傷
最近よく夢を見る。うっすらとしている割には、とても現実味を感じさせる夢・・・。もしかしたら、僕が失くしてしまった記憶がそれを夢にして見せているのかもしれない。
夢の中にいつも出てくる少年は、靄がかかっているかのように姿を見ることが出来ない。うっすらと、輪郭だけ。それでも僕は彼を知っているし、彼も僕を知っている。それなのに、どうして僕は思い出すことが出来ないのだろう・・・。思い出そうとすると、涙が出る、頭痛がする。今の状況が不安で、思い出したいと思っているはずなのに、どこかで僕は、それを拒んでいる。それが更に僕を不安にさせる。
何があったのだろう?どうしてこうなったのだろう?考えれば考えるほど、不安は大きくなる・・・それなのに、どうして僕はこんなにも落ち着いていられるのだろう?
全てが分からないまま、今日も僕は、少年が誰だか思い出せずに、朝を迎えてしまうのだろう。
カーテンから差し込む光に、ランスは目を覚ました。
「ん・・・?」
ズキズキと頭に響く鈍重な痛みが、朝の清々しい目覚めを空の彼方に放り投げてくれた。ランスは端整な顔を苦々しげに歪め、昨日何があったのかを思い出そうとする。
「確か・・・茜さん、だっけ・・・?ああ、お酒飲まされたんだったな・・・」
思い出せても、ランスの気分は全く晴れなかった。
「二日酔いってやつかな・・・?どうやら僕は、お酒に弱いみたいだ」
実際のところ、ランスはコップ一杯の半分ぐらいしか飲んでいないが、お酒に弱いランスにはそれだけでも十分だった。しかも、茜が飲ませたのは日本酒で、アルコール度数はそんなに低くない。
「こんな形で、昔の僕を思い出せても・・・嬉しくないな」
お酒に弱い、というどうでもいい点を思い出せても・・・いや、正確には身をもって味わったとしても、現在のランスには嬉しくないことだった。ズキズキとする痛みのせいで、ランスはもう一度寝る気は起きなかった。かといって、何かをする気にもならないようだ。
「うーん・・・」
ランスは、仕方ない、といった感じで、あまり脳に刺激を与えないようにゆっくりと立ち上がり、時間を確認する。時刻は八時過ぎ、この時間なら楓ちゃんがご飯を作っている辺りだろう、と予想をつけ、ランスは部屋を出て行った。
ランスがリビングに訪れると、そこにいたのは楓ではなく茜だった。昨日と同じ格好をしていて、その上にエプロンを着けている。
「あ、おはようございます」
ランスの姿を確認した茜は、人当たりの良い笑顔を浮かべる。茜の本性を知らない男なら、一瞬で恋に落ちてしまいそうな、そんな魅力的な笑顔だった。
「あ、えーと・・・おはようございます」
昨日とは別人のような茜に、ランスはびっくりしながら挨拶を返す。昨日僕は夢でも見ていたのかな?と考えてしまうほど、今の茜は落ち着いていた。
「すぐに朝食を作るので、良ければ待っていてくださいね。冷蔵庫に何があるのか確認はしていませんけど、楓なら材料を欠かすことはしないと思うので」
「わ、分かりました」
ランスはどぎまぎしながら椅子に座り、台所に歩いていく茜を見ている。どうして自分が緊張しているのか、ランス自身分かっていなかった。分かっていることはただ一つ、頭の痛みが消えてしまう程、心臓の鼓動が早くなっている、ということだった。
「そうだ、何か食べれない物とかありますか?」
急に振り返って聞いて来た茜に、ランスは危うく舌を噛みそうになりながらもなんとか言葉を吐き出した。
「多分、ないと思います」
ランスの変な物言いに、一瞬きょとんとした茜だが、
「ふふ・・・じゃあ、適当に作りますね」
と笑顔を残し、台所へと歩いて行った。
「ふぅ・・・どうしたんだろう、僕は・・・」
茜を見送った後、ランスは小さく溜め息をついた。自分の中に浮かび上がる何かが分からずに、ランスはただ困惑していた。
「どうですか?」
「すごく、おいしいです」
楓と同等か、それ以上の料理の腕を持った茜の料理に、ランスは素直な感想をもらした。テーブルの上にはランスの分だけではなく、今ここにいない三人の分もしっかりと料理が用意されている。しかし、三つの席は空白で、ランスの真向かい側には茜が座っていた。食べる様子をじーっと見られ、ランスはつい頬を赤くしてしまう。
「茜さんは、食べないんですか?」
どうにもやりづらい調子で、ランスは茜に聞く。
「私も食べますよ。その前に、みんなを起こしてきますね」
立ち上がろうとした茜に、
「あの・・・」
とランスが声をかける。その声に一番驚いたのは、ランス自身だった。
「どうかしましたか?」
立ち上がろうとしたままのポーズで、茜はランスに聞き返す。
「い、いや、なんでもないです」
「くす、おかしな人ですね」
悪い意味を感じさせない茜の言葉に、ランスは恥ずかしくなってしまった。
「それじゃ、行ってきます」
リビングを出て行く茜を名残惜しそうに見つめながら、どうして自分は呼び止めてしまったのだろう?と、ランスは一人悩んでいた。
茜に起こされた三人(実際のところ、リミーナの部屋を茜は知らないので、リミーナを起こしたのは月夜だが)は、椅子に座って用意された朝食をすぐに食べ始めた。
「おいしい?」
茜は食べずに、みんなが食べる様子を少しの間見てから、そう聞いた。各々が素直に感想をもらす。
「うん、かなり。姉さん、腕上げた?」
「うー・・・私のよりおいしい、お姉ちゃんすごいなぁ」
「すごくおいしい。お姉ちゃんのもおいしいけど、茜お姉ちゃんのもすごくおいしい!」
「そうですね・・・とてもおいしいです」
なぜか偉そうな言い方の月夜、悔しそうな表情をしながらも素直に負けを認める楓、純粋に絶賛するリミーナ、そして再度素直な感想を述べるランス。四人の感想を聞いて、茜は嬉しそうに笑った。
「良かった、昨日は迷惑かけちゃったみたいだし・・・」
いつものことだからなぁ、と月夜と楓は思ったが、それを口にすることはなかった。
「ちょっと色々あってね・・・」
その言葉には、それを追求してはいけないような重々しさがあった。一番鈍感な月夜ですらそれに気づき、四人は誰一人その言葉に口を挟むことはしなかった。
「やっぱり、人数多いほうが賑やかでいいよな」
そんな場を濁すように、月夜が口を開く。
「そうだね・・・なんか、久しぶりだね」
楓もそれに同意する。
二人のおかげで多少は場が和み、その後は特に問題もなく軽いおしゃべりをしながら朝食を終えた。
「片付けは俺がやるから」
食べ終えた月夜は、自分の食器を持って流しに移動する。既に食べ終えていたランスも、それに続いて食器を持って月夜の隣に移動した。
「僕も、手伝うよ」
何か良いことがあったかのように、ランスははにかむような笑顔を浮かべている。
「いや・・・まぁ、たまにはいいかな」
一瞬断りそうになった月夜だったが、どうしてランスが嬉しそうなのかを聞いてみたくなり、手伝ってもらうことにした。でも率直に聞くのもなぁ、と思いながら、何か上手い言い回しを月夜が考えていると。
「月夜君・・・茜さん、だっけ?」
ランスから話を振ってきた。その声は小さく、内緒話をしているような声だった。
「姉さんがどうかしました?」
疑問に思いながら月夜は聞く。ランスは照れた笑顔で、
「きれいですよね・・・見ているとドキドキしてしまうんです。よく分からないんですが、恋、ってものなんでしょうか・・・月夜君?」
月夜はランスの顔を見たまま口を半開きにして呆然としていた。手に握られていた皿が落ちて、パリーン、という音をたてる。リビングからは、
「月夜ー!またお皿割ったの!?」
という楓の怒り声がとんできた。
(いやいや、俺はそんなに皿割ってないだろ?これで何枚目だったかは覚えてないけど・・・って違う違う、落ち着け俺。恋?池にいる?ちげーよそりゃ鯉だろ!?)
月夜は混乱していた、一人ボケ一人ツッコミを脳内でやってしまう程に。
「・・・変でしょうか?出会ってすぐに、こんな気持ちを持ってしまうなんて」
本気で悩んだ顔でランスに聞かれ、月夜は我を取り戻した。
「変じゃないですよ、一目惚れはしょうがないと思いますし・・・相手が姉さんなら、尚更」
そういや俺もそうだったなぁ、と過去のことを思い出しながら、月夜は溜め息をついた。
「そうですよね?良かった・・・僕は今まで恋なんてしたことなかったので・・・あれ?」
ランスは自分の物言いを、疑問に感じた。もちろん、月夜にもひっかかる部分があった。
「僕は恋をしたことがない・・・どうしてそれが、分かるんでしょう」
ランスにとってそれは記憶ではなく、単なる直感だったわけだが、確信を持って言える程のものだった。
「他に何か、思い出しませんか?」
期待するような月夜の言葉に、
「すいません・・・」
とランスは残念そうに答えた。
「そうですか・・・とにかく、大きな一歩じゃないですか。そうやって、色々思い出していきましょう」
果たしてそれが大きな一歩なのかは月夜には分からなかったが、何事も一歩一歩が大切だと思った。
「そうですよね、でも、もし・・・僕が記憶を取り戻したら、現在の僕の気持ちはどうなってしまうんでしょうね」
憂いを帯びたランスの言葉に、月夜は切なくなった。
「きっと・・・大丈夫ですよ、想いは残ると思います」
だからこそ、そう強く言うことしか出来なかった。
「なんのお話してるの?」
いきなり後ろから現れたリミーナに、月夜とランスは驚いた。
「うわ、ってリミーナか・・・食器持ってきてくれたんだな、ありがとう」
「うわ、って何よ、うわ、って。それに、子どもじゃないんだから、これぐらい出来ますよーだ」
ふてくされた様に言うリミーナに月夜は苦笑する。
「まだまだ子どもだろ?」
「むー・・・これでも考え方は大人だもん!」
「大人は自分のこと大人なんて言わねーよ、子どもは子どもらしくさっさと宿題でもやってなさい」
口をとがらせて月夜をにらむリミーナ、それでも前ほどの凶々しさはなく、どちらかといえば可愛い程度の視線だった。
「二人は仲がいいですね」
今まで黙って二人を見ていたランスが、微笑みながら言う。現在のランスには、二人が殺し合ってたことなど微塵も知りはしない。
「まぁ、兄妹だしね。それに、昔の兄・・・」
そこで月夜は言葉を止めた。ランスは不思議そうな顔でそんな月夜を見ている。
「いや、なんでもないよ」
記憶を失って別人になってしまったランスに、月夜はその続きを言うことが出来なかった。昔の兄貴も仲良かったよ、なんて、現在のランスを苦しめるような言葉を。
「とにかく、リミーナはもう戻れ。ああ、いや・・・悪いけど、食べ終えてあるなら残り二人の食器も持ってきてくれないか?」
場を濁すような月夜の言葉に、リミーナは渋々と頷いた。
「しょうがないなぁ、貸しにしておくからね」
そう言い残し、リビングに歩き出すリミーナの背中に、月夜は言葉を投げかけた。
「そんなもんで貸しになるかっつうの・・・全く」
やれやれ、と溜め息をつきながら、月夜はランスに向き直る。
「続き、聞かせてもらっていいですか?」
「続き?」
再度手を動かしながら、月夜はランスに聞く。
「姉さんのことですよ、本性知ってますよね?」
「ああ・・・うん、お酒飲むとすごい暴れるんだよね」
ランスの言葉は半分正解で半分間違っていた。実際の茜は、お酒が入ってなくても暴れるのだから。度合いは違うが。
「常にあんな感じですけどね・・・昨日今日は、大分様子がおかしいですけど」
何があったんだろうなぁ、と月夜は心配をしていた。
「きっと茜さんは、とても弱い女性なんだと思いますよ・・・」
ランスの言葉に月夜はびっくりした。会ってすぐにそれを理解出来た人間は、月夜の知る限りじゃ一人もいないからだ。もちろん、月夜本人を除いて、だが。
「そうですね・・・本性を知らなくても、その本質を分かってるのなら、大丈夫かな。姉さんの場合、見た目で惹かれた人は、大抵すぐだめになるし」
「外見もきれいですけどね」
照れながら苦笑しているランスは、どうやら本気で茜に恋をしてしまったようだ。数ヶ月前の出来事以来、多少なりとも茜のことを引きずっていた月夜としては、複雑だが嬉しいことでもあった。
「ここらで借りを返しておくのもあり、かな」
「借り?」
月夜の独り言に、ランスが疑問の声をあげる。
「いえいえ、こっちの話です」
月夜が言っている貸しとは、楓の誕生日のことだ。あの時、ランスに手伝ってもらった月夜はその借りを返したいと思っていた。現在のランスは全くの別人だが、ランスであることに間違いはないので、まぁいいか、と月夜は勝手に納得していた。
「ちょうど今日、楓と買い物行く予定だったんですよ。ついでにリミーナも連れて行きますんで」
「え?・・・それって」
「少し姉さんとゆっくり話しでもしてみたらどうですか?」
月夜の言葉に、ランスは赤くなったり青くなったりを繰り返した。月夜はそれを見ながら、笑いをどうにか押し殺している。
「いや!でもそんな、いきなり・・・」
歩行者信号のような顔芸を見せた後、ようやくランスはそう口を開いた。
「お互いを知るには良い機会だと思いますよ?姉さんもいつ帰っちゃうか分からないし・・・」
「でも・・・」
うろたえまくりなランスは、過去のランスを思わせない程、思春期まっさかりな男の子のようだった。そんなランスを見て、月夜はついついからかいたくなってしまった。
「初恋なら、尚更がんばらないと。どうせなら、やれるとこまでや・・・あいたっ」
他人をからかい始めると親父っぽくなる月夜の発言は、後ろから頭をはたかれて止められた。そんなことをするのは一人、世界を探せば何人もいそうだが、この家には一人しかいなかった。
「遅いよ月夜!いつまで洗い物してるの?」
「いや、今は男同士の親睦をだな・・・というか、お前らの食器まだ来てないだろ!」
月夜のツッコミに楓は、
「あ・・・それじゃ、またね」
と言い残し逃げようとする。月夜は楓の肩をつかんでそれを阻止した。
「待て待て、言うことはそれだけか?・・・というかリミーナはどうしたんだ?あいつにお前らの食器持ってくるように頼んだんだけど」
「手濡れてるってば!・・・リミーナちゃんならリビングでテレビ見てるけど」
「・・・うん、あいつに頼んだ俺が馬鹿でした。反省してます・・・ってそうじゃないだろ、お前らも食べ終えたなら食器持ってこいよ」
「あははー、忘れてた・・・すぐ持ってくるね」
やれやれ、と言いながら月夜は楓の肩をつかんでいた手を離す。そそくさと立ち去っていく楓の背中を見ながら、どうやったら忘れるんだ?と月夜は小さくこぼした。
「まぁ、邪魔が入りまくりなんで・・・とにかく、がんばってくださいよ」
ランスに向き直りそう言う月夜。
「・・・うまく話せるコツとかないですか?むしろ何を話したらいいのかさえ・・・」
自信なく聞いてくるランスに月夜は困った。月夜自身も人間関係が得意ではなく、面識があまりない相手にそう簡単に話せる話題なんて知っているはずもなかった。
「うーん・・・まずは自分のこととか、相手の知りたいこととか・・・」
なんとかうまいアドバイスをひねり出そうとするが、ありきたりなことしか月夜は言えなかった。
「自分のこと・・・無理ですね」
「逆に難しく考えるから迷うんですよ、何も気負うことなく、普通に話せばいいんじゃないですか?」
更に難しいことを月夜は言ってのけた。面識が少なく、なおかつ好意を持っている相手に普通に話せる人間なんて少数だろう。特にランスは、記憶を失う前から恋愛経験ゼロなのだから。
「そうかな・・・うん、普通にいけばいいんですよね」
ランスは恋愛経験ゼロだからこそ、それが難しいということは理解していなかった。
「そうですよ、流石にずっと話っぱなしなのは無理でしょうけど・・・その辺は気合で」
グッ、と親指を立てる月夜。ランスもそれをまねした。
「食器持ってきたよー・・・って何してるの?」
親指を立て合っている怪しい二人を見ながら、楓は怪訝な顔をした。
「ありがと。これは秘密」
月夜は食器を受け取ってから、ランスに向かって笑いかける。ランスもまた、月夜に照れ笑いを返した。
「???」
楓は一人、ハテナマークを浮かべていた。
「それじゃ、行ってきます」
楓とリミーナの二人を連れた月夜は、玄関まで見送りに来たランスと茜に手を振った。最後まで茜は、
「うちも買い物に行きたいー」
と言っていたが、月夜にランスの事情を当たり障りなく説明され、連れて行くのも一人置いていくのも無理だと思う、と言われた茜は渋々と留守番をすることになった。
「すいません、僕のせいで・・・」
申し訳なさそうに謝るランスに、茜は笑顔で答える。
「ランスさんのせいじゃないでしょ?行けなかったのは残念だけど・・・次があるもの」
留守番させられている原因が、実はランスにあるのを全く知らない茜は、逆にランスを気遣う。
「それにランスさんもうちみたいな女が一緒にいたら、安心して休めないでしょ?」
その言葉は、どことなく寂しげな響きを持っていた。
「いえ、そんなことないですよ・・・立ち話もなんですし、リビングにでも行きませんか?」
「そうしましょうか、うちお茶淹れますね」
ランスの後ろに茜はくっついて歩いていく。後ろの茜に気をかけながら、ランスは緊張していた。
二人はお茶を飲みながら、テーブルを挟んで座っている。普通に、と意識していたランスだったが、緊張でうまく脳は働いていなかった。
(何を話せばいいんだろ・・・)
うまく言葉を出せない自分を、ランスはもどかしく思っていた。
「こんなこと聞いていいのか分からないんですけど・・・ランスさんって、どうして記憶を失ってしまったんですか?」
ランスが考えていると、茜から話を切り出してきた。なんとか自分を落ち着かせながら、ランスはゆっくりと口を開く。
「実は、僕にも分からないんです・・・月夜君から聞いた話によると、車との接触事故らしいのですが」
そして、偶然にも身体への損傷はない。まるで本の中のように出来すぎた偶然に、ランスは違和感を覚えていた。
「大変だったんですね・・・それで、怪我はなかったんですか?」
「運が良かったみたいで、一週間程意識を失ってたそうですが怪我はないみたいです」
ランスは自分自身、それを言っててどうしても違和感が拭えなかった。そんなことを露知らずの茜は、
「不幸中の幸いってやつですね。・・・でも、やっぱり記憶がないって不安ですか?」
とランスに聞いた。
「不安・・・ですね、でも不思議なんです。不安はあるのに、僕の気持ちはすごく落ち着いているんです」
月夜にも言ったことを、茜にも言う。不安なのに落ち着いている、その矛盾を。
「うちにはなんとなく分かるかも・・・忘れたい記憶や消したい記憶は、人間にはいっぱいありますから」
愁いを帯びた茜の瞳は、ランスをドキリとさせる。
「そうですね・・・でも、失っていい記憶なんて何一つないと思いますよ」
「どうして、そう思うんですか?」
ランスは大分緊張がほぐれてきたようで、いつもの様に落ち着いた感じで自論を紡ぐ。
「哀しい記憶も楽しい記憶も、その人を成長させるものだと思います」
「でも、全てがいい方向に働くわけじゃないですよ?辛いことがあったから・・・悪い人間になってしまう人だっているじゃないですか」
茜はランスの言葉に異を唱える。
「もちろん、そういう人間だっていますよ。でも・・・辛いから、哀しいから、それを理由にして、僕は逃げたくない」
現在のランスにそれを言える権利があるのかどうかは、誰にも分からない。それでもランスは、強くそう言った。茜の表情が暗くなる。
「うちは・・・逃げてばっかりで、でもどうしようもなくて・・・どこにも、居場所がない・・・っ」
急に様子が変わった茜に、ランスは戸惑った。それに気づかずに、茜は辛そうに続ける。
「いつだって頑張ってきたのに・・・全てが、うちの手からすり抜けていく・・・うちはもうがんばれない、あなたみたいに強くない!」
それは、言うなれば嫉妬みたいなものだった。自分より勝っている人間がそばにいると、人は自分の弱さを分からされてしまう。今の茜にとって、ランスは強い人間だった。だからこそ茜は、弱い自分が、自分の境遇が許せなかった。
「僕は・・・強くなんてありません」
ランスの凛とした声に、戸惑いはなかった。茜は今にも泣き出してしまいそうな瞳を、ランスに向ける。
「僕は逃げてるだけなんだ、月夜からも、楓からも・・・心を殺して、違う僕を作り出してしまった」
「・・・どういう意味ですか?」
自嘲気味に、ランスは笑った。
「自分がして来たことの罪から、僕も逃げてるんですよ・・・心配してくれている、全ての人を裏切ってまでも、ね」
ランスのその瞳に力は無い、あるのはただ、暗い闇だけだった。
「・・・もしかして、記憶を失ってなんか・・・いないんですか?」
「どうでしょうね・・・僕自身、分からないんですよ。変な物言いになってしまいますが、記憶があっても僕は僕で、逆に記憶がなくても僕は僕なんですよ」
ランスの詩人めいた言葉は、茜には理解出来なかった。
「すいません、こんなこと言っても分かりませんよね。・・・でも、茜さんの居場所はあると思いますよ」
ランスの唐突な言葉に、茜は不思議な顔をした。
「月夜、楓・・・血はつながっていなくても、あなたたちは姉弟でしょう?独りじゃありませんよ」
ランスの雰囲気はどこか超然としていた。ランスという一個人がそこにいるのに、その存在は希薄ですぐにでも消えてしまいそうだった。
「・・・逃げてばっかりのうちが、ここにいてもいいのかな?」
ランスに話すべき理由もない本心を、茜は口にしていた。
「安らげる場所で休むのも大切ですよ、それは逃げではないんですから。休息は必要です」
ありえない程の苦労と辛さを知り、それを体験してきたランスが醸し出す雰囲気はやんわりとしていて、茜の傷ついた心を慰めた。
「・・・あなたは、不思議な人ですね」
「よく言われます、苦労してますから」
苦笑するランスに、茜も微笑みをこぼした。
「どうしてあなたの前だと、強がれないのかなぁ・・・会って間もないのに、月夜にさえ見せれない弱さや事情を、つい口にしちゃいます」
「僕も、ついあなたの前だと自分を出してしまいますよ・・・お恥ずかしいです」
二人は笑い合う。
「うちの話、聞いてもらえる?」
茜の口調に堅苦しさはなく、信頼している人に話しかけるようなものになっていた。
「いくらでもどうぞ、僕もあなたのことを知りたい」
微笑みながら了承するランス。お茶を一口だけすすってから、茜は今回この家に戻ってきた理由をランスに話し出す。
「勤めてた会社でね、上司に言い寄られたの・・・二十歳も年上で、結婚してて子どももいる人なのに」
「ほう・・・人としては最悪ですが、茜さん相手なら仕方ないかもしれませんね」
「仕方ないじゃすまされませんよ・・・何回断ってもしつこく言い寄ってきますし、何回も後つけられたりとか・・・怖かったんですよ?」
茜は思い出したくないことのように、話しを進めていく。
「断り続けてたら、社内に変な噂とか流されるし・・・仕事が出来る上司だったので、社長には信頼されてましたし・・・誰にも相談出来なくて」
「辛かったんですね・・・」
「うん、仕事頑張って来たのに・・・そいつのせいで、居辛くなって会社も辞めちゃった・・・情けないよね、うち」
落ち込みながら、自分を責めるように言う茜に、ランスは優しく声をかけた。
「情けなくなんてありませんよ、すぐには辞めなかったんでしょう?」
「うん、それから三ヶ月ぐらいしかもたなかったけど・・・」
「三ヶ月ももてば十分ですよ、そんな状況でも仕事をちゃんとこなしていたのなら・・・あなたは弱くなんてありません」
茜は溜め息をつきながら、テーブルに突っ伏す。
「・・・本当は、誰かにそうやって言って欲しかったのかも・・・がんばったね、って褒めて欲しかったのかも」
茜は今まで頑張り続けて来た。大好きな両親がいなくなり、好きな人がいなくなり、それでもずっと頑張り続けてきた。ランスは茜の頭をなでながら、言う。
「今まで頑張って来たのなら、休んでも誰も文句は言いませんよ」
ランスの手を心地よく感じながら、茜は静かに聞いた。
「ランスさん・・・あなたは、どれだけ苦労してきたの?」
「さあ・・・僕は記憶がないので分かりません」
意地の悪い笑みを浮かべながら、しかし悪意は感じられない調子でランスは言った。
「ずるいよ・・・うちだけ言ったんじゃ、不公平だよ。記憶喪失のフリをするなんて、どれだけ辛いことがあったの?」
「フリ、でもないんですけどね。そうですね・・・実は僕、女なんですよ」
「ええ!?」
茜はテーブルからがばっと上半身を起こして、驚く。ランスは深刻そうに続ける。
「手術して今はこんなですけど・・・男になりたい女なんて、世間一般じゃ変扱いされるでしょう?」
「そ、そうだったんだ・・・すごい苦労してきたんだね・・・だから、うちも本心話せちゃったのかもしれないけど」
茜がランスに本心を打ち明けられた理由は、何かを悟った者独特の雰囲気がランスにはあったからだ。言うなれば、まるで神のような存在だろう。
「だから僕は・・・くっ、あはは」
話を続けていたランスが、こらえ切れなくなったように笑い出した。それを、茜はきょとんとした顔で見る。
「ははは・・・冗談ですよ」
「え?・・・ランスさん!」
ようやく騙されていたことに気づき、茜は怒る。
「いや、すいません、まさか本気で信じるなんて思ってなかったんで」
「もう、真剣に聞いてたうちが馬鹿みたいじゃない!・・・馬鹿」
すねたように怒る茜に、ランスは微笑む。
「会ったばっかりなのに、そっちのほうがあなたらしいと思えるのは、なぜでしょうね」
「うちは怒ったり騒いだりしてるほうが似合ってるって言いたいの?」
口をとがらせて言う茜に、ランスは照れたように頭をかきながら言う。
「いえ、ただ単に僕が茜さんの哀しい顔を見たくないだけです」
「・・・キザだね、でも、ランスさんに言われるとなんか嬉しいな」
お互い頬を赤く染めながら、はにかみながら微笑んでいる。出会ったばかりの二人だが、お互い惹かれ合っていた。
「そうだ・・・今日のことは、月夜君と楓ちゃんには内緒にしてもらえると助かります」
「大丈夫、言わないよ。ランスさんがちゃんと、自分から言うまではね。その時には、うちにも理由を教えてね?」
ね、と微笑む茜に、ランスも微笑み返した。
「その時は、ちゃんと言うよ。信じてもらえないかもしれないけど」
「さっきみたいな嘘はだめよ?」
「さっきの話より嘘っぽい、ほんとの話さ」
ランスは苦笑しながら言う。
「信じるよ・・・あなたが、本当だって言うのなら」
「ありがとう、茜さん・・・それと、誤解してるようだから訂正しておきます」
「誤解?」
困ったような顔をしながら、なんて言えばいいのだろう、といった風にランスは話し出す。
「記憶喪失のフリ、ではないんです。少なくとも、月夜・楓・リミーナの前では」
案の定、ランスの言葉の意味が分からない茜は首をかしげた。
「どういう意味?」
「なんと言えばいいんですかね・・・心が、拒絶しているんです。罪の意識のせいなのかどうかは分からないけど、僕は彼らの前で以前の僕に戻ることを拒絶しているんです・・・分かりませんか?」
それはランスの罪の意識による心の制御みたいなものだった。大半の人間は、全ての人間に対して同じ顔・性格で振舞えるものではない。好意を持っている相手にはなるべく良く接したいだろうし、逆に嫌な気持ちを抱いている相手には一歩退いてしまうだろう。例外もあるがそれは、大抵は好きか嫌い、もしくは親しいか親しくないか、で分かれている。ならなぜ、親しいはずの月夜・楓にランスは他人の自分でしか接することが出来ないのか?答えは簡単だった。誰だって、親しい者を裏切り傷つけたのなら、気づかなくても自ずと一歩退いてしまうからだ、例えそれを相手が許していたとしてもだ。
こうして、ランスは罪の意識により、月夜や楓たちに以前のように振舞えない。むしろ、彼らの前では他人になることでしか自分を保てなかった。言うなればそれは、心の強い自己防衛機能みたいなものだろう。
「うちにはよく分からないけど・・・月夜たちは、あなたのことを本気で心配してると思うよ?以前のあなたが帰ってくれば、きっとあの子たちは喜ぶと思う」
「出来ないんです・・・僕の、心が弱すぎてそれが出来ないんです・・・!あいつらが傷ついているのを僕は自分の内側から見ているのに、自分が傷つくのが怖くて何も出来ないんだ・・・!」
しない、ではなく、出来ない、と泣いているように叫ぶランスに、茜が落ち着いた声で優しく言う。
「安らげる場所で休むのも大切、それは逃げじゃなくて休息・・・そう言ってくれたのは、ランスさんだよ?今はだめでも、いつかは強くなれるよ、あなたなら絶対大丈夫」
理由を何も知らない茜の言葉だからこそ、現在のランスを癒すことが出来た。現在のランスにとって、恐怖の対象となるのは理由を知っている親しい人間だからだ。
「強く・・・なれるかな?こんな、僕が」
「なれるよ、絶対に・・・」
弱弱しいランスの問いに、茜は強く言う。二人が惹かれあったのは、理由を知り合わない弱い人間同士だったからかもしれない。
「はは、茜さんが言うと、絶対そうなる気がします」
弱弱しい笑いをこぼしながら、ランスはまっすぐ茜を見つめる。
「そうかな?・・・ランスさんがそう言うなら、そうかも」
茜もまた、ランスをまっすぐ見つめる。・・・どれ程の間そうしていただろうか、二人は言葉を交わすことなく、ただ見詰め合っている。突然、小さな地震が二人を襲った。
「うわっ・・・」
「きゃっ・・・」
二人はとっさにテーブルにしがみついて、地震をやり過ごす。揺れはすぐに収まり、家の中は静寂に包まれた。
「大丈夫ですか?」
「うん・・・少し驚いたけど、小さくて良かったね」
ランスの心配する顔を見ながら、茜は微笑んで返す。
「あ、もうお昼だね・・・すぐにお昼ご飯の用意するから」
壁にかかった時計に目をやり、茜が立ち上がる。地震のことなどもう頭にはなかった。
「あ、手伝うよ。茜さん程じゃないけど、それなりに出来るから」
茜につられてランスも立ち上がる。ランスは地震に対して、妙な違和感を感じていた。
「いいの?じゃあ二人で一緒に作ろう」
「はい、任せてください」
のほほんとした会話をしながら、台所に歩いていく二人。
(なんだろうな、この胸騒ぎ・・・ただの、地震のはずなのに。まぁいいか・・・)
ランスの胸中は、先ほどの地震に対する不安を感じていたが。すぐに茜と作る料理のことに気をとられ、その不安は頭の片隅に追いやられてしまった。
世界を変える三つ目の歯車が動き出したことなど、今の二人には知る由もなかった。
PCぶっ壊れてて投稿出来なかった_| ̄|○