第134話『JAZZ BAR Moon Drops』ムーンドロップス
「え!? じゃあ、ここでリュウジさん、JAZZを演奏したの?」
驚いたようにそう言った葉月に、裕貴は嬉しそうな表情で、少し興奮気味に話した。
「うん。なんか新しい世界を見たような気分になったよ。まあ……師匠がジャズドラムを叩くところを見るのも初めてだったしね。それに美玲さんとの演奏もさ、ホントに何年も合わせないとは思えないぐらいしっくりきてて……何て言うか、阿吽の呼吸っていうのかな」
「へぇ……」
そう言いながら葉月は、厨房の奥に見える美玲の横顔に目をやった。
優しい表情だけが魅力なのではない。
同性の自分でもドキッとするような、美しさと大人の色気が感じられる人……
この人と、“阿吽の呼吸” でひとつの音楽を奏でたら……
何か特別な気持ちが湧くんじゃないだろうか……
ふとそんな気持ちがよぎったと同時に、隆二の表情が瞼の奥に浮かぶ。
「お待たせ! 今日はブイヤベースなの、好きかなぁ?」
両手にプレートを抱えた美玲が、にこやかに二人の前に立っていた。
「やっぱり! そうだったんですね!」
「あら葉月ちゃん、わかってた?」
「ええ。実は廊下でいい匂いがするなって思ってたんで……期待しちゃってて」
美玲は嬉しそうに微笑んで、二人の前にそのプレートを置く。
そこには魚介がふんだんに盛り込まれたボウルが乗せられていた。
海の幸を贅沢使ったブイヤベースは、トマトとオリーブの香りがほんのり漂う本格的な逸品だった。
一緒に出されたバケットにもオリーブオイルも 添えられている。
「すごい! 本格的ですね」
「ホント? 嬉しい! 昔ね、南フランスを旅行したことがあって……そこで食べた料理が忘れられなくてね……マルセイユの郷土料理を真似して作り始めたのが最初なの」
ほんの一瞬だけ寂しげな表情を見つけたような気がして、葉月は美玲の顔を見返す。
しかしもうすでにその表情は転じられていて、美玲はにっこりと笑って裕貴に言った。
「ねえユウキくん、それ食べ終わったらこの前練習した曲を、葉月ちゃんに披露してみようよ!」
「ええっ! ボク、まだ披露できるほど上達してないんですけど」
「大丈夫よ、ユウキくんはもともと器用だし、飲み込みも早い人なんだから。それに音楽は人に聞いてもらわなきゃ。そうやって上達していくものなのよ。ね?」
「あ……はい」
美玲はそう言いながら二人に微笑みかけて、再び奥へと戻っていった。
「うわ、今からユウキの演奏が聴けるのね!」
「まいったな……まあでも葉月、ボクのまだ未完成のドラムより、美玲さんのピアノ聴いてみてよ。本当に上手いから」
「そうなんだ! 楽しみだな。いいね、あんな素敵な先生がついて」
「え? 同じ事を我妻さんにも言われたよ。“それ目当てで通ってるんじゃないの” ってさ」
「なんだ! ユウキ、そうだったの?」
「おいおい! 葉月までそんなこと言うなよ。そんなわけないだろ? ボクは純粋に音楽を勉強させてもらっているだけなんだから」
「あはは。そっか」
「それに、失礼だろ? 相手はリュウジさんより年上の大人の女性だよ。ボクなんかが相手にしてもらえわけないだろう?」
「っていうことは、やっぱりちょっとはそう思う気持ちがあるんじゃない?」
「葉月!」
「あはは、ごめんごめん」
二人は美玲の料理に舌づつみを打ちながら、存分に食事を楽しんだ。
「随分盛り上がってるわね。あなた達、本当に仲良しなのね。さあユウキくん、そのコーヒーを飲んだらそろそろどう?」
美玲はドラムセットの方に目をやって、裕貴を促した。
「本当に、演るんですか?」
「ん? ユウキくん?」
「あ……いえ冗談です。やります。あの、それで曲は……」
「そうね、じゃあ……この前、大方仕上がった『All of Me』はどう?」
渋々立ち上がったように見えた裕貴は、ドラムの前に座るや否やすっかり顔つきを変えて位置調節を始めた。
演奏後始まると、葉月が当初抱いていた好奇心がすべて洗い流され、二人の奏でる曲のスピリッツにぐんぐん惹き込まれて行った。
「わぁ素敵! ユウキもすごいよ! ジャズドラマー、かっこいい!」
美玲は美しくお辞儀をすると、葉月の拍手が鳴り止まないうちに裕貴を次の曲に誘導する。
「じゃあユウキくん、次は夏らしく “ボサノバ” いってみようか?」
「えっ、そんなの、やってないですよ」
「大丈夫大丈夫! 今から言うリズムで叩いてみて。それをとりあえずループしてくれたらいいから。入れられそうだったら、間に“フィル”を入れてみてね」
美玲はピアノを奏でながらリズミカルに左手を鳴らし、それについて行くように裕貴がそのリズムを叩き始める。
「そうそう、その感じでループね! ほらね、ユウキくんは飲み込みが早い! 隆二……くんによく似てるわ。さすが師弟関係ね」
ほんの一秒ないくらいのインターバルだった。
葉月はその小さな隙間の意味を探るように美玲の表情を窺う。
「さあ始めるわ。ユウキくんのカウントからね」
「あ……はい」
裕貴も同じような表情で美玲を見ていたことに、葉月は気がついた。
再び美玲に視線を戻すと、彼女は葉月を見てにっこりと微笑んで言った。
「では聴いて下さい、イパネマの娘」
心地よいボサノバのリズムに乗ってピアノが流れ、心地よさそうに演奏する美玲の軽快な手元を見ていると、汗が引くように心の中もスーッと透明感を増していく。
葉月は再び大きな拍手を送った。
まだドラムセットの前に座ったまま練習を始めようとしている裕貴をおいて、美玲が葉月の元に戻ってきた。
「とても贅沢ですよね! こんな素敵な演奏、私が独り占めするなんて」
「まあ! そんなふうに言ってもらって嬉しいわ。ユウキくんもすっかりサマになってるでしょ? 彼、ジャズも似合ってると思わない?」
「ええ、本当ですね」
「ホントに筋がいいんだから。まあ、師匠がいいからかしら?」
「あの……」
「なに?」
「リュウジさんにジャズを教えたのが美玲さんだったって、聞いたんですけど」
美玲は一際明るい表情を見せる。
そのバッとした頬が、とても綺麗だと思った。
「まあ、教えたと言っても元々凄くテクニックのあるドラマーだからね、技術的に教えることなんてほとんどなかったわ。どっちかって言うとジャズのルーツとか、音楽理論とか。そういった組織的な事の方が多かったから。まぁ、すごくストイックな人でしょ? 毎日ドラムを触りに来てるって感じだったし」
「毎日……ですか」
「あ……ええ。まぁ、家も比較的近所だしね。あのマンションから練習スタジオに行くよりも、ここに来るほうが近いから」
あのマンション……
「東公園の南側のタワーマンション。あそこにまだ住んでるのよね?」
「え、ええ……」
「……そっか」
美玲がさっき一瞬見せたのと、同じ顔をした。
その表情に過剰反応した葉月が声を発する。
「あの……」
「なぁに?」
「あ……えっと……今でもリュウジさんはここに来たりするんですか?」
伏し目がちに美玲は微笑んで、首を横に振った。
「いいえ。この前、ユウキくんが初めてここに来た時に、3年ぶりぐらいに会った」
「3年ぶりですか? どうしてそんなインターバルが……」
「葉月」
ドラムセットから降りてきた裕貴に声をかけられた。
裕貴の視線の先を追うように時計に目をやる。
「そろそろボク、仕事も戻んなきゃ」
「あ、そうね。私も」
美玲が立ち上がりながら言った。
「葉月ちゃんの職場もこの辺りなの?」
「ええ。近藤楽器店ほど近くはないですけど、歩いて来られる距離です」
「そうなの? じゃあ時々遊びに来て! 私の料理、気に入ってもらったから嬉しくって!」
「はい。是非、来させてもらいます」
店を出る二人を、美玲は外の廊下まで見送りに出てくる。
手を振りながら美玲が言った。
「ああ、ねぇ、隆二……くんにも、また来てねって伝えといてもらえるかな」
「あ……はい。わかりました」
葉月の代わりに裕貴が返事をした。
折れ曲がった廊下のすぐ先にある階段を、二人は無言のまま登り始めた。
「あの……さ、葉月」
「ん? なに?」
「あ……言いそびれてたんだけど、美玲さんってさ、元々はリュウジさんのお兄さんの婚約者だったんだって」
「え? お兄さんの婚約者?」
「そう。ただ……結婚を両親に反対されたみたいでさ。結局別れて、お兄さんは親の勧める人と結婚したみたいなんだけど……」
「そんな……」
「うん……だからさ、多分……姉弟みたいな感覚なんじゃないか?」
「え」
「いや、リュウジさんと美玲さんの関係だよ」
「ああ……そうね。でもユウキ、なんでそんな……」
「いや、なんかちょっと……気にしてるように見えたから」
「何も気にしてなんかないけど」
「そっか。じゃあいいんだけどさ」
商店街のアーケードにさしかかる所で分かれて、二人はそれぞれ自分の職場に戻る帰路をとった。
裕貴には気にしてないと言った。
でも……
一度目は聞き間違いかも、と思った。
でも二度目の、あの0.1秒のインターバルは……
美玲さんはリュウジさんのことを “隆二くん” とは呼んでいなかったのだろう。
「リュウジ」
きっとそう呼んでいた。
あんな美しい人にそんな風に呼ばれて、リュウジさんは……
二人の中に流れる空気感を想像して、葉月は慌てて首を振った。
3年間も会ってない、って言ってたし。
葉月はひとつ深呼吸をして『form Fireworks』へと足を早めた。
第134話 『JAZZ BAR Moon Drops』 ムーンドロップス ー終ー




