないって、頭を悩ませてた。正直、トーマさんとしてはマネージャーとして信頼してた部分もあっただろうから、純粋にショックだったんだと思う。だからキラさんもそれ以上の事は言わなかったんだ。トーマさんが事態を把握してからは凄いスピードで動いてるから、収束は早いと思う」
裕貴はゆっくりと葉月に視線を向ける。
同じ格好のまま地面を見つめるその肩に手を置いた。
「大丈夫? 本当は葉月に話すことを迷ったけど、でも葉月には知る権利があるし、何者かもわからない恐怖の方が辛いかもしれないと思ってさ。エタボのメンバーはさ、葉月のこと信頼してるし、もはやファミリーだと思ってるって改めて感じたよ。一日も早く何にも怯えずに普通の生活に戻れるようにしてあげたいって、みんな言ってた。きっとすぐにやってくるよ。だから、それまでは心穏やかに過ごして欲しいと思ってるんだ」
葉月はすくっとブランコから立ち上がった。
「葉月……?」
「私、もっとしっかりする! こんなに迷惑をかけてるのに、苦情を言われるどころか力を尽くしてくれて……本当に救われたし、信頼してもらえることを心からありがたいって、思ってる。だから、もう私も下を向いてばかりじゃダメなのよね。もちろんこうやって駆けつけてくれるユウキにもホント感謝してるよ。本当にありがとう!」
裕貴も立ち上がって、葉月と肩を並べた。
「葉月の中には捉えきれない現実とか、言いたくないこととか、色々な気持ちがあると思う。今はまだ全部話せる訳じゃないけど、由夏もかれんもゆくゆくはその部分まで汲み取ってくれると思うよ。とにかく今日彼女たちに向き合うために、まずはここで整理してからかれんの家に行こう」
「うん」
2人は再度ブランコに腰を下ろし、フェスのファッションモールでの出来事と、昨日の朝からSNSに上がった写真や、その動向と葉月の行動を照らし合わせた。
第169話『Realty check』認識確認 - 終 -




