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それぞれの過去2

裕福な家に生まれたわけじゃなかった。特別な人間だったわけでもなかった。でも、うちはとっても幸せだった。

小学校の頃から、朝早く起きて母の新聞配達を手伝ったり、家事を手伝ったりしていた。母はよくうちに、「ごめんね、家が貧乏で」、と泣きながら言っていたけど、うちはそんなの全然気にならなかった。毎日が楽しかったし、母と父の笑ってくれる顔が好きだったから、うちは友達とあまり遊ばないでがんばってきた。こんな幸せが、ずっと続けばいいと願ってた。でも・・・終わるのは突然だった。

うちが高校進学を間近に控えていた時、父が倒れた。原因は過労と・・・癌だった。うちは進学を諦めて母に、「うちも働く」、と言ったけど、母は辛い顔をしながら、「お母さんがんばるから・・・高校は絶対に出なさい」、と言ってくれた。父の代わりに母は一生懸命働いていた。うちはそれをいつも辛い気持ちで見ていることしかできなかった。

父が倒れてから一ヵ月後、父は・・・亡くなってしまった。学校が終わった後、いつものように父が入院している病院に行った時、父の周りに何人かの看護婦や医者がいた。最初は何が起こったのかわからなかった。その時の、部屋の入り口で呆然と立ち尽くすうちを見る医者たちの目を忘れることが今でも出来ない、同情するような、哀れむような目を・・・。うちは結局、お世話になった父を見送ることが出来なかった。

たくさん泣いた、母と一緒に、涙は止まることを知らないかのようにあふれ続けた・・・。お葬式はやらなかった、お金がないのもあったし、父が残していた遺書に、やらないで欲しい、という言葉も書き残されていたからだ。

父が死んでから二日後には、うちはしっかりと学校へ行った。必死に働いてくれている母のために、死んでしまった父のために・・・学費を無駄にすることなく、うちはちゃんと勉強をした。思い出すたびに、学校で何度も泣きそうになってしまったけど、それも我慢した・・・。

父といううちの幸せの半分はなくなってしまったけど、残された半分の幸せ・・・母がいるからうちは辛くてもがんばれた。でも・・・幸せの形は、半分になってしまったら、もう半分もすぐに消えてしまうことを、うちは知らなかった・・・。

夏休み手前の日頃、いつものように早朝から仕事に行った母が帰ってこなかった。次の日も、その次の日も・・・母は帰ってこなかった。うちは倒れてしまいそうな程の不安を胸に、それでも学校へ通い続けた。それでも・・・母が帰ってくることはなかった。

ニュースや新聞に、母の姿を見ることは出来なかった。死んでいるのか生きているのかさえ分からず、不安な気持ちのまま夏休みはすぎさってしまった・・・。どんなに待っても帰ってこない母を思い、うちはようやく理解出来た。うちは捨てられたんだ・・・。

うちは少しの間、何もすることが出来なかった。学校に行くことも、働くことも、食事さえ喉を通らず、寝ることすらままならなかった。

そしてうちは、学校を辞めた・・・。生きる気力が完全になくなっていたうちは、ただ一人、死ぬことを望み、家で何もせずに横になっていた。

・・・なんとなくだった。動く気力が全くなかったのに、うちは家を出て、公園のベンチに座り、眩しい太陽を眺めた。本当に、ただなんとなくだった。でも、ここに来なければいけない、と頭の中で何か命じられたかのように、うちはここにきた。

小さな男の子と女の子が、公園の中を走り回っていた。歳は七、八歳ぐらいだったと思う。それを不意に見てしまったうちは、その頃の自分と子どもたちを合わせてしまった。涙がこみあげてくる・・・どうしてこんなことになったんだろう?と、自分は幸せの中にいた。でも・・・今は?

涙が止まらなかった。頬がこけ、痩せ細り、ミイラのようになってしまった自分でも、まだ幸せを望んでいることが理解できた。うちはまだ、死んでいなかったんだ・・・。

とめどなく流れる涙と止まらない嗚咽を出し続けるうちに、いつの間にか近くに来ていた男の子が声をかけてきた。

「どうしたの?大丈夫?」

うちはその顔を今でも覚えている、あどけない瞳の奥に、何か重たい物を持っていたその少年を・・・。うちは言葉を出せずに、ただ泣いていることしかできなかった。

「何か辛いことがあったんだね・・・大丈夫、俺がお姉ちゃんを護ってあげるよ」

その少年は子どもなりに、うちを励まそうと必死だったのだろう。小さな少年の根拠のないその言葉に、うちはすがりついてしまいそうになった。それ程、追い込まれていた・・・。うちはなんとか、声を出した。

「・・・本当に?」

「うん、だから泣かないで」

少年はうちの横のベンチに立ち、うちの頭を抱き締めてくれた。涙や鼻水がつくのもためらわずに、少年はそうしてくれた。

「辛いことも、哀しいことも多いけど・・・死んでしまった人の分、俺らは生きていかなきゃいけない・・・独りでじゃない、支えあって」

少年の言葉には重さがあった。まるで、戦争を体験したことがあるかのような言い方だった。うちはしばらくの間、少年の温もりを感じながら、泣き続けた・・・。


「ごめんね、いきなり・・・」

やっとのことで涙が止まったうちは、少年から顔を離して謝った。少年は微笑みながら言う。

「誰だって、独りじゃ折れそうになる時もあるよ・・・辛かったら、また助けるよ」

どうしてこの少年の言葉が胸に深く響くのか、その時のうちには分からなかった。今も・・・きっと分かってはいない。

「ありがとう・・・君の名前は?」

「俺は・・・」

「こらー!」

少年とうちの間に、さっき少年と一緒にいた少女が割り込んできた。少女は、むー、というような顔をして、少年の腕を引っ張った。

「おトイレから帰ってきたらいないし・・・何やってたのよ、早く遊ぼー」

少女の目は、明らかうちに対して敵視しているような目だった。少年は困ったように、最後に言う。

「ごめんね、また・・・」

少年は少女に引っ張られるように、うちから離れていった。それを見ながら、つい微笑んでしまった。

「可愛いお年頃・・・だね。さてと・・・」

気分は晴れ渡っていた。父の存在と母の存在が幸せの全てだと思っていたうちは、今頃気づいた。うち自身の存在の幸せは、自分が作っていかなきゃいけないことに・・・。

名前を聞くことが出来なかった少年が去っていった後を少し見てから、うちは公園を後にした。



それからすぐに・・・というわけにはいかなかったけど、少しだけ残っていた貯金を切り崩して使い、体力や体調を戻すのに一週間。再度精神を落ち着かせるのに三日程かかった後、うちは働きに出た。家から近くの工場で、年齢的に高校生のうちは雑用や雑務などのめんどくさい仕事をたくさん押し付けられた。大変だったけど、とても充実していたと思う。気がつけば、あれから一年間が過ぎていた・・・その間、母が帰ってくることはやっぱりなかった。

「茜ちゃん、今日も可愛いねー」

「大変だろうけど、がんばるんだよー」

工場には色々な人がいる。中年のおじさんもいれば、中年のおばさんもいる。それぞれ分かれてはいるけど、うちはたくさんの人に応援されて今でもここでがんばっている。

「もう、何言ってるんですか」

「大変でもないですよ、楽しいですから・・・がんばりますよ」

それぞれの人の言葉に返し、うちは仕事を進めていく。誰かに応援されたり必要とされたりするのは、すごく嬉しかった。

「茜ちゃん」

「あ、鈴代さん・・・」

今声をかけてきた人は鈴代さん。鈴代さんはうちの好きな人だ。うちが入って間もない頃から、よく世話を焼いてくれたり、心配してくれたりした。

「どうしたんですか?」

「いや、特に用はないんだけど・・・あー・・・んー・・・」

うちはよく分からないまま、そんな彼を見ていた。決心したかのように、鈴代さんが口を開いた。

「今日仕事終わったらさ、食事にでも行かない?」

「え?」

胸が高鳴った、それはもしかして・・・?

「デートのお誘い、ですか?」

「それ程大げさなものでもないんだけど!・・・うん、そうなるかな」

そんな風に焦る彼を見て、うちはつい笑ってしまった。鈴代さんは口をとがらせて、うちに言う。

「あんまり笑うなって、苦手なんだよこういうの・・・好きな子なら尚更だろ?」

「え?え?もう一回言ってください」

焦るのはうちの番だった。相手も気になってくれてるとは思っていたけど、そう言われるとすごい照れてしまう。

「二回も言うか!・・・そんなわけだから、今はお互い仕事がんばろうな」

「はい!仕事の後、楽しみにしてますね」

顔を赤くしながら去る彼の姿を見送ってから、うちは気合をいれて仕事をする。すごく・・・嬉しかった。多分、今まで生きてて一番幸せを感じていたと思う。

頑張って仕事をしている最中に、工場長に届け物を頼まれた。電車で二駅分程の、違う工場へのお届けだった。うちはそれを快く受けた。届け物なんて比較的めんどくさいことは、普段はあんまりやる気がしないけど、今日は別だった。全てのことが楽しく思えて、全てのことが幸せに感じた。・・・でも、でもね?不安もあった、失うことの哀しさは知っているから・・・そして、それが消えるのも突然だって分かっているから。


お届け物を終えたうちは、帰りの電車に乗って工場へと帰った。そして・・・人生なんてそんなに甘くないことを、うちは身をもってまた痛感させられた。

「・・・どうして?」

さっきまで工場があったはずの場所は、瓦礫の山と化していた。燃えていて、全てが見る影もないほど無残な姿に変わっていた。うちが立ち尽くしている中、その周辺に集まっていた人々が、口々に言ってる言葉が聞こえた。

「ガス爆発かねぇ・・・」

「いや、もしかしたらテロリストによるものかもよ?作っていたものが作っていたものだしなぁ・・・」

「兵器に使われる部品でしたっけ?怖いわねぇ」

「なんにせよ、あれじゃ中で働いてた人は助からんじゃろうに・・・」

その言葉全てが、うちの耳に、心に突き刺さった。気づかない内に、体が動いていた。

「お嬢ちゃん?そっちは危ないよ!」

「離して・・・離してよ!!」

燃えている瓦礫の山に走ろうとしたうちは、その場にいた何人かの人に止められた。死んだってかまわない、だから・・・だから・・・。

「鈴・・・代さん!」

「ここの工場のお嬢ちゃんか、危険だから止めなさい!」

「止めないで、止めないでよ!!・・・わぁぁぁ」

何がなんだか、もううちには分からなかった。その後、どう家に帰ったか分からない。止められた後、うちが何をしたのかも分からない。気がついたら家にいて、一人、膝を抱いて泣きながらうずくまっていた。

「どうして・・・?どうしていつも・・・」

うちはがんばってきた。辛いことが多い中で、それでも必死にやってきた。大きな幸せなんて望んでいなかった、小さな幸せでも・・・うちが幸せと思える幸せを、望んでいた。ただそれだけなのに・・・どうして?どうして神様はこんな不公平なんだろう・・・うちは人並みの幸せすら望んではいけないのだろうか・・・?もう・・・何も分からない、分からないよ・・・。


どれだけの時間、そうしていただろうか。一瞬にも思えた、永遠にも思えた。うちは立ち上がり、家を出た。

外は雨が降っていた。その中を傘もささずにうちは歩いていく。あの日、うちを護ると言ってくれた少年の面影を追うように・・・。

うちは公園のベンチに腰をおろす。部屋で一人悩んでいる時に、あの子の顔が浮かんだ。また会えるとは思っていなかったけど、あの日、うちに生きる気力を与えてくれた彼にもう一度だけ会いたかった。

あの日見た太陽は雲に覆われ、その姿を見せることはない。彼に会うことが出来ないのなら、このまま雨に打たれ続けて死んでもいいと思った。

何時間、そこにいたのかは分からない。不意に、上から声をかけられて顔を上げた。

「こんなところにいたら、風邪を引いてしまうよ?」

その声はとても落ち着いていて、貫禄を感じさせる声だった。感じたとおり、声の主は老人だった。うちは相手の顔を見たまま、何も言わずに座っていた。

「泣いているようだね・・・理由は分からないが、良ければ家に来るといい」

うちは静かに首を縦に振り、老人についていくことにした。人攫いでもなんでも、実際はどうでも良かった。


お風呂を貸してもらい、冷えた体を温める。老人が一人で暮らすには広い家だと感じた。それでも、うちにはどうでも良かった。ただ、何を考えるわけでもなく、何をするわけでもなく、死んでしまいたかった。

お風呂からあがり、洗面所に用意されていた服に着替える。なぜ女性物の着替えがあるのかは、深くは考えなかった。


家の中を迷うこともなく、電気のついている部屋、リビングのような場所にうちは行った。そこには先ほどの老人が椅子に座り、一人でテレビを見ている。うちは声をかけることなく対面側の椅子に座った。

「この近くの工場でテロの爆発があったそうだね・・・全く嫌な世の中だと思わないかい?」

テレビからこちらに顔を向けて、老人が唐突にそう切り出した。うちは顔を伏せて、あの時のことを思い出す。

大切な場所、大切な人たち、大好きだったあの人・・・うちの人生から、全てが一瞬に切り捨てられたあの光景。涙は枯れることなく、今もあふれそうになっている。

「どうやら辛いことを思い出させてしまったようだね・・・すまない」

うちを心配してくれているような老人の温かみのある言葉、それでもうちは顔を上げることが出来なかった。

「何があったのかは聞かないよ・・・泣きたい時は泣いた方がいい、哀しい時は哀しんだ方がいい。明日につながる涙は、決して無駄にはならない」

その言葉にうちはカッとなった。当たり前だ、どんなに泣いてどんなに哀しんで・・・がんばって行こうと決めたって全てが一瞬で消えてしまう。うちには明日につながる涙なんてなかった、今も先にもうちの涙はつながらない、ただ過去にしがみつきたいだけの涙にしか過ぎなかった。だから、ついとっさに怒鳴っていた。

「例え明日につながっても、大切なものはまたすぐに消えるじゃないですか!あなたに何が分かるんですか!?」

怒鳴ってから気づいた。それが単なる八つ当たりにしかすぎないことに・・・それでも老人は、落ち着いた声で言う。

「分かる、とは言えない。でも、それを知らない人間はきっとこの世にはいないよ」

「じゃあなんで人は生きるんですか・・・大切なものをすぐに失ってしまうこんな哀しい世界で」

なんでこんなことを言っているのかうちには分からなかった。うちはただ知りたかっただけなのかもしれない、大切なものが何もない自分が辛い中生きていく理由を・・・。

「哀しいことだけだったかい?」

「え・・・?」

「生きていて、哀しいことしかなかった?大切なものがあったということは、楽しいこともあったはずだよ」

哀しいことだけ?違う・・・失ってしまったけど、あの時のうちは確かに幸せだった。

「人間は忘れてしまうんだ、哀しみに流され楽しかった頃を、楽しさに流され哀しかった頃を・・・」

「でも・・・でもうちは、今辛くて、どうしようもなくて・・・」

老人の言っていることは正論だった。それでも、今は辛い。今が・・・辛い。だからうちは、反論するしかなかった。

「苦しくて哀しくて・・・過去も未来も見れなくて・・・消えちゃえばこんな想いしなくてすむのに!」

うちは叫ぶように言っていた。胸の中に渦巻いていたものが、全て吐き出された気分だった。本当はただ・・・誰かに話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない・・・。老人はうちに落ち着いた声で言う。

「生きていれば良いこともある、なんてことは言わない、そんなきれい事を言う気もない・・・しかし、死んでしまったら何も残らない。君が死んだら、哀しむ人もいるはずだよ」

「うちには誰もいない、哀しむ人なんていてくれない!」

大切な人が死ぬ、いなくなる。うちは散々それで哀しい想いをして来たのに、うちが死んでも誰も哀しんではくれない・・・胸が、痛い。

「わしが哀しむよ・・・だめかね、それじゃ?」

偽善的ともとれる言葉を聞き、うちは初めて顔をあげた。老人は優しく、しかし哀しそうに笑っていた。

「出会って間もないのに・・・なんで哀しむの?」

単純にそう思った疑問を口にした。いつの間にか、うちはこの老人の雰囲気に飲まれていたのかもしれない。

「時間なんて関係のないものだよ。一度しか顔を見たことが無い者、一度も会ったことが無い者・・・わしは戦争で彼らが死んでいくのを見て、幾度となく泣いたものだ」

辛い過去を振り返るように、老人は哀しそうな顔をする。うちは分かった気がした、この人が言っているのはきれい事でも偽善でもなく、自分が歩んできた道の辛さを理解してるからこその言葉だと。

「強要はしない、する権利もない。だが、死んではだめだ」

そんな言葉の矛盾に、うちは少し笑ってしまった。どうして、あの男の子やこの人は誰かのために励ましの言葉を言えるのだろうか?

「・・・厳しいんですね。辛いのに、哀しいのに生きろなんて」

きっと笑えてたと思う。不恰好かもしれないけど、ゆがんでいたかもしれないけど・・・きっと笑えていた。そんなうちを見て、老人は安心したような顔をした。

「もう大丈夫、かね?そんな素敵な笑顔が出来るのなら」

今も辛くて哀しい、でも・・・大丈夫な気がした。なぜかは分からない、それでも心は晴れたような気がした。

「辛かったらこの家に来るといい、部屋は空いているから。賑やかだから、悩んでいる暇すらなくなってしまうよ」

その言葉を聞いて不思議に思った。この人以外に人がいる気配はないのに・・・。

「他にも誰か住んでいるんですか?」

「子どもが何人かいるよ、今は学校に行っているから静かなものさ」

「そうなんですか・・・奥さんはいないんですか?」

そう言ってから、自分が聞いてはいけないことを聞いたようなばつの悪さをうちは思った。しかし、老人は気にした様子も無く答える。

「妻は何年も前に、ね。わしら夫婦の間に子どもはいなかったがね」

「え?それじゃどうして」

「戦争の孤児を引き取った、ただそれだけですよ」

ここで初めて、うちはこの老人の哀しさだけの表情を見た。なんとか話題を変えようと、誤魔化そうとしてみる。

「そうなんですか・・・そう言えば、名前はなんていうんですか?」

老人はすぐに、というわけでもないけど、表情を変えて答えた。

「如月朔次郎です、今更かもしれないけどよろしく。君は?」

優しく微笑む老人は、うちに握手を求めて手を出す。それを握りながら、口を開く。

「向日葵茜です、こちらこそ今更ですがよろしくお願いします」


その後は少しだけ他愛のない話をしてから、家に一度帰ることにした。大丈夫と思えても、一人ではやっぱり寂しいと思う気持ちがある。だから、この家に住ませてもらうことにした。

「それでは、一度帰りますね。近いうちにこちらに来ると思うので」

近いうちではなく、明日にでもここに来ようと決めていたけど、それは言わなかった。老人は玄関まで見送りをしてくれた。

「気をつけて帰ってね、最近は物騒だから」

「大丈夫です、それでは、また」

老人の優しい笑顔を背に、うちは家を出て行った。外はさっきまでの雨が嘘のように、晴れ渡っていた。



この家に引っ越してきた時、最初はすごく驚いた。あの時、辛いうちを助けてくれた男の子がこの家に住んでいたからだ。覚えているかな?と期待はしていたけど、彼は気づいた様子もなかった。しょうがない・・・かな?あの時のうちは今とは全然別人のようだったから・・・。だから、うちも初めて会ったかのように挨拶した。

「初めまして、よろしくね」

その時の照れた顔をしていた月夜の顔を今でも覚えている。隣でそれを見て複雑な顔をしていた楓のことも覚えている。うちの新しい生活が、ここでまた始まった。


とはいえ、うちがこの家で過ごしたのは約一年程だった。その間に色々なことがあった。

お酒が飲めるようになったし、大分明るくなれたと思う。ちょっとやりすぎて、兄弟からは迷惑がられていたと思うけど・・・それでもうちは、幸せで充実した日々を送れていた。そんな幸せを自ら手放した理由は・・・月夜と楓の二人を見ているのが辛かったから。落ち込んでいた時、誰も気づいていない中月夜だけはうちを励ましてくれた。兄弟としての心配する気持ちだったのだろうけど、うちはそんな月夜にいつの間にか惹かれていた。でもだめだった・・・月夜には楓がいて、楓には月夜がいた。大切な家族の幸せを壊したくないから・・・ううん、本当は辛くて、きっと我慢出来なくなるからうちはあの家から逃げた。幸せな日々を捨てるのは怖かったけど、うちはそこまで壊れることなく自立できたと思う。

それからは・・・一人暮らしで、ずっと働いた。寂しく思うときもあったけど、がんばれた・・・少しは大人になったのかな?

新しく働き始めても、うちは誰かに恋することが出来なかった。失う怖さもあったし・・・月夜のことが忘れられなかったから。何度も家に顔を出そうか悩んだけど、ずっと我慢してきた。

家を出てから五年、女々しいかもしれないけど・・・うちは今でも月夜のことを想っていた。でも、そんなことじゃいけないと思った。だから、休みをとって家に帰ることに決めた。・・・本当に、本当に嫌で汚い考えだけど、もしかしたら月夜と楓が一緒じゃなくなってるかもしれない、と淡い期待を抱いて、うちは自分の恋に決着をつけるために、家に帰った。


でも、気持ち的に普通に帰るなんて出来なかった。だから、ちょっとした遊びを含めて、自分の照れくさい気持ちを隠そうと思った。

入学祝い用の変な銃を買ったり、黒い覆面を買ったり・・・ドキドキしながら、家の前で準備したり・・・何やってるんだろ、なんて自分でも思ったりしたけど、やっぱり照れくさかったし、普通に月夜に会うことなんて出来なかった。準備はすぐ終わった、銃を持って家の呼び鈴を鳴らす。最初に何を言おうか迷ったけど、それは顔を見たら決めればいいと思ってた。呼び鈴を鳴らしてから少しして、家から顔を出したのは・・・大分成長していた月夜だった。

今こそ、この長年の想いを終わらせたい・・・終わらせよう。

果たしてこれは番外編扱いなのかどうか・・・?

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