第163話『Morning Coffee』モーニングコーヒー
天井まで切り立った全面の窓から燦々と降り注ぐ朝日に眉をしかめ、隆二は眩しそうに目を覚ました。
昨夜はカーテンを開けたままで、彼女が見下ろした夜景を自分もぼんやりと見つめながら眠りに落ちたことを思い出す。
彼女が部屋に入ってきた気配に慌てて眠ったふりをしながら、閉じた瞼の向こうに感じたその息遣いが、今でも頭の中に残っていた。
隆二は時計に目をやる。
来客がいるのにダラダラとまどろんでいる場合ではないと、手で光を遮りながらサッと身体を起こす。
「おっ……と」
ドアの手前で立ち止まり、慌てて身なりと髪を直した。
そしてそっとドアを開け、警戒するように辺りを見回す。
「自分ん家なんだけどな……なにしてんだ俺は?」
ダイニングに進むと、昨夜洗濯した服を着た葉月が困り顔で立っていた。
「あ、おはよ」
「おはようございます。あの……リュウジさん、さっきから色々やってみてるんですけど、このコーヒーメーカーの使い方がわからなくて……」
隆二はフッと表情を和らげる。
「ああ、そいつはコーヒーメーカーじゃなくてエスプレッソマシーンだ」
「え? そうなんですか……でも、やり方ってそんなに違います? ウチのだと、ここに……」
隆二が葉月の背後からスッと腕を回した。
「セミオートだからな。少しややこしいけど、味は抜群だよ。今日は豆を粗めに挽くとしよう。まろやかな味になる。ほら、ここをこうやって……」
「あ……」
隆二が手際よくセッティングする間、息遣いが感じられるほど近い距離にあるその端正な横顔を、葉月は緊張した面持ちで見上げる。
「葉月ちゃんならクレマを〝増し増し〟ってとこかな? ラテアートもできるぞ? やってみたい?」
そう言って顔を覗き込んでくる隆二に、葉月は伏し目がちに言った。
「なんか、リュウジさんって……」
「ん? なに?」
「私の勝手なイメージかもしれないですけど……普通、ミュージシャンの人って音楽以外のことには無関心だったり、不器用で無頓着だったりするんじゃないのかなって、そう思ってたんです。でも……リュウジさんって、何でも知ってて何でも出来ちゃうでしょ? すごく大人の人って感じで。だから……」
「だから?」
隆二が首をかしげる。
「だからね……21歳の私からしたら、途方もなく遠い存在というか……それでなくても人気があって、有名人だし……なのにこんな未熟で無知な私が、そんな人と普通にお話ししてたりしてて、ホントにいいのかなぁって思うことがあって……」
隆二は不可解な表情のまま、両手を広げて肩をすくめた。
「なんで? たかがエスプレッソマシーンの使い方を知ってるだけで、そんなことまで思うわけ?」
「そうじゃないですけど、いつも漠然と思っていた気持ちがこういう事だったんだなって、改めてわかるというか……そりゃエスプレッソマシーンはただきっかけに過ぎませんけど……」
隆二はコーヒーカップをテーブルに移しながら笑いだす。
「はは、またなんとも難しく考えたもんだ。確かに君の若さならまだ解らないことも色々あるだろうけど、俺からしたらそれはそれでかなり魅力的な要素だと思うけど?」
「魅力的!? どこがですか?!」
拗ねたように眉をしかめる葉月の額に手を伸ばし、隆二はその眉間を突っつきながら微笑んだ。
「人は年を重ねるとさ、否が応でもある程度のことは知ってしまうし、その経験をもとに、なんなく解決も出来るようになるだろ? 良い意味でも悪い意味でもドキドキは消えちまう。俺が魅力に感じるのは、なにかを知る直前の感覚っていうか……悩むことも迷うことも、いざ決めて走り出す瞬間も……輝いてたよなぁって、今になっても思うんだ。人は知ってしまうと当たり前になってそれが日常になるけど、同時にときめきを失うだろ? 慣れることは楽だけど、ハラハラしなくなることはなんだか物足りない。だからみんな、刺激を受けたくて俺たちアーティストの音楽を聴くんだと思うよ。知らないものを知った時のあの気持ちに似たものを、いつもみんな探してるってわけさ。それを葉月ちゃんはまだいっぱい持ってるわけだろ? 俺からしたら充分、羨ましいんだけど?」
葉月はグッと顔を上げて、真っ直ぐに隆二を見つめる。
「……ありがとう……ございます」
「なに? お礼を言われることでもないと思うけど?」
「私……今回の一件で、ホントに自分のことがイヤになってたんです。不注意さとか不器用さとか……もうこれ以上誰にも迷惑をかけたくないのに、その方法もわからなくて……未熟な自分が嫌いで、早く大人になりたいって思ってたんです」
「そんなこと……葉月ちゃんはいつも真っ直ぐで一生懸命でキラキラしててさ。俺ら大人が忘れていたような気持ちを思い出させてくれる存在なんだよ。今の葉月ちゃんのままでいればいいんだ。みんなそう思ってるさ! だから、余計な心配はいらないよ」
「私の……ままで?」
上目遣いに見上げ、頬を紅潮させる葉月の肩に手を伸ばす。
抱き締めたい衝動にかられ、力んだその手の熱を逃すかのように、隆二は手のひらを彼女の頭の上にチョンと乗せた。
「ああ、もちろんさ。今の葉月ちゃんがサイコーだから」
「リュウジさん……」
まっすぐ見上げた二つの瞳に真正面から見捉えられ、隆二は言葉に詰まる。
つかの間の沈黙の中、隆二は葉月の瞳の中に何らかの答えを探そうと見つめ返す。
そして屈むようにゆっくりと顔を近付けようとしたその瞬間、葉月の表情がくるっと変わり、その顔がにっこりと華やぐような笑顔になった。
「あ、そっか! その感覚を今もなお忘れずに持ってるから『ETERNAL Boy's Life』のメンバーって、皆さんキラキラしてるんですね!」
「は?!」
話が思わぬ方向に逸れて、隆二は眉をピクリと上げる。
「葉月……ちゃん?」
「そういえば、キラさんもそんな話をしてたような……」
にこやかな葉月の表情とは対照的に、隆二はため息をつきながらふてぶてしく椅子を引いた。
「はぁ?! 渡辺がなんだって?!」
「野音フェスが終わって、帰る日の朝に、キラさんが……」
「ああっ! あの朝の密会か!」
目をつり上げる隆二に、葉月も椅子に腰を下ろしながら首を振る。
「密会だなんて! 私が散歩してたら偶然に会っただけですよ。あちらもお一人だったんで。リュウジさんもそうなんでしょ? やっぱりリュウジさんとキラさんって、音楽だけじゃなくて行動も考え方も似てるんですね!」
「はぁ?! どこが?! あんなヤツと似てるわけない!」
「そうですか? あの朝、リュウジさんにも偶然会って思ったんです。いつもは喧嘩腰に話してたりしても、行動パターンまで似てるなんて、もう相性もピッタリなんだなぁって!」
隆二は肩を落とす。
「あのさ葉月ちゃん……全くもって見当違いだ。アイツと俺は……」
「またまたぁ! 大好きなクセに!」
「違うっつーの!! だからさ……ああもう! ほら、冷めないうちに飲んで!」
葉月は両手でカップを持ち上げて、クスッと笑った。
突然、インターホンが鳴って二人は動きを止める。
「あ……またケータリングですか?」
「いや、なんも注文してないけど……」
「えっ? じゃあ、いったい誰……?」
第163話『Morning Coffee』モーニングコーヒー - 終 -




