Flug―移動中―
上空を、とてつもない速度で移動する雲がある。
違う。雲ではなく霧である。
灰色に近い大量の霧が、風に逆らって彼方へと飛んでいく。通常ならあり得ない。
まるで霧そのものに意思があるかのようだ。
空を飛ぶ鳥が、その霧を見てわざわざ避けていく。
実際、その霧には意思があった。
というよりも、霧の中にいるある者が自在に操っているのである。
霧の主・ジルドレは、不満そうにこちらを睨んでいる男の視線に気付かない振りをしていた。
睨んでくる理由を知っているからだ。
ジルドレの腕の中には、城を発つ時から気絶したままの少年が眠っている。
少年を主とするヴァルゲンは、少年がショックで気を失った原因である、城を炎上させた炎を発生させたことに、責任を感じているらしい。
だからこそ、「その子の面倒は私が見る」と言い、少年を寄越すよう先ほども言っていたのだが、ジルドレが「お前は荷物を持っているだろう」と言い張って却下するものだから、あのように機嫌を悪くしているのだ。
それというのも、先刻の『供血』によって少年の記憶を読み取ったジルドレには、迂闊に火をつけたヴァルゲンを少なからず責めたい感情がある。
しかし本人(少年)眠っているときにそれはできない。ヴァルゲンが火をつけたことに対して糾弾することが出来るのは当事者である少年でなければならないからだ。
内心では、この子が目を覚ましたら覚えてろ、と毒づいているが。
だから、多少の不満ぐらい我慢すればいい。
「随分とうまく霧を扱えるようになったものだね。『転身』してから何年だったっけ?」
「今年で84年だ」
「じゃあ生まれてから111歳になるわけか。語呂のいい数字だね」
「…莫迦にしているのか、それとも喧嘩を売っているか?」
「どちらと取っても構わないよ?」
先程からこの調子である。正直、いい加減にしてもらいたい。
年端のいかない少年には聴かせられないような、皮肉と嫌味のフルコース。心が荒みそうだ(もしかしたら既に荒んでいるかも)。
これだから大精霊の扱いは面倒なのだ。
「……ここどこ…?」
「お」
「目が覚めたか」
目を開けたが、いまいち状況が掴めなくて周りを見回す。
まず隣にいたヴァルゲンが目に入り、次に自分を抱えているジルドレ。
目を開ける直前に、喧嘩を売っている云々の物騒な会話がされていた気がする。
「…二人、ケンカしてたの…?」
「え、あ、いや」
ヴァルゲンが慌てる様子を見せた。珍しい。
「してない。こいつがつっかかってきただけだ」
「黙れよ貴様」
ヴァルゲンの不機嫌が継続中だった。
確かにジルドレにつっかかっている。
だがまずそれよりも。
「ここ、どこ?」
「空だ」
「今はツァル国の海岸線を越えた辺りだよ」
「、何も見えない」
「霧の中だからね」
「きり…?」
この周囲をとりまくもやもやとしたものだろうか。これのせいで今自分たちが何処でどうなっているのかが全く分からない。
そして、今。
「移動してるの?」
海岸線を越えた、と言ったが。
そもそもさっきから一歩も歩いてさえいないのだが。
「俺の霧で移動している」
「?」
つまり………………どういうことだ。
「理解できていないね。まあ当然か。魔術を知らないし」
「こいつは種族がなんなのかすら解っていないしな…」
「…」
少年の抗議の眼差し。そうやって二人にしか解らない会話をしないでほしい。
とりあえず、最初から説明するようだ。
「お前は、あの城を出たときに気絶した」
「コイツが『供血』で君の体力を奪っていたせいでね」
「その直後にアイツが出した炎を見たショックでな」
「…」
「…」
「…」
睨み合いになる二人。
今度は言い合わず進める。
「その後、俺の能力で霧を出し、上空を移動中だ。目的地はさっきまでの場所と大陸が違うからな」
「…?」
「つまり空を飛んでいるんだよ」
「!?」
足元を見る。だがそこもやはり霧に覆われ見えない。
ジルドレの足が見えるばかりだ。
「…どこに行くの」
「俺の主人の棲家である『夜城』だ」
「やじょう…」
「トランセルの谷にある。緑多き処で…」
「そこからは着いてからにしろ。あとどのくらいだい?」
「…もうすぐだ」
「わからないよ、それじゃあ」
ヴァルゲンの言葉が、さっきからいちいち刺刺しいのは気のせいだろうか。
「あの…」
少年は思い切って訊ねることにした。自分が気絶をする原因の一つになったのであろうアレのことを。
「何だ」
「ジルドレ、さんが…」
「ジルドレでいい」
「…オレの手に、噛みついてきて、体がぐるぐるしたあれ、なんだったの?」
「…ぁぁ…」
少年の問いに、一瞬言い淀んだ。ヴァルゲンはジト目で彼を睨んでいる。
「あれが、さっきも言ったが『供血』だ」
「きょうけつ…」
「結果的にお前の体力を奪うことになった。すまない」
「何していたの、あれ」
「お前の記憶を見せてもらった。血を介して」
「血を…?」
噛みついたのは血を取るためだった。
というか、吸われていた。
「血を吸うと、ほかの人のきおく、わかるの?」
「誰もがそういうわけじゃない。あれは、俺が属する種族の能力だ」
「しゅぞく…」
そういえば、城でもヴァルゲンがそのことについて、書斎にあった絵図を用いて説明してくれていいたような。
人間以外にも様々な種族がある、と。
「…人間じゃないの?」
ジルドレの外見は人と変わらない。
しかし、いままで見てきた『人間』で霧を出したり、他人の血から記憶を見たりなどできるという者はいなかった。
「そうだ」
肯定が返ってきた。ということは、やはり。
少年は目をまるくする。
「…人間じゃ、ないの…?」
「…そうだ、と言ったが…」
「そうじゃなくて、この子はお前が人間じゃないなら何なんだ、と訊いてるんだよ」
「ああ」
得心いったという顔をする。
言わんとしたことが理解されたらしい。
「こいつはね、人間によく似た外見だが、人間とは遥かに違う能力を行使することが出来る、『魔族』というやつだよ」
「まぞく…。きょじんの、となりの?」
「そう。巨人族の領域の隣、魔族領域に棲む種族をまとめて『魔族』と呼ぶ」
「まぞくはたくさんある?」
「そうだよ」
ヴァルゲンが詳しい解説をしてくれる。優しく、丁寧に。
人間には『人間』という種族の中に『民族』というものがあり、少年はその民族の一つ、『ガゥルク族』の者らしい、ということ。
ガーゥルク族…。自分のことすらよく判らない少年にはとても気になる単語であるが、今はそのことについては訊かないでおく。またの機会に。 人間に民族があるように、魔族にも『民族』のような分類があるという。
「君は人族の、ガーゥルク族。そして、こいつは…」
ジルドレを指して言う。
「こいつは吸血鬼族。吸血鬼・ナハツェーラーを祖にする一族に連なるものだ。吸血鬼族は俗にヴァンパイア、ヴァンピーアと呼ばれることもある」
「きゅうけつき…」
当然のことであるが、知らない。たしかそんな言葉を聞いたことはあるかもしれない。アルテュールの屋敷の使用人達が、井戸端会議で、お伽噺だのマユツバな噂だのと口にしていたことがあったような気がする。
「吸血鬼についての詳しい説明はまたいつか。今向かっているのが、コイツの主人、ナハツェーラーの当主の城だ」
「それが、やじょう?」
「そうだよ」
ようやく事情がそれとなく掴めてくる。
さっきまでいた城でヴァルゲンとジルドレがしていたやりとりは、これについてのことだったのだ。
「………その、夜城なんだが…」
「なんだい?まさか、今更『客を招ける状態じゃない』とか言わないだろうね?」
「…少し近い。難しいことに、なるかもしれなくてな…」
「どういうことだい」
ジルドレはそこで神妙な面持ちになり、覚悟を決めたように言った。
「……お嬢様の、覚醒期なんだ。今…」
「…あぁ…」
それだけで全て悟ったらしい。ヴァルゲンがそれ以上、何も言わなくなる。
ジルドレもなにも言わなくなった。
少年だけが、その意味を知らない。
あれからまた暫くして(その間二人は不気味なくらい無言だったので異様に静かだった)、急に【降りる】感覚に襲われ、どこかに着地するような軽い衝撃を受けた。
直後、周囲の霧が晴れ、視界が鮮明なものになる。
降り立った場所はジルドレの言っていた通り、緑の多い森。今は明け方の時間らしく、若干うす明るい。薄群青の空と景色。
そして。
眼前にそびえるように建つ、昨日の夕方までいた城とは桁違いに大きい、黒い城。
ところどころの屋根が尖っていて、高い。その数が数えきれない程多い。
入口らしき門も大きかった。柵を丸く組んだような扉で、向こう側が窺えるのだが、柵が太く頑丈そうなので侵入できる者はそうそういないだろう。
その門の向こう。
誰かが立っている。二人だ。
一人は男性。もう一人は子どものようだ。
少年よりも、いくつか年上だろう。
ジルドレとヴァルゲンが寄ると門はひとりでに開いた。
中に入る一行。
男性がにっこりと微笑んで、「よく来たね」と全員に対して言った。
対して子どもの方は。
「お久しぶりです、ヴァルゲン様!!」
子どもは少女のようだ。
銀髪の可憐な美少女。
その少女が、ジルドレに抱えられている少年に気付いた。
「…ジル、その子どもは何なの?」
見る目が妙に不穏なものを含んでいるように思えるのは、
多分気のせいではないだろう。
次回、新章です。