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迷い

十月、まだまだ暑い日もあるが夏の面影は大分薄れ、季節は完全に秋へとなりつつあった。そして温度変化の多い季節の境目といえば、体調を崩しやすい時期でもある。月夜もまた、その内の一人となっていた。

月夜は体温計の表示を見つめながら溜め息混じりに呟く。

「三十九度二分・・・なんだこりゃ」

起きた時から体の不調を感じ取っていた月夜は、その数値を見て更に気が重くなった。別段無理をして学校に行かなければならない理由があるわけではないが、だらだらとした学校生活が結構お気に入りな月夜としては休むのもなんとなく嫌だった。

「まぁ大丈夫だろ、人間じゃあるまいし」

今まで風邪をひいたことのない月夜は、体の重さを感じながらもどうにかなる、と自分を納得させ着替えて部屋を出る。月夜は体温計で温度を測ること自体がほとんどなく、その知識はテレビから取り入れたものだった。

リビングには既に着替えを終え、朝食を作っている楓がいた。

「おはよう、今日はちょっと遅いね」

リビングに入ってきた月夜に声をかけてから、朝食作りに専念する楓。

「おはよう、毎日一緒ってわけにもいかないさ」

平静を保とうとしても、月夜の声には調子の悪さが含まれていた。月夜はなんとなく楓に気づかれるのを嫌だと思ったが、幸い集中している楓はそれに気づくことはなかった。朝食はすぐにできて、テーブルの上に並べられる。月夜は食欲があまり湧かなかったが、なんとか全て平らげた。

「ごちそうさま、っと。サーシャはまだ寝てるのかねぇ」

不意に言った月夜の言葉に、楓は興味ないといった感じで返す。

「さあ?そんなこと知らないよ」

相変わらず、サーシャと楓は仲が悪かった。正確に言えば、サーシャはただからかっているだけで別に楓を嫌悪しているわけではないのだが、楓はそんなサーシャが好きではなかった。

「ごちそうさまー、ほら、月夜も片付けぐらいは手伝ってよね」

「ああ」

使い終えた食器を洗面台に持っていき、楓と月夜は並んでそこに立つ。楓が洗い、月夜が拭く、それは日常的なことなのだが・・・いつもと違う月夜は、何度か食器を落としそうになっていた。

「どうしたの?体調悪い?」

いつもと様子が違う月夜に、楓が気遣う声を上げる。案外鈍い楓だが、そういうところには結構鋭かったりする。

「いや、ちょっと手元が狂ってるだけ、大丈夫だよ」

心配させないように苦笑しながら言う月夜だが、手元も足元もふらついていて危うい感じがする。

「本当に大丈夫?何かあるんだったら私に言ってね」

楓の気遣いの言葉が心に染みた月夜は、尚のこと心配はかけさせまいと元気な素振りを見せる。

「大丈夫大丈夫、急がないと遅刻するぞ」

実際時間に余裕はあったが、楓の注意をそらす為の月夜なりの言葉だった。

「そうだね、急いで片付けちゃおう」

「おー」

片付けを早々に終わらせ、ゆっくりとリビングでくつろいでから家を出る二人。登校中もふらふらとして足元が心もとない月夜だったが、なんとか学校にたどり着いた。


それからは何事もなく日常が流れた。月夜が授業中に寝ているのはよくあることなので特に誰も気にしなかった。時折おかしい挙動や言動もあったが、誰に悟られることもなく昼休みとなった。

いつもの様に購買部で昼ご飯を買ってから、利樹・紫の二人を含めて月夜・楓の四人は屋上に向かう。その間もふらふらとしていた月夜は、

「なんかの宴会芸か?」

と利樹に突っ込まれていたりもした。


屋上についた四人はいつものように柵付近に陣取り、各々昼食をとり始める。月夜はいつもより遅くゆっくりとパンをかじっていた。

「大分涼しくなってきたよな、冬場は昼飯どうする?」

同じくパンをかじりながら利樹がみんなに言う。

「そうね・・・寒くなったら、屋上は少し辛いかもしれないわね」

「うーん・・・私たち大体ここだもんね」

困っているわけでもないが、少し悩むように言う紫と楓。

「だよなぁ、しっかし時間がたつのも早いもんだよ」

高校生になってから早半年。利樹の言葉を聞きながら、短い割には色々なことがあったもんだ、と月夜は思っていた。

「いつまで俺らも一緒にいれるんだろうな・・・」

利樹のそんな嘆息混じりの呟きに、一人ゆっくりとパンをかじってた月夜が口を開く。

「いつまでも一緒だろ、別に。ただ会える時間が短くなるだけだろ」

当たり前のことを当たり前に言う月夜。しかしそんな当たり前を見逃していた三人はしばし呆然とした。

「ははっ、月夜の言うとおりだよな。俺らしくもないセンチメンタルなことを言っちまったな」

真っ先に口を開いたのは吹き出しながら言う利樹だった。

「そうだよね、別に永遠の別れになるわけじゃないし」

「よく考えなくても分かることだったわね、いつでも会えるもの」

笑い合う三人、その中でそれを言った本人の月夜は多少複雑な思いを感じたが、悟られないようにおどけた調子で言う。

「秋は馬鹿すら詩人にする、ってとこだな」

「馬鹿とはなんだ馬鹿とは」

利樹の攻撃を避けながら苦笑する月夜、その思いは複雑だった。

(考えても仕方ないことかもしれないけど・・・人間じゃない俺は、本当にいつまでもみんなといれるのかな?)

だからこそ今を大事にしたい、と月夜は思っていた。その後はいつものように利樹の馬鹿話などにみんなでつっこんだりして、昼休みは終わりとなった。


体の調子の悪さを感じながら、月夜はなんとか五限目までたどり着いた。実はここが一番の難関だということを、月夜は理解していた。大抵の学校は、秋・冬辺りはマラソンの授業が増える体育、もちろん月夜の学校もそれに該当し、そして五限目は体育でマラソンだった。いつもの月夜にはマラソンなんて屁でもないものだが、さすがに今日は死にかけていた。

「あー・・・やべー・・・」

月夜は誰にも聞こえないように呟きながら、校庭の外周を走る。周りにはだるそうにしている生徒が数多くいるが、その中でも月夜は特にそうだった。元々授業態度の良くない月夜は、体育の教師に怒鳴られる。

「こらー!しっかり走らんか!特に月夜、お前もっと走れるだろ!?」

今にも追いかけてきそうな教師を横目で見ながら、月夜は少しだけ速度をあげる。本気を出して早く終わらせたい気持ちに駆られたが、さすがにそう何度も人間離れしているところを見せるわけにもいかない。更に今の月夜は、ここまでの授業でたまった疲労があり、立っているだけでも結構きつかった。

「これは・・・もちそうも・・・ない・・・なぁ」

周囲が回っているような感覚を月夜は感じた。頭がくらくらとして、地に足がついていないような感じ。誰かの声が聞こえた気がしたが、月夜の意識は急速に闇にのまれていった・・・。



音のない世界に、小さな少年と、二十代程に見える白い白衣を着た女性がいた。女性は少年の頭をなでながら何かを言っている。遠くのようで近くにいるその女性の言葉は、残念なことに俺には聞こえなかった。少年は無表情な顔をしたまま、ただ何もせずに頭をなでられている。傍目から見れば、それは親子に見えた。優しそうな女性に無表情な少年、違和感を伴う不釣合いさがあるのに、なぜかそれはとても微笑ましく思えた。

二人は俺に気づかない、そして俺もきっと大切なことに気づけていなかったのだと思う。胸の辺りが切ない。俺は親に優しくされた覚えなんてないし、周囲の大人にだってされた思い出はない。忘れてしまっているだけなのかもしれないけど、だから、そんな微笑ましい光景が俺の胸を苦しめた。

きっと夢を見ているのだろう、なら・・・もう少し、あの二人を見ていても、良い気がした。



頭をなでられている感触に、月夜は目を覚ました。

「あ・・・う・・・?」

体を起こそうとしたが、体は言うことをきいてくれなかった。

「起こしちゃった?・・・大丈夫?」

月夜の傍らに座る楓が、心配そうに顔を覗き込む。月夜はぼーっとしながら答える。

「ん・・・楓?」

自分の状況がいまいち分かっていない月夜に、楓が怒ったように言う。

「体育の時に倒れて保健室に運ばれたんだよ、覚えてないの?・・・どうして無理するかな」

ああ、そうだった、と月夜はうつろな頭で考えながら、右手で楓の頬に触れる。

「悪い、心配かけたくなかったんだけどさ・・・」

「黙ってる方が心配だよ、調子悪いのは知ってたけど・・・言い過ぎて、前みたいにけんかするのは嫌だったから」

辛そうに言う楓を、月夜は抱き締めたい衝動に駆られた。しかし、体が思うように動いてくれずそれも叶わなかった。

「ごめん・・・大丈夫だと思ったんだけどね」

だから、頬に触れている手で頬を撫でながら、謝罪の言葉を月夜は言った。

「私ってそんなに頼りないかな・・・?体調が悪い時ぐらいは、頼ってよ」

泣き出しそうな楓に、月夜は焦りながら言う。

「そんなことない、俺はいつだって楓を頼りにしてるよ・・・だからこそ、心配はかけたくない」

矛盾してるな俺、と月夜は思いながら密かに嘆息する。

「たくさん心配かけさせてくれていい、私は迷惑だなんて思わないよ・・・月夜が辛いのは嫌だから」

「俺も楓が辛いのは嫌だな、だから・・・ごめん」

お互いがお互いを想い合い、それ故に二人はすれ違いが多い。近いからこそ、二人はいつでも迷いっぱなしだった。月夜はなんとか体を起こし、楓を抱き寄せる。とっさのことに楓はベッドに座っている月夜の上に倒れこむ。

「月夜・・・?」

不思議そうな顔をする楓、その顔は赤くなっている。

「特に深い意味はないんだけどね。ただ・・・こうしてる方が安心する」

元より抱き締めたいと思っていた月夜は、体が多少動くようになったのでそうしたまでにすぎなかった。

「そっか・・・私も安心する・・・かも」

言いつつも顔が真っ赤になっている楓。二人の体は密着し、お互いの熱くなった体温が相手に伝わる。顔の距離は、十数センチもない。自然と月夜の顔も赤くなっていた。

「こんな風に近くで楓の顔見るの何回目だろうな」

苦笑しながら言う月夜。視線は楓から外さないままじーっと見ている。

「分からないよそんなの・・・子どもの頃からの付き合いだもん」

楓も同じように月夜を見つめながら、恥ずかしそうにそう呟く。

「だよな、俺も覚えてない・・・楓」

抱き締めている月夜の腕に自然と力がこもる。月夜が何をしようとしているのか察した楓はぎくしゃくと体を動かす。

「月夜?待って・・・」

「嫌?」

お互い鼓動が高まり、その音が相手に聞こえないかドキドキする二人。

「嫌じゃ・・・ない、けど」

今までにない程顔を赤く染めながら、楓がたどたどしい声で呟く。

「けど・・・?」

月夜は落ち着いた声で聞く。内心はかなりドキドキしているが。

「心の準備が・・・それに学校だし!」

「でも、だめ」

月夜が珍しく強引に楓の言葉を遮り、顔の距離を縮める。

「あうあう・・・」

楓は言葉にならない言葉を吐き出しながら、ぎゅっと目を閉じる。二人の唇が重なり合う、その時間は短いようで、永遠にすら感じた。

・・・わずか数秒間のキスの後、二人は唇を離した。

「えーと・・・うん」

顔を真っ赤にし、俯く月夜。楓もようやく目を開け、月夜同様に顔を真っ赤にして俯く。

「・・・強引だね」

楓の言葉に、月夜はびくっと体を震わせる。汗をだらだらと流しながら、月夜は聞く。

「だ、だめだった・・・・・・・・・・?」

その言葉に楓は頷く、月夜の汗は滝に昇格していた。

「確かにちょっと、いや強引だったかもしれないけど・・・楓もそんな気持ちだったのかなぁなんて思って、でももしかしたらそんな気持ちになってたの俺だけだったのかもしれないけど、いやもしかしなくとも俺だけだったんじゃないかなぁなんて今更思うし、いやほんとごめん楓」

明らかな動揺を見せて何を言っているか分からなくなりつつある月夜を見ながら、楓は、

「くすくす、冗談だよ」

と吹き出した。

「・・・え?」

呆然と呟く月夜に、楓が少しだけ意地の悪い顔で言う。

「待ってくれなかった仕返し・・・本当は、嬉しかったよ」

満面の笑顔で言う楓に月夜は安堵し、同時に自身も嬉しくなった。でも、と楓は続ける。

「次は、もっと雰囲気のある場所でね?」

「はい、反省します・・・次?」

しばしの間月夜の思考が止まる。楓は赤くなって俯きながら、何も言わなかった。

「うん・・・そうだな、がんばる」

月夜は微笑みながら、ようやく口を開いた。二人の間に不思議な空気が流れる。それは決して嫌なものではなく、二人はそれを心地よく感じた。そういえば、と月夜が何か思い出したように口を開く。

「楓授業はどうしたんだ?」

「もう放課後だよ?月夜が起きないからここで待ってたの」

結構な時間寝てたのか・・・と呟きながら、楓に言う。

「帰ろうか」

「そうだね」

楓はそう返し、月夜から離れて立ち上がる。月夜の鼓動は未だに高鳴っていて、離れるのを名残惜しく感じた。まぁ、誰かに見られたら大変だしなぁ、と思いながら、立ち上がろうとする。

「・・・っと」

まだ完全に自由に動いてくれない月夜の体は、地に足をついた瞬間によろける。

「大丈夫!?」

楓になんとか支えられて、地面との激突だけは避けた。うまく動かない体にもどかしく感じながらも、たまにはこういうのもいいか・・・、と月夜は思った。

「悪い、よければ家まで肩貸してくれない・・・?」

「全然大丈夫だよ。ほら、ちゃんとつかまってね」

楓に助けられながら、月夜は楓の肩につかまり、歩き出す。月夜より幾分細い楓の肩は、頼りなさそうだがしっかりと月夜の体を支えている。

「やっぱり楓は細いな、ちゃんと食べてるか?」

月夜はさっき抱き締めた時の感触を思い出す。別に太っているほうがいいというわけではないが、なんとなく心配になってしまった月夜だった。まぁ、出てるところはそれなりに出てるわけなんだけど・・・。

「月夜も十分細いでしょ・・・でも、やっぱり男の子だよね。私よりがっちりしてるもん」

楓の言葉に月夜は少しだけ顔を曇らせた。

「もっと筋肉あったほうがいいかな?」

「ないよりはあったほうがいいかもしれないけど、私は全然気にしないかな。月夜は見た目頼りなさそうだけどね」

笑いながら言う楓に、月夜は、むぅ、とうなる。

「でも月夜が強いことは知ってるよ、私をちゃんと護ってくれることもね」

どことなく嬉しそうに言う楓に、月夜もなんとなく嬉しくなった。学校を出て歩きながら、月夜は不意に小さくもらした。

「筋トレでもすっかなぁ・・・」

「何か言った?」

「いや、なんでもないよ」

中身はともかく、外見ぐらいはもう少し男らしくなりたいなぁ、と思いながらこぼした月夜の言葉は、幸い楓には聞かれていなかった。

その後も特に内容のない会話をしながら、二人は家路についたのだった。



「うあー・・・今日は疲れた・・・」

月夜はぐったりとしながら自分の布団に横になっていた。家に着いた瞬間サーシャに、

「ラブラブねー」

なんてからかわれたり、その後始まった楓とサーシャとの冷ややかなのに熱い戦いに巻き込まれたり・・・体の調子の悪さも重なって月夜はかなり疲労していた。時刻はまだ八時、寝るにはいささか早すぎる時間だが、夕食を食べ終えた後楓に体温を測られ、出た数値が数値なだけに薬を飲まされたあげく部屋に早々と放りこまれたのだった。

「いやまぁ、いいんだけどさ」

実際に疲れている月夜にしたら、それはありがたいことで別に嫌なことではなかった。ただ問題があるとすれば、二人のいざこざに巻き込まれることや、朝よりも体温があがってることぐらいだ。無理が祟ったせいか相変わらず体の動きも鈍く、少し気を緩めたらそのまま寝てしまいそうだった。

「だるいだるいだーるーいー・・・」

別にそのまま眠ってしまってもいいと月夜は思ったが、なぜか意識はとばなかった。体は鈍くなってる割に、感覚は変に鋭くなっているのを月夜は感じる。今は寝てはいけない、何かを待たなければいけない、そんな感覚が体を支配しているかのような感じだった。

数分後、月夜の部屋に楓がやってきた。ランスから緊急の電話が来たので、それで月夜を呼びに来たのだった。月夜はだるい体を起こし、楓の手を借りてリビングにある受話器のところまで行く。楓は重要な話を聞くわけにはいかない、と気をきかせてリビングを出て行った。そして月夜は受話器をとった。

「ほい、月夜だけど」

「ああ、ランスだけど」

月夜はこの時妙な違和感を感じた。いつも通りのランスの声だったはずなのに、その声は違う人物のように聞こえた。

「何?緊急の用事だって聞いたけど」

(風邪ひいて感覚狂ってるのかな)

きっと気のせいだな、と月夜は納得し、用件を聞いた。

「単刀直入に言うよ、大統領が暗殺された・・・それだけじゃない、その犯人にアメリカ自体が乗っ取られそうになっている。月夜の助けが必要なんだ」

言葉の重大さとは裏腹に、淡々とランスは語る。もはやそれは軍人のランスどころではなく、冷酷な機械のような寒々しさを感じさせる。

「なんだって!?・・・犯人はやっぱり、二人目、なのか・・・?」

事の重大さに気をとられ、月夜がランスのそれに気づくことはなかった。ランスは淡々と続ける。

「やっぱりそうだったみたいだ、僕自身信じられなかったんだけどな。すぐにでも来て欲しいんだ、もちろん金は出す」

少なくとも今はお金のことなんてどうでもいいはずなのに、それを当たり前のように言うランスはやはりどこかおかしかった。

「分かった・・・明日には行くよ、その間死ぬなよ?」

「僕が死ぬわけないだろ?つまらないことを言うなよ」

その言葉を聞いてさすがにランスの言動がおかしいことに月夜も気づいた。

「・・・何かあったのか兄貴?変だぞお前」

月夜の心配と疑念の混じった言葉に返ってきたのは、数秒の沈黙だった。

「・・・何言ってるんだ月夜、僕はいつも通りだよ。じゃあ、家で待ってるからな」

数秒の沈黙を破った後に、ランスはすぐに電話を切った。ツーツーという電子音を聞きながら、月夜は嫌な予感を感じていた。

「あの兄貴が・・・まさか、な」

自分に言い聞かせるように言ったその言葉は、虚しく部屋に響くだけだった。



「楽しみにしてるよ、月夜」

笑っているような泣いているような表情をしながら、ランスは電話機を見つめていた。



次の日、まだ陽も昇らない時間に月夜は目を覚ました。町はまだ一部を除いて眠りについている。そして、月夜がいる家も例外ではなかった。

「さてと、行くか」

体のだるさはまだ多少残っているが、昨夜の薬が効いたせいか調子はさほど悪くなかった。布団から起き上がり、月夜は覚悟を決める。もしかしたら死ぬかもしれない、そんな弱気な気持ちが起き上がるほど、今回は相手が悪かった。今まで通りでいったら、確実に命はない。なぜなら相手は周囲までも巻き込み、月夜の命を狙っている。さらに国一つ乗っ取るという常識では考えられないことを平然とやってのけているのだ。だからこそ、月夜は楓を連れて行くことは出来なかった。

「ほんと、中途半端だよな俺・・・ごめんな楓、俺は君を護れない」

哀しそうに呟いた後、月夜は部屋を出た。どうしても楓に余計な心配をかけさせたくはなかった。黙って出て行ってしまっても、結局楓は心配することを月夜は理解していたが、楓を巻き込むぐらいならそちらの方がましだと月夜は考えていた。未練がないとは言えない、しかし早くここを出なければ出ることが出来なくなってしまう。だからこそ、月夜は胸に残る感傷を捨て玄関から外へ出ようとした。

「どこに行くの?」

玄関を前にして、そんな声が響いた。月夜が幼い時から馴染みのある声・・・月夜から少し離れた位置に楓はいた。

「朝の散歩でもしようかと思って」

振り返らずに月夜は言う。平静を装いいつも通りに出した自分の声が、月夜にはえらく無機質なものに感じた。

「・・・ちゃんと帰って来るよね?」

「馬鹿、散歩だって言ってるだろ?すぐに帰ってくるよ・・・すぐにさ」

楓の言葉を笑い飛ばした月夜だが、本人にはうまく笑えているかどうか自信がなかった。

「ちゃんと帰ってこないと・・・もうご飯作ってあげないんだからね」

楓の涙声を聞きながらも、月夜は振り返ることをしなかった。代わりに、困ったように優しい声で言う。

「それは大変だな。まぁ待ってろよ、すぐ帰ってくる、絶対だ」

月夜は玄関の取っ手に手をかける。自然と心は落ち着いていた。

「・・・いって、らっしゃい・・・!」

切なくも、強い楓の言葉に月夜は背中を押されたような気がした。

「行ってくる・・・!」

月夜はそれ以上何も言わなかった。ドアを開けて、まだまだ暗い外へと歩き出す。ドアの閉まる音を聞きながら、楓は俯き、そして静かに泣いていた。


「どうしてお前らは、そろいもそろってこんな早起きなんだ?」

家から数歩出たところにいるサーシャに月夜は疑問の声を上げた。

「お互い、好きな人に対する女の勘、ってやつじゃないかしら」

いつもの笑顔を浮かべながら、サーシャは言う。月夜は溜め息をつきながら返した。

「ただ単に俺が単純って理由じゃなくてほっとするよ。まぁいいや、楓のこと頼むよ、サーシャ」

「帰ってきたらしっかりお代はもらうからね、存分にがんばってきなさい」

「おう、またな」

サーシャはその言葉に返事をせず、代わりに片手を上げてひらひらと振る。

(全く・・・どいつもこいつも)

自然と笑ってしまいながら、月夜は走り出す。車よりも速く、風よりも疾く。そして背中から小さく生え出た羽を緩やかに羽ばたかせ、月夜は自分の故郷と呼べる地から飛び立った。



それから数時間後、月夜はアメリカの地に立っていた。場所はランス邸前、日本とは時差があるアメリカではもう陽が傾いていた。

「随分懐かしいな、こうやってランスの家を見るのも」

最後に見たのはいつの時だっただろうか?と考えながら、今はそんなことを考えている場合じゃないか、と呟きながら月夜はランスの家に入る。玄関のドアは開いていた、呼び鈴を押そうかと思ったが、月夜はめんどくさくてそれをしなかった。

「しっかし広いなおい」

中に入ったことのない月夜は中の構造が分からなかったが、そこはお得意の人間離れした能力でランスがいる位置を把握してそこを目指した。そしてたどり着いた部屋のドアを、一度だけノックをする。

「どうぞ」

部屋の主の了解を得て月夜は部屋の中に入る。見た目は普通の部屋のはずなのに、まるで異界にでも踏み入れた奇妙な感覚を月夜は感じた。

「待ってたよ、月夜」

椅子に座り、月夜を見ているランス。その表情はどこか儚げで、愁いを帯びていた。

「・・・誰だ、お前」

月夜はとっさにそう言っていた。ランスは不思議そうな顔をして口を開く。

「どうしたんだいきなり?僕だよ、ランスだよ」

「違う、お前はランスじゃない」

目の前にいる人物は確かにランスだった。声も仕草も、姿形も全てがランスそのものだった。しかし月夜はそれをランスとは認めなかった。

「僕は僕であって、何者でもない。気でも狂ったか?」

「確かにお前はランスだよ、でも違う!あいつはそんな・・・そんな人間じゃない」

目の前のランスを否定し続ける月夜に、困ったような表情をしながらランスは聞く。

「じゃあお前は僕の何を知っているんだ?お前は僕の何を理解して今の僕を否定している?」

「何かが違う、お前は俺が知っているランスじゃない。軍人のあいつでも、兄貴としてのあいつでもない」

怒りのこもった目で月夜はランスを見る。ランスは溜め息をつきながら、やれやれと言葉をもらした。

「じゃあ今の僕はなんなんだろうな?冷酷な自分を演じていた軍人ランス?兄貴として面倒見が良かったランス?・・・そんなものは全て表面上の僕でしかありえない、本当の僕はこの世界に苛立ちを覚えていた。何も変わらない、変えられない。そして変えようともしない人間にだって・・・。何より僕が一番嫌いだったのは、何も変えることができない僕自身の弱さだ。・・・変えられないのなら、全て無くなってしまえばいい」

「誰よりも苦しんで、誰よりも傷ついて・・・それでも誰よりも人間が好きで、誰よりも人間を護りたいって思ってた兄貴・・・もう、いないんだな」

心から哀しそうに月夜は言った。そしてその言葉は、今のランスに対する月夜の決別の言葉でもあった。

「話はもう終わりだろ?ついてこいよ月夜、二人目がお前を待っている」

ランスは緩やかに立ち上がり、月夜の横を素通りして部屋を出て行こうとする。そんなランスに月夜は切なげに聞いた。

「じゃあ俺は、これからなんてお前を呼べばいいんだ?」

部屋の出口でランスは止まり、少しだけ沈黙した後、

「Ruin・・・ルインとでも呼べばいい」

それだけ言い残しまた歩き出す。

「Ruin・・・破滅、か」

皮肉っぽく呟いてから、月夜はランス・・・ルインの後についていった。どんな結果になるかは分からない、それでも月夜は進むことしかできなかった。同じ生物として誤った道を進んでしまった二人目を止める為に、そして何より・・・大切な人たちを護るために。



「初めまして、でいいんだよな?」

ルインに案内された城のような大きさの建物の中、大広間の高い位置に作られた王座のような椅子にそいつはいた。そして王を護るかのように、数人の生物が隣に立っていた。

「初めまして、じゃないでしょう?あなたと会うのは二度目よ、お兄様」

かつて遊園地で声をかけてきた雪のように白い女の子・・・リミーナはそう言った。

「そうだな、そうだった・・・まさかあの時の子どもが二人目だったなんて、気づきもしなかった」

「気づけるはずもないわ、だってあなたは知らなかったんだから」

溜め息をつく月夜に、リミーナが優しくそう言う。

「俺が気づけてたら・・・ランスが消えることはなかった。その償いっていうわけでもないけど、いつまでもお前みたいなのを放ってはおけない・・・ここで、終わらせる」

月夜の体に力がこもる。瞳の色は黒く、深い闇に染まっていく。それと同時に、リミーナの隣にいる数人が身構える。もちろん、月夜の後ろで待機しているルインもだ。それをリミーナは片手で制しながら言う。

「待ちなさい・・・それに、お兄様にも少しは落ち着いて欲しいわ」

自身の危機感など全く感じていないリミーナの言葉に、月夜は少し耳を傾ける。

「どういうことだ?」

「そうね、簡単に言わせてもらうわ。お兄様、私たちと一緒に来ませんか?あなたなら私の隣に並べる力がある」

リミーナの言葉に、側近の数人とルインがざわついた。もちろん月夜もだ。

「リミーナ様、あなたは一体何を・・・」

「黙りなさい、私はお兄様と話しているのよ」

側近の一人の言葉に、リミーナは冷たく言い放った。その言葉にざわめきは消え、大広間は静かになる。

「どうかしら?」

再度月夜に対するリミーナの言葉に、月夜は怒りを露にする。

「ふざけるなよ、散々迷惑かけた挙句、なんだそりゃ?」

月夜は感情のままにリミーナを狙い、そして力を放つ。目に見えない力の奔流は大気を伝わり、リミーナへと飛んでいく。しかし、それが彼女に当たることはなく、彼女の目前で何かに打ち消されたかのように大きな音を立てて消えた。

「交渉は決裂ね。それなら予定通り、あなたを苦しめて殺すだけだわ」

幼いその顔を歪めて笑い、青い瞳に力が宿る。

「私が直々に相手してあげる」

すっ、と上げた片手の先から白い光が放たれる。矢を太くしたような幾数もの光は、月夜目がけて襲い掛かる。

「ちっ、めんどいな」

何本かは避け、そして何本かは打ち消して月夜はリミーナ目がけて疾走した。背中から生えた黒い羽は、月夜の力を現すかのように大きくなっている。リミーナは座ったまま、顔色一つ変えずに音よりも速く迫る月夜を凝視した。リミーナの瞳から放たれた白い光は、音を超える文字通りの光の速さで月夜の腹部を撃ち抜いた。

「な・・・」

それに反応出来なかった月夜は、こぶし大の穴を腹から背中まで穿たれた。そして後ろに吹き飛ばされ、数十メートル離れた壁に背中を打ちつける。

「ぐっ・・・」

咳き込んだ口からは血液が吐き出され、一部の床を赤く染める。それを見ていたリミーナは、心底面白くなさそうに言った。

「全然つまらない、やっぱり殺すだけじゃすぐに終わってしまうわね」

月夜は痛みを感じていないかのように立ち上がり、両手を握り締める。

「本気でやらないと、さすがにまずそうだな」

そう呟き、全身の力を抜く。消し去りたい過去の感覚が、体に張り巡らされていく。言葉も気持ちも、そして自分を作っている人格さえも、闇にのまれていく。数秒後、そこに立っていたのは月夜ではなく、最凶と謳われたインフィニティ本人だった。

「くすくす・・・お兄様はやっぱりすごいわ、私ですら畏敬の念を抱いてしまう、でもね?」

二人は遠くから見つめ合う。月夜は無感情に、リミーナは興奮したように。先に動いたのは月夜だった。数十メートル程の距離では、今の月夜にはないも等しい。わずかコンマの間に月夜はリミーナの前に立ち、右腕を振り下ろしていた。王座どころか床そのものを抉る一撃を、リミーナは横に飛びのいて避け、呟いた。

「それじゃ私には勝てないわ」

月夜と対照に、リミーナの背中からは白い翼が生える。それを見た数人の側近はすぐさま王座から飛び退き、先ほどまで月夜がいた位置、ルインが待機している場所へと逃げる。もはや人間には見えない攻防、月夜は横にとんだリミーナに横薙ぎの一撃を入れる。リミーナはそれを片手で受け止めた。しかし、月夜の手からは闇を具現化したような物が放たれていた。受け止めたリミーナの腕にそれが巻きつき、それを消滅させようとする。

「最高よお兄様!本当にあなたは!」

リミーナは叫びながら、闇が巻きついた腕を下げずに月夜の穴が開いている腹に突き入れた。そして、何も見えなくなるほどの白い光が月夜の体にまとわりつき包み込む。リミーナはすぐにその腕を肩口から切り離し、瞬時に月夜から離れる。光に包まれた月夜は動かず、中の様子は全く探れなかった。

「もう、終わりよ」

不適な笑みを浮かべ勝ちを宣言したリミーナ。しかし、突然光の中から飛び出した一筋の細い闇がもう一方のリミーナの腕を肩口から切り落とした。落ちた自分の片腕を他人事のように見ながら、初めて動揺し、光に包まれている月夜を見る。

「それでも動けるなんて、なんて人・・・でも、これで最後」

リミーナは今までにない程の力を込めて光を凝視する。そして、強い光を放ちながらそれは爆発した。轟音と共に、眩い光の欠片が床に落ちて消えていく。立ち込めた眩い光が消え、そこに残ったのは血まみれで倒れている月夜だった。辛うじて人の原型を留めているが、呼吸はしていなく、当然のように心臓の鼓動もしていなかった。間違いなく、月夜は死んでいた。

「ふふふ・・・腕二本なら、上出来かもしれないわね」

リミーナは背筋を流れる冷や汗に、顔を歪めた。そんなリミーナの周りに、ルインを含めた側近が集まってくる。

「大丈夫ですかリミーナ様!?」

「お怪我は!?」

「馬鹿者、見れば分かるだろ!すぐに医務室にお連れしろ!」

各々がリミーナを心配する言葉を吐く中、ルインは一人月夜だったものを見ていた。無言で見つめているルインは、怒っているような哀しいような表情をしている。それを見ていたリミーナは、先にうるさい側近たちに言い放つ。

「必要ないわ、この程度の怪我数週間もしないで治るわ。それより、少し静かにしなさい」

側近がすぐに黙ったのを確認してから、リミーナはルインに目を向ける。

「どうしたのかしら?これはあなたが望んでいたことでもあるのでしょう?」

ルインは月夜から目を離さずに、リミーナの問いに返事をする。

「ああ、そうだよ」

「なら、どうしてそんな哀しそうな顔をしているの?」

ルインは黙っていた、それにリミーナが追い討ちをかける。

「力があるのに何もしない、世界を変えれるのに変えようともしない。そんなお兄様を、あなたは心の底では嫌っていたのでしょう?羨ましいと感じていたのでしょう?」

「確かに・・・そう思ってたよ、思ってたはずだった・・・月夜が、死ぬまでは!」

ルインはとっさに腕を上げ振り下ろしていた。月夜を殺したリミーナを殴るわけでもなく、かといって死んだ月夜を殴るわけでもなく・・・ただ自分を殴るために。腹部にその拳が当たる前に、その手をリミーナが横から見えない力で止めていた。

「どうして止めるんだ・・・?」

切なそうに言うルインに、リミーナは静かに言う。

「あなたの行動に意味がないからよ、あなたが死にたいのは別に私には関係ない。でもあなたにはまだ仕事が残っているんだもの、死なれたら困るわ。・・・死にたいのなら、お兄様に殺してもらいなさい」

リミーナは月夜に視線を動かす。ルインはその言葉に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、リミーナにならって視線を月夜に戻す。月夜は確かに死んでいる。体はびくりともせず、呼吸も心臓の鼓動もない。ただ一つ、あるものが動いているのに気づいてルインは驚きに目を見張った。

「羽が・・・動いてる?」

微かにだが、背中から生えた黒い羽がぴくぴくと動いている。

「私もそれなりに本気だったのに、お兄様はまだ生きてるわ・・・死なれてたら、予定してたことが出来なくなったから私としては幸いだったのだけれどね」

その言葉に、ルインは嬉しいような哀しいような表情を作った。リミーナの予定してたことを、ルインは知っているからだ。

「お兄様がこれ以上苦しむのを見たくないのなら、今ここで私を殺すかお兄様を殺すかしたらいいわ。私は無理でも、今のお兄様ならあなたでもやれるわよ?」

その言葉にしばし思い悩むルイン・・・そして、口を開いた。

「どちらもお断りだ」

「そう、それならお兄様にこれをつけて、地下の牢獄にでも放り込んでおきなさい」

先の戦闘で薄汚れた服のポケットから何かを出そうとして、自分の両腕がないことに気づいたリミーナは、

「ランス、私の右ポケットに入っている物をとりなさい」

とルインに命令した。ルインは言われた通りにそれを取り出し、月夜の右手首にそれを着けた。銀のブレスレットのような形をしたそれは、この世の物ではない静けさを醸し出している。ルインは月夜を抱き上げ、立ち去る前に一言だけリミーナに言った。

「ランスと、呼ぶな。僕はルインだ」

「Ruin・・・ね、今のあなたにはぴったりだわ」

リミーナの言葉に無言で返し、ルインはぼろぼろになった月夜を大切なものを運ぶかのように地下の牢獄へと連れて行った。

すさまじく遅いながらようやく更新です_| ̄|○

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