それぞれの決意
突然だが、脳が物事を記憶するために行われるシステムは大体四つに分けられている。銘記・保存・再生・再認、この内の一つでも正常に働かなくなれば、記憶障害となる。破損した箇所によって障害の名称は変わるが、どれが破損してしまっても大事には変わりない。
現在のランスは過去を思い出せない状態なので、普通に考えれば再生に異常があるはずだ。しかし医者は、「脳への損傷はなく、記憶喪失といっても一時的なもの」、だと診断した。だがしかし、二ヶ月たった今もランスは記憶を取り戻せずにいる。その理由は難しくはない。なぜなら人間は、身体に異常がなくても精神に異常があれば病気になってしまうのだから・・・。
「それってどういうこと?」
「つまりだな・・・」
リビングにある日当たりの良い窓際の絨毯に、朝食を摂り終えた月夜と楓は寝そべっていた。
「本人が心の底じゃ、記憶を思い出すのを拒んでいるんじゃないかな・・・」
ずっと思っていたことを口にする月夜の表情は、やや暗鬱としている。
「うーん・・・心の病みたいなものなんだね」
楓の言葉は間違ってはいなかった。そう、簡単に言ってしまえば心の病みたいなものなのだ。だからこそ・・・
「そうそう、だから医者じゃ治せないし、草津の湯でも無理だ。・・・俺らが、力になってやらないと」
昨日の夜に月夜は決心していた。幾度となく現在のランスと対話してきた月夜だったが、本心ではそれを嫌がっていた。自分にとって一番親しかった者が他人になってしまった哀しみ、そして他人扱いをされる苦しみ・・・その上自分のせいだという罪悪感に苛まされ続け、月夜はいつだってランスの前から逃げ出してしまいたかった。しかし、月夜は力強く言う。
「兄貴だって辛いんだと思う、だから・・・俺が、俺ばっかりが逃げてるわけにはいかないから・・・!」
「うん・・・私も出来る限りがんばるよ、何も出来ないかもしれないけど・・・」
月夜の決意を感じ取り、楓も決心する。楓自身も、現在のランスと向き合うのは辛かった。
「楓の支えがあれば、俺もがんばれるよ。よし、早速兄貴の部屋行くか」
楓に微笑んでから、早々と立ち上がる月夜。
「私もついていくよ。辛い時は一人より二人、ね?」
ここだけの話だが、月夜が小学校から高校までの間に出来た友人の数は十に満たない、しかもその大半は楓繋がりの友達だった。戦闘はともかく、不器用で対人関係が苦手な月夜としては楓の助力はありがたかった。
「ありがとう、助かるよ・・・二人きりだと場ももたないし」
「うん!行こう」
早々に二人はリビングを出てランスの部屋に向かった。
その頃、朝食を摂り終えて部屋に戻ってきていたリミーナは勉強机の前の椅子に座って悩んでいた。
「・・・はぁ」
何度目の溜め息だろう、と嘆息しながらリミーナは幼い顔に暗鬱としたものを貼り付けている。月夜の家は広く、部屋が結構余っているのでリミーナも自分の部屋をもらっていた。
「私・・・この家にいてもいいのかな?」
あんなことをして何も気にせずにこの家にいれる程、リミーナは豪胆でも能天気でもなかった。月夜や楓がいない場所では、こうしてよく一人で悩んでいる。
「帰る家があって・・・学校に行って友達も出来て・・・幸せなんだろうけど・・・本当に、いいのかな?」
あんなことをされた月夜と楓は、特に気にすることなくもリミーナを家に迎え入れた。しかしリミーナは罪の意識を感じ、二人を心配させないようにこうやって一人で悩んでいる。環境や感情に流されたからといって、犯してしまった罪は消えてなくなりはしない。
『なら、死んで償えばいいんじゃない?』
耳にではなく、直接脳に響く声がリミーナに聞こえる。
「死んだって、罪は消えないよ・・・」
『じゃあ、生きればいいじゃない。能天気なお兄様や楓も、そっちのほうが喜ぶでしょう?』
どことなく冷たさを感じる声は、平然とそう言い放つ。
「それが出来るのなら・・・こんな悩んだりなんてしないよ」
『そんなに悩むぐらいなら、また私に全てを任せてしまえばいいのに』
リミーナは首を強く横に振る。
「それじゃだめなの!私は・・・もう逃げたくないから」
先の月夜と同じように、リミーナもそう心に決めていた。
『まぁ・・・あなたがそれでいいのなら私はかまわないわ。メインのあなたが決めることであって、私が決めることじゃないもの』
「うん・・・逃げてばっかりじゃ、またみんなに迷惑かけちゃうから・・・あなたにも」
冷たい声は笑いながら、それを否定した。
『迷惑?私は全然そんなこと思っていないわ。表裏一体・・・あなたが辛いと私も辛いんだもの』
「それでも・・・辛いことを全部任せるのは、嫌だから」
『ふふふ、強くなったのね・・・そうね、じゃあ私は、ゆっくり眠らせてもらおうかしら。それに、誰かに見られたら一人で喋っている頭のおかしい子にしか見えないわ』
「それはやだなぁ・・・うん、それじゃ・・・おやすみ、またね」
『また、があるかは分からないけど・・・おやすみ、またね』
その言葉を最後に、リミーナに声は聞こえなくなった。深層意識の中、深い眠りについたようだ。
「うん・・・!悩んでても仕方ないよね、私は私なりに・・・がんばればいいや」
自分を元気付けるように、リミーナは言う。
「それじゃ宿題やっちゃおう」
思考を早々に切り替えて、リミーナは小学校から提出された冬休みの宿題にとりかかり始めた。
人格を作る一因になるのが、環境である。環境があまりにもひどく、そこから逃れられない状況にあると、人間は大抵壊れるか逃避するかという行動に走る。リミーナの場合、その逃げ道がもう一つの人格の作成だった。辛い環境に身を置きながら、母親を助けたいというリミーナの強い感情が、いつしかもう一人の彼女を生み、その彼女はそれを実行出来る冷酷さを持ち合わせていた。そしていつしかその感情が、月夜・人間への復讐の火種となった。しかし、結局はメインであるリミーナの意思には彼女は勝てない。要するに、彼女がとった行動はリミーナが望んでいたものなのだ。だからこそリミーナは自分を御し、もう一人の彼女にまた全てを背負い込ますことをやめる決意をした。
不安だけど生きよう、それがリミーナの出した答えだった。
「えーと・・・」
月夜は困っていた。ランスの部屋に来てわずか五分程、ほぼいつも通りになっている定期的な会話をしてから続かなくなっていた。
(何言えばいいんだろうなぁ・・・記憶を失う前の兄貴の話とか、か?それもどうかと思うし・・・楓ー!)
月夜は横にいる楓に困ったような視線を送る。かくいう楓も、最初に部屋に入った時しか口を開いていなかった。月夜の視線を受けて、楓はゆっくりと息を吐いた後に口を開く。
「ランスさんは、記憶を取り戻したいと思っていますか?」
直球だった。その言葉に内心月夜は焦ったが、ランスは特に気にした様子もなく答える。
「そうですね・・・実は、よく分からないんですよ。僕は自分が何者なのか不安で、恐怖すら感じるときがあります・・・しかし、実は不思議と落ち着いているんです。なぜでしょうね?」
「それはやっぱりランスさんがのぞ・・・むぐっ」
月夜が言い切る前に、楓がその口を手で塞いだ。
「私たちには分かりませんけど、何かあるんじゃないですか?」
「あなたたちにも分かりませんか・・・ところで、一体何をしているんですか?」
いきなり月夜の口を塞いだ楓を、ランスは不思議そうな目で見ている。その目は純粋無垢な子どものような目で、いつも愁いを帯びていた目は今はもうなかった。
「なんでもありませんよ、気にしないで下さい」
にこりと笑う楓、その横では月夜が、
「むー!むー!」
とうなっていた。というか顔が赤くなってきている。
「あの、口だけじゃなくて鼻も塞がってますけど・・・大丈夫なんですか?」
心配そうに言うランスの言葉に楓は、はっ、となってすぐに手を離す。
「げほげほ・・・」
酸欠状態になっていた月夜はすぐにむせた。
「ごめん、大丈夫・・・?」
「何するんだよ、殺す気かっ」
「だって、仕方ないじゃない」
お互い怒り合っているが、端から見れば仲の良さを示しているような、そんな微笑ましい光景だった。
「仲がいいんですね」
月夜は楓の両頬を横に引っ張りながら、楓は月夜の頭をペチペチ叩きながら、微笑んでその言葉を言ったランスを見た。
「どうしてでしょうか・・・なぜだかとても、懐かしく感じてしまいます」
ゆったりとした雰囲気で続けるランスに、楓が叩くのをやめて言う。もちろん月夜も手を離した。
「その懐かしさに・・・恐怖を感じますか?」
急ぎ過ぎないように、かといって分からなさ過ぎないように、楓は言葉を選んだ。
「恐怖・・・は感じません。どちらかといえば、胸が切なくなるような、嬉しくなるような感じです」
ランスの表情に不安の色はなく、ただ何かを懐かしむような、そんな表情だった。
「そう思えるのなら、ランスさんにとってきっと良い思い出なんだと思います。断片的で不確かなものでも、少しずつ、ゆっくりと、そうやって感じて、思い出していければいいんだと思いますよ」
楓の言葉は落ち着いていて、聞いている相手を安心させるような響きを持っていた。精神面の強さでは、この八ヶ月の間に楓が一番成長していた。そんな楓の言葉に、ランスは微笑んで答えた。
「そうですね・・・正直、僕は記憶を取り戻すのを怖がっていたのかもしれません。でも、さっき感じた懐かしさ・・・嬉しさなどを取り戻していけるのなら、怖がる必要なんて全くないのかもしれませんね」
「それなら、良かった。現在のランスさんには、私たちはまだ他人のようなものかもしれませんけど・・・何かあれば、いつでも言ってくださいね?」
「はい、その時は頼らせてもらいます」
他人行儀な言葉はお互い抜けないが、間違いなく楓は現在のランスを安心させ、仲良くなり、なおかつ相手の記憶障害の一番の問題となっている心さえも、回復に向かわせた。月夜は楓のすごさに魅入ることしか出来ず、口を開くことが出来ないでいた。
「それじゃ私たちは、そろそろ戻りますね・・・気が向いたらでいいので、たまにはみんなでご飯を食べましょうね」
ランスのご飯は、実は楓がほぼ毎食部屋に運んでいた。最初の方は残しもしていたが、約二週間程から全て平らげていたので、楓は食事の心配はしていなかった。しかし、やっぱり記憶を取り戻させたいのならみんなで食べる方が良い、と楓は思ったからそう言った。
「はい、楓さんの料理はおいしいので・・・一人で食べるよりも、みなさんで食べたほうが更においしくなるかもしれませんね」
ランスの前向きな言葉に楓は微笑み、
「待っていますね」
と言葉を残して部屋を後にした。ついつい呆然としていた月夜は、ようやく我に返り、
「っと・・・俺も戻ります。また、来るからさ」
とどうにか笑顔を残して、部屋を出て行った。
「記憶・・・か、僕は一体何を恐れているのか、君達を見ていると、分からなくなるよ」
出て行った二人を見送った後も、ランスはただドアを見つめていた。
夕食時、ぼーっとしている感じの月夜と楓の二人を、リミーナは不思議そうな目で見ていた。
「どうしたの?二人とも」
「ん・・・何か言ったか?」
上の空、といった感じで月夜がリミーナに視線を向ける。楓も同様に、
「?」
といった感じの視線をリミーナに向けていた。
「なんかぼーっとしてない・・・?熱でもあるの?」
「ぼーっとなんてしてないよ、なぁ楓」
「うん、そうだね」
と言いつつも、二人の手は先ほどから同じ空の皿ばかりに箸をのばし、カンカン、と音がしている。誰が見ても、心ここにあらず、といった感じだった。試しにリミーナがその皿をどかしてみると、カンカン、という音は、コンコン、という机を叩く音に切り替わった。
「むー」
明らかおかしい二人を見て、リミーナは何があったのか想像する。同時に、顔が赤くなった。ちなみに、リミーナが想像した単語は以下のものだった。二人っきり・仲の良い男女・挙動不審・・・これらの単語から導き出されるのは、リミーナを動揺させるには十分なものだった。
「そっか・・・そうだったんだね」
何か勘違いしているリミーナをよそに、相変わらず二人はぼーっとしている。
「奥手なお兄ちゃんには心配してたけど・・・二人がまさかそんな関係になってたなんて!」
感極まった様に叫ぶリミーナに、月夜と楓は、
「は?」
と疑問の視線を向ける。
「妹として、私は嬉しいけど複雑な感じです・・・でも、とっても喜ばしいことだよね」
一人でとつとつと意味の分からないことを語りだすリミーナに、今度は月夜と楓が不思議な視線を送る番だった。
「・・・何言ってるんだ?」
月夜の問いに、リミーナは顔を赤くして答えた。
「もう、誤魔化しても分かってるんだからね!二人が・・・その・・・」
リミーナは言葉を探した。さすがに直球で言えるほど、リミーナは大人ではなかった。そのリミーナの挙動不審さに、月夜はなんとなく嫌な予感を感じた。
「えーとえーと・・・結ばれた?」
ようやく言葉が見つかったリミーナがそう言う。疑問系なのは、多少の配慮が混じっているからだろう。
「「は・・・?」」
カラーン、と箸を落とす音が二つ聞こえる。仲良く声を発した二人は、仲良く同じタイミングで箸を落としていた。そんな二人を見て、リミーナが更に誤解を深める。
「あ・・・私が口を出すことじゃないよね、二人のことだもんね」
しみじみと言い出すリミーナに、月夜は言葉にならない声をあげる。
「な、え・・・ちょ、まて」
楓は声すらあげれない様子で、そんな二人を気にせずにリミーナは続ける。
「でも、男の子なんだからちゃんとお兄ちゃんがリードしてあげないとだめだよ?お姉ちゃんは強気に見えても、そういうところは弱いんだから」
「まてまてまて、まちやがれこのボケナス妹」
ようやく月夜の口から出たのは、制止の言葉だった。怪訝な顔をするリミーナに、月夜はすごい速さで喋りだす。
「お前は一体何を言ってるんだ?つーか明らかな誤解がろっかいだぞそれは、むしろどんな誤解の仕方をしやがったんだお前は?まぁ落ち着け?俺らはそんなことはしてないしはっきり言ってお前がどんな誤解をしたのか知らんが、少なくともそれはお前に口出されることじゃないし、そんなことを言う子にお兄ちゃんは育てた覚えはありませんよこの野郎?」
相変わらず月夜は混乱すると何を言っているんだか分からなかった。むしろ落ち着いた方がいいのは月夜だった。
「お兄ちゃんに育てられた覚えはないよ!私が口出すことじゃなくても、二人が心配なんだからしょうがないじゃない・・・お兄ちゃんは乙女心とかに鈍いんだから!」
結果、リミーナに月夜の言葉は伝わっていないし、更に誤解を深める形になった。
「だからそれが余計なお世話だっつうの!俺は楓のことを大事に想ってるし、乙女心が分からなくても楓を哀しませるようなまねはしない!って何を言わせるんだお前は!!」
混乱している月夜は誤解を解くどころか、自らどこまでも墓穴を掘っている。そこで放心していた楓がようやく我に返り、二人を止める。
「二人とも止めなさいよー!」
放心していたおかげで、月夜程混乱していない楓は、二人を止めて誤解を正そうとするが・・・。
「楓はどう思うんだ!?」
「お姉ちゃんはどう思ってるの!?」
「え?え?・・・私は、その・・・」
二人の勢いに押され、もごもごと口ごもる楓。
「私は月夜のこと好きだし・・・月夜がいいならいいけど・・・でもちょっと怖いから、二人で理解しあっていきた・・・」
そこではっ、と楓は完全に我に返った。肩をわなわなと震わせながら、顔を赤くして俯く楓。目を輝かせてそれを聞いていたリミーナ、ドキドキしながらそれを聞いていた月夜に、楓がキレた。
「だから、誤解だって言ってるでしょ!?どうしてそういう方向に話が進んじゃうのよ!?!?」
いつもは、ペチペチ、という感じの平手攻撃をする楓だが、今回は、ゴスゴス、といった感じのグー攻撃だった。右手で月夜を、左手でリミーナの頭を何回か叩く。一瞬逃げようとした二人だったが、楓の迫力に圧され身動きが出来ずにただ叩かれている。
「いってぇ・・・」
「うぅ・・・」
「はぁはぁ・・・落ち着いた?二人とも」
月夜とリミーナはお互い頭を両手でさすりながら、
「「はい」」
と楓に答えた。
「それなら、良かった」
にこりと微笑む楓を見ながら、一番落ち着いた方がいいのは誰かな・・・、などと月夜とリミーナは泣き泣き思っていた。もちろんそれを口にはしなかった、叩かれるのは誰だって嫌だからだ。
「楽しそう、ですね」
その時、リビングに落ち着いた声が響いた。声の主を見て、三人は驚いた。
「ランス・・・さん?」
その男の名前を呼びながらも、楓にはいまいち実感が湧いていなかった。それは当たり前かもしれない、今までほとんど部屋を出ることがなかったランスが、夕食時にリビングに来たのだから。
「おはずかしながら、お腹が減ってしまいまして・・・お邪魔でしたか?」
照れくさそうに答えるランスに、楓はおそるおそる時間を聞いてみた。
「あの・・・今、何時ですか?」
リビングの壁には大きめの時計がかかっているのだが、あえて楓はそれを見ようとはしなかった。
「八時を少し回ったところですね」
「ご、ごめんなさい!」
ランスの言葉に楓はすぐに謝った。いつもは七時前には、月夜・リミーナ・楓の夕食を終わらせ、その後ランスに夕食を届けるのが大体七時を少し過ぎた程度だ。今日はリミーナと月夜(楓もだが)の暴走により夕食の終わりの時間が遅れ、いつもより一時間のずれが起きていた。
「いえ、楓さんが謝る必要はないんですよ・・・本来なら、僕が食卓に赴くのが当然のことなんですから」
特に気を悪くした様子もなく、ランスは自嘲気味にそう言う。
「でも・・・」
「気にしないで下さい、それに・・・今日のことがなければ、お腹が減っていても僕はここに来れなかったでしょうから」
食い下がる楓に、どことなく寂しげにランスは微笑む。
「分かりました・・・それじゃ、すぐに用意しますね」
楓は慌しく台所に向かった。残された三人の間に、微妙な雰囲気が流れる。
「立っているのもなんですし、新しい椅子持って来るんでこれに座っててください」
月夜は自分の椅子を空いているテーブルの場所に移し、新しい椅子を取りに茶室へと歩き出そうとする。
「そこまで気をつかわれると悪い気がするんですが・・・」
「いいから、気にしないで下さい」
他人行儀な月夜の態度に、一瞬ランスは物哀しい表情を浮かべたが、すぐに、
「では、ご好意に甘えさせてもらいますね」
と言って椅子に座った。残されたリミーナは、現在のランスにどう接していいか分からずに、困っていた。
「えーと・・・」
「確か、リミーナちゃん、であってるよね?」
困っているリミーナに、ランスが話しかける。
「は、はい、そうです」
「君とは・・・あまり話したことがなかったね」
リミーナが現在のランスと会話をしたのは、数える程しかなかった。月夜と同様に、リミーナもまた、罪の意識から自然とランスを避けていたのだ。
「あまり機会がなくて・・・」
うまい言い訳が思いつかずに、リミーナは気まずげに言う。
「君は月夜君の妹さんなんだっけ?・・・あれ?ということは僕の妹でもあるのかい?」
反面、ランスは興味があるというようにリミーナに話しかけ続ける。リミーナは説明に困り、どうしたらいいのか悩んだ。
「えーと・・・お兄ちゃんからなんて説明を受けたんですか?」
その辺を知らないリミーナは、自分が下手に説明するのもまずいと思ってランスに聞いてみた。
「確か・・・月夜君は僕の弟で、楓さんは月夜君の血の繋がっていない姉弟で、リミーナちゃんは月夜君の・・・ああ、血の繋がっていない兄妹だったね。それなら、僕とも血が繋がっていないんだね」
なんともややこしい話だった。確かによく考えれば、血が繋がっていないという点を除けば、全員が兄弟なのである。どうやらランスは、月夜とランスが本当の兄弟だと思っているようだった。
「そうですね、それで合ってます。家庭の事情が色々あって、私もここでお世話になっているんです」
さすがに本当のことは言えずに、リミーナは言葉を濁す。ランスはそれに気づかずに、
「へぇ、まだ小さいのに大変なんだね」
と感嘆している。
「それでも、頑張らないといけないんですよ・・・」
リミーナの影のある言葉に、ランスは気まずそうにした。
「ごめん、触れて欲しくない話題だったかな?」
「いえ、大丈夫です」
なんとか気丈に答えるリミーナ。月夜と同様に、リミーナもランスの前では気が置けなかった。いつもは幼い口調のリミーナでも、つい他人行儀に大人っぽくなってしまっていた。
「お待たせしましたー」
リミーナにとって、それはある意味救いだった。台所に行っていた楓が、戻ってきたのだった。
「温めなおしただけですけど・・・」
謙虚に言う楓だが、実際楓の料理は温めなおしても相当の腕前だった。並べられていくお皿を前に、ランスのお腹が、グー、と鳴いた。
「お恥ずかしいです・・・」
照れ笑いを浮かべるランスに、楓が申し訳なさそうに言う。
「遅れてごめんなさい・・・たくさん食べてくださいね」
箸をランスに渡してから、楓も自分の椅子に座り、冷えてしまっている自分のお皿に箸をのばす。
「ありがたいです、残すようなことは出来ませんね」
子どものように微笑みながら、おいしそうに次々と食べていくランス。リミーナも楓が戻ってきたことに安心し、自分の分に箸を進める。
「あれ?そう言えば、月夜はどこ行っちゃったの?」
楓の疑問に、ランスが答える。
「新しい椅子を取りに行きました。今僕が座っているのは、彼が譲ってくれた椅子なんですよ」
「そうだったんですか・・・それにしても、遅いですね」
二人の会話を聞きながら、逃げたんじゃないかなぁ、とリミーナは不満気に思っていた。実際、リミーナはそのせいで困った状況になったのだから。
「っくしゅ・・・風邪か?」
その頃、当の本人、月夜は茶室で布団の山に仰向けで潰されていた。
「それにしても・・・これぐらいどかせないのか俺は」
首から下を布団に潰されながら、じたばたと両腕を動かしている様はまるで亀のようだった。しかし、布団は一向に動く気配がない。さすがに男としてのプライドからか、助けを呼ぶのはしたくないようだった。
「くそー・・・最近ここ来てなかったし、うかつだった」
元々大人数家族だった月夜の家では、月夜と楓以外がいなくなってから不必要な物は大抵茶室にある物置・・・正確には押入れなのだが、そこに物を押し込んでいた。そして椅子を探しに来た月夜は、押入れのドアを開けた瞬間上から落ちてきた布団に潰されていたのだった。その量は中々のもので、貧弱で小柄な月夜は動けなくなっていた。
「うーー・・・だめだ、動けない」
圧死する程ではないし、誰かが気づいて来てくれれば問題はないのだが・・・月夜はどうしても楓やリミーナ、ランスに自分のこんな姿を見られたくはなかった。じたばたと今度は両腕両足を動かしてみるが・・・布団は動いてはくれなかった。
「あーもー!力がなきゃ本当に何も出来ないんだな、俺って・・・」
自分の情けなさに落ち込みながらも、そんなことをやっている場合じゃないと無駄な抵抗を試みる。しかし、やっぱりそれは無駄だった。
「・・・だめじゃん」
他人事のように呟きながら、月夜はぐったりとする。
(力がある自分もだめで力がない自分もだめで・・・どうしてこんな俺を、楓は好きだって言ってくれるんだろうな)
そんなことを思いながら、暗鬱とした表情で落ち込む。確かに、頼りない月夜だが、それ以上のものを持っているからこそ周りの人が慕ってくれるのだと、今の月夜には理解するのが難しかった。
「兄貴みたいに、なんでも出来ればいいんだけどなぁ」
うなだれながらいじける月夜。今の格好がどうとかいう以前に、人として情けないことに本人は気づかない。
「・・・何やってるの?月夜」
「・・・え?」
唐突に聞こえた聞き覚えのある声に、月夜は戸惑った。その人物は青いジーパンを履いている。その人物は白の長袖を着て上に茶色のジャケットを羽織っている。整った顔立ち、流れるような黒髪・・・、
「あかね・・・姉さん?」
数ヶ月前に一度帰ってきてからしばらく姿を見せていなかった茜が、そこには立っていた。
「久しぶり、って程でもないかしら?」
しゃがみこんで笑顔で月夜の顔を覗き込む、その距離は十数センチもなかった。
「な・・・な・・・なんで、姉さんが?というか顔近いよ顔近い」
いきなりの事態に混乱している月夜は、顔を赤くして目を閉じる。
「相変わらずつれないね、それで、何やってるの?」
「・・・聞かないで」
自分の情けない状況を思い出し、意気消沈しながらへこんだ声を出す月夜。
「動けないの・・・?もしかして・・・」
茜はぷるぷると震えている。月夜は嫌な予感しか感じなかった。次の瞬間、茜は笑っていた。
「月夜ってば可愛いー、布団に潰されて動けないなんてーー!」
「うっせー!結構重いんだからしょうがないだろーー!」
さっきとは違った意味で顔を赤くして叫ぶ月夜。そして、はっ、となって口を閉じる。しかし、既に遅かった。
「どうかしたのー?」
リビングから楓たち三人が月夜の叫びを聞いて茶室にやってきた。
「お、お姉ちゃん!?」
「やほ、楓。久しぶり」
手をひらひらさせて挨拶する茜。それよりそれより、と茜は月夜を指差す。
「見て見て、月夜が面白いことになってるのよ」
「最悪だ・・・」
月夜の呟きは、三人のそれぞれの言葉に消された。
「月夜?・・・亀みたいだよ・・・?あははは」
「月夜君、大丈夫ですか?」
「お兄ちゃん・・・くすくす」
(・・・誰か俺を殺してください)
月夜は恥ずかしさで死にたくなった。茜が帰って来た時に、月夜は大抵ひどいめに合う、もちろん今日もそうだった。
その後、みんなに救出された月夜は、
「一人にしてくれ・・・」
そう言い残し、どんよりとした重い空気をまとって部屋に戻っていった。
月夜を除いた四人が、リビングのテーブルに集まっていた。結局椅子はランスが押入れから探し、一応五人分の椅子を持ってきていた。
「知らない内に人が増えたんだねぇ。初めまして、うちは月夜と楓の姉をやらせてもらってる茜って言います」
お酒を飲んでいないのに、やけにテンションが上がってそうな茜に楓は不安を抱いた。
「初めまして、僕は月夜君の兄・・・らしいです。ランスって言います、以後お見知りおきを」
「初めましてー、私はお兄ちゃんの・・・じゃなかった、月夜の妹のリミーナです」
楓を除いた各々が自己紹介をするが、お互い混乱し合ったようだ。特にランスと茜が。
「楓、いつの間にこんなに兄弟が増えたの?うち分からなくなっちゃうよ・・・」
「えーと・・・茜さんが月夜君のお姉さんということは、僕のお姉さんに?いや、妹さんかな?」
「私からしたらみんなお兄ちゃんでお姉ちゃんだし・・・分かりやすいかな」
楓は溜め息をつきながら、なんとかみんなをまとめようとする。
「えーとね・・・長くなっちゃうけど、一旦全部説明したほうがいいよね?」
三人は頷く。かくいう楓も、順序良く説明しないと混乱してしまいそうだった。
「どこから説明すればいいかな・・・まず、この家に住んでいた人からかな?今は私と月夜と茜お姉ちゃんしかいないけど、前はもっといたんだよね・・・」
楓はランスがみんなを殺すように部下に指示を出したことを知らない。そして、現在のランスは、記憶がないためそれを全く知る由もなかった。楓は続ける。
「この家の持ち主、如月ぱぱは元軍人で、孤児の子どもたちを数多く引き取っていたの。その中に含まれるのが、私と月夜と茜お姉ちゃん。血は繋がってないけど、兄弟のようなものです。ここまでは分かりますね?」
うんうん、と三人は頷く。教師と生徒のような状況だった。楓もどことなくノリノリだ。
「次は月夜とリミーナちゃんですが、色々な事情があって二人も血は繋がってないけど兄妹です。そして最後にランスさんと月夜、二人は・・・」
そこで楓は一旦止まる。そういえば、と楓は月夜の言葉を思い出す。
『兄貴を無駄に混乱させたくないから、俺と兄貴は実の兄弟、ってことにしておいてくれよ』
「僕の顔に何か?」
ついランスの顔を見ていた楓は、
「なんでもないです、続けますね」
と場を流して続けた。
「ランスさんと月夜は血の繋がっている兄弟です。どちらも生まれはアメリカらしいですけど、月夜はランスさんに似てませんね」
つい本音を口にしてしまった楓。しかし、別段誰もそこにはツッコミを入れなかった。
「要するに・・・血は繋がってなくてもみんな兄弟、でいいのかなぁ?でもそれだと分からなくなっちゃうから、好きなようにすればいいと思いますよ。私にとって茜お姉ちゃんは姉だし、だからといってランスさんやリミーナにとっては他人みたいなものだからね」
「えー、楓ひどいー」
茜が不満の声をあげたが、楓は無視して話を進める。
「そういうわけだから、少しみんなで仲良くやってて欲しいんだけど・・・」
楓は落ち着かないようにそわそわとしていた。こっちも心配だが、楓にとって何より月夜のことが心配なのだ。それを察した茜は、
「こっちはこっちで親睦深めてるから、楓はいってらっしゃいな」
と楓を促してくれた。
「うん、ごめんね・・・じゃあ、行ってくる」
「がんばってね、お姉ちゃん」
「がんばってくるのよ、楓」
「がんばって下さい、よく分かりませんが」
三人の声援を受けて、なんとなく恥ずかしい気持ちになりながら楓は月夜の部屋へと向かった。
「月夜いる?」
楓は、コンコン、とドアをノックする。返事はなかった。
「入るよ・・・?」
ドアノブを回し、ドアを開けて中に入る。
「う・・・月夜?」
明かりがついていない暗い部屋にはどんよりとした重い空気が充満していて、先の戦いで月夜が具現化した闇の力のように重い空気が具現化されているようだった。
「なんだよ・・・」
部屋の隅っこでどんよりとした空気を醸し出している月夜が、膝を抱えて小さくなったまま楓に目を向ける。
「笑いたきゃ笑えばいいさ・・・どうせ布団にすら勝てない男ですよ、俺は」
今まで見たこともない程落ち込んでいる月夜に楓は近寄り、その隣に座る。
「さっきはごめんね・・・?笑ったりして」
「いいよ別に・・・自分が情けないことぐらい、分かってるから」
月夜の覇気のないその声は、聞いてる者すら苦々しくさせるような力を持っていた。
「そんなことないよ!月夜はいつだって、私を護ってくれたじゃない」
なんとか励まそうとする楓だが、今の月夜はそんな言葉ですら心に届かないようだった。
「前の俺だろ・・・それ。楓を護ったのはインフィニティで、月夜なんかじゃない・・・」
だがしかし実際は、月夜は月夜として、力を使って楓を護ってきたのだ。それは決してインフィニティではなかった。それを知っている楓は、今の月夜を見ているのが辛くなった。
「違うよ、月夜は月夜だよ・・・」
「そうだよ、俺は俺だよ・・・なんの力もない、非力で貧弱な男ですよ」
取り付く島もない、とはこのことだった。月夜はよく欝っぽくなるが、今日は一段とひどかった。よっぽど布団に負けたのが悔しいのだろう。
「もー・・・そんなことないってば、例え月夜に力がなくたって、非力で貧弱だって、月夜は・・・私の、大切な人だよ?」
気恥ずかしそうに言う楓に、月夜は虚ろな目を向ける。
「・・・楓は、俺のどこが良いの?貧弱で、顔も人並み、身長が高いわけでもないし・・・運動神経がいいわけでもない、人より抜きん出たものなんて何一つない・・・しかも、すぐこんなになって、迷惑かけてばっかりの俺なのに」
楓は悩むことなく、そんな月夜の瞳を真っ直ぐ見つめて、言う。
「迷惑かけたって全然かまわないよ、むしろ迷惑だなんて思わないもん!・・・月夜のどこかがいいとかじゃない、月夜じゃないと嫌なの。頼りないところだって、すぐいじけちゃうところだって・・・全部含めて月夜だもん、そんな月夜を、私は好きなの」
楓の言葉は、月夜の荒んだ心を癒す。楓にとってそうであるように、月夜にとっても楓はいなければいけない大切な唯一無二の存在だった。言葉が出ない月夜に、楓は逆に問いかける。
「じゃあ聞くけど、月夜は私のどこがいいの?紫みたいに頭がいいわけじゃないし、茜お姉ちゃんみたいにきれいなわけじゃないし・・・その、胸だってないし・・・」
どことなく悔しそうに言う楓に、月夜はつい笑ってしまった。
「わ、笑わないでよ!」
「はは、悪い悪い・・・そうだな、俺も正確に言えるわけじゃないけど・・・楓じゃないとだめなんだ。良いところも、まぁ悪いところも・・・全て含めて、楓が好きなんだ」
(だからこそ、楓と違って情けない自分が嫌になるのかもしれないけど、な)
月夜は多少虚ろな目をしながらも、自分を見つめている楓を見つめ返した。暗い部屋の中、お互いがやっと見える程の視界で二人は見詰め合う。
「楓・・・」
「月夜・・・」
どちらからというわけでもなく、お互いの顔の距離が縮まっていく。そして、唇が触れそうになる直前・・・ドーン、という物音に二人は遮られた。
「な、なんだ?」
「・・・まさか」
名残惜しそうに二人は離れ、部屋を飛び出して物音が聞こえたリビングに走る。楓の予想は的中していた。
「姉さん・・・」
「お姉ちゃん・・・」
二人は唖然としていた。テーブルがひっくり返され、上に載っていたものが散らかっている。よく見ると、二、三本の酒瓶が床に転がっていた。ついでに、リミーナとランスも転がっていた。
「や〜、お二人さ〜〜ん。ちょっと、暴れすぎちゃったかな〜?お邪魔しちゃったかな〜?あははー」
全く悪びれた様子もなく、ふらふらと立っている茜。大方転がっている二人は、酒でも飲まされたのだろう、と月夜は判断した。
「相変わらずだね姉さん・・・来るたびに、毎回毎回何か壊すのはやめてくれよ!」
数ヶ月前に帰省した時も、テーブルやら何やらを壊し、しまいには後片付けを手伝わされたのを苦々しく思い出す月夜。実際あの時は、飲んで暴れた月夜が破壊してたわけなのだが、本人はそれを全く覚えていなかった。
「いいじゃな〜い、お姉ちゃんだって〜、暴れたい時ぐらいあるのよ〜〜!」
月夜は、いつも暴れてるじゃん、と思ったがあえてそれは言わなかった。大抵茜が暴れてる時は何か嫌なことがあった時であるのを、月夜は知っていたからだ。しかも、今日の暴れ具合とどことなくやつれている姉を見た月夜は、何も言えなくなってしまった。しかし、
「お姉ちゃん!暴れるのは勝手だけど、苦労するのはこっちなんだからね!!ランスやリミーナちゃんまで巻き込んで・・・」
楓は容赦なかった。怒る楓に、茜はしゃがみこんで弱弱しく独り言のように呟く。
「そうよね・・・お姉ちゃんがいると迷惑よね・・・」
いつも破天荒な茜だが、今日は様子がおかしかった。仕方なく月夜は、二人の間に入りなんとかなだめようとする。
「まぁまぁ・・・二人とも少しは落ち着けって」
「落ち着けるわけないでしょ!?月夜はどっちの味方なの?」
楓の食いかかるような視線と、茜のどことなく寂しそうな視線に挟まれ月夜は溜め息をつく。
「はぁ・・・味方も何もないだろ?まずはそこの転がってるのなんとかして、話はそれから」
楓は何か言いたそうな表情をしたが、渋々とリミーナを介抱する。
「大丈夫?リミーナちゃん」
「うにゅー、らいじょうぶらよ〜・・・」
リミーナは顔が真っ赤でろれつが回っておらず、明らかに大丈夫ではなかった。
「もう・・・子どもにお酒を飲ませる人がどこにいるのよ」
よいしょ、と声をあげながら楓はリミーナを抱き上げ、
「部屋につれてくね」
と言い残しリビングを出て行った。月夜も楓と同様に、ランスを介抱する。
「大丈夫?」
ぐったりと倒れているランスは、リミーナと違い返事がなかった。
「どれだけ酒弱いんだよ全く・・・」
月夜は呆れながらランスを持ち上げようとしたが、月夜より身長も体重も多いランスは持ち上げることが出来なかった。
「・・・布団に勝てない俺じゃやっぱり無理か」
虚しく呟きながら、月夜は色々と試行錯誤した。もうこの際引きずって持ってってしまおうか、とも考えたが、さすがにそれはまずい、と思い、仕方なく一番安定した持ち方、ランスの腕を自分の肩に回して引きずっていくことにした。よろよろと歩きながらリビングから立ち去っていく月夜の後ろ姿を、茜はただ黙って見ていた。
「つ、疲れた・・・」
なんとかランスを運び終えた月夜は、リビングに戻ってきた。既に戻ってきていた楓は、散らかった酒瓶や食器を片付けていた。
「あ、お疲れ様」
月夜の姿を確認してから楓はそう言う。その声も表情も、多少不機嫌そうだった。
「お疲れ、手伝うよ」
二人がてきぱきと片付けてる間、散らかした張本人は絨毯の上に寝転がっていた。月夜も楓も、今更なので特に文句は言わなかった。
床に散乱したものを片付け、最後にテーブルを立て直して後片付けは終わった。二人は疲れた表情をしながら、茜が寝転がっている絨毯に腰をおろす。
「それで、今日はどうしたの?」
「・・・」
月夜の問いに茜は答えない。あの手紙の一件を思い出すと、どうにも月夜はやりにくいようだった。
「急に帰ってきて暴れて・・・理由ぐらい話してもいいでしょ!?」
「・・・」
楓の怒りの混じった言葉にも、茜は無反応だった。決して寝ているわけではない。しかし、虚ろな瞳は部屋の天井を見つめているだけだった。
「どうしたもんかな・・・」
困ったように言う月夜。
(何も出来ない子どもじゃないんだから、ほっといても大丈夫だとは思うんだけどなぁ・・・)
と、冷たいことを思ったりもするが、今日の茜の様子のおかしさに月夜は心配になっていた。
「お姉ちゃん?寝るんなら、ちゃんと部屋行って寝ないと風邪ひくよ」
どうやら楓も茜の様子のおかしさに気づいたようで、口調が多少優しくなっていた。
「・・・」
茜はただ黙って天井を見つめている。いや、その虚ろな瞳には天井すら映っていないのかもしれなかった。
「・・・仕方ないなぁ」
月夜は立ち上がり、かけれそうな物を探す。きょろきょろと視線を動かすが、リビングには見当たらなかったらしく、
「ちょっと茶室から掛け布団持ってくる」
と言い残し、リビングを出て行った。残された楓は居心地悪そうに、ただ黙って様子のおかしい茜を見ていた。
程なくして、月夜が少し大きめの掛け布団を持って戻ってきた。それを茜の上にかける。
「家の中とはいえ、寒いしね」
十二月の寒さは、家の中にいてもたまに身震いする程だった。
「そうだね、私たちも早く戻らないと風邪ひきそう」
そう言いながらも、楓はそこから動こうとはしなかった。いつも茜に対して厳しい楓だが、様子の違う茜のことがやっぱり心配らしい。
「ああ、姉さんのことは俺が看てるから、楓は部屋に戻ってもいいよ」
月夜なりに楓のことも心配して言ったのだが、楓は不機嫌そうに言う。
「月夜が戻るまで私も残る」
月夜にはどうして楓が不機嫌なのか分からなかったが、意地を張り出すと楓が絶対に動いてくれないことを理解していた月夜はそれ以上は言わなかった。
「・・・」
相変わらず、無言で天井を見つめている茜。月夜と楓もお互い無言で心配そうにそんな茜を見ていたが、数分の後に茜が目を閉じ、すーすーと寝息をたて始めたのを確認し、部屋に戻ることにした。
「結局、何があったんだろうな?」
月夜は立ち上がりながら、茜を起こさないように小さな声で楓に聞く。
「分からないよ、そんなの」
楓も同様に、小さな声で返す。
「明日、聞けばいいか・・・」
「そうだね」
二人は茜のことを心配しながらも、各々部屋に戻って行った。
草木も眠る丑三つ刻、リビングにある絨毯の上で、上半身だけを起こして静かに呟いている人物がいた。
「うちの居場所は・・・どこなんだろう」
その瞳に力は無い。
「この世界には・・・ないのかも、ね」
力なく呟かれたその言葉は誰にも聞こえることがなく、冷えた暗闇の中に溶けていった。
ほのぼのー(´ω`)
なのかどうかは置いといて、相変わらずこいつらも問題が絶えないよなぁ、と他人事に思う今日この頃です