Impuls―熱、炎―
左手首から、『プツリ』と、穴のあく音と感覚がした。
直後、痛み。
(え?え??)
端正な顔の男が自分の手首に噛みついている、という光景に思考がおいつかない。
そしてなによりの驚愕が、
(この人、牙がある…!!?)
手首に鋭い何かが突き刺さる感触がある。
人に身体を噛まれるのは実は初めてでないのだが、この感触は今までの、人に噛まれるそれではない。
犬や猫のものと違い、人の歯は先が鋭くない。おかげで噛みつかれたときの痛みは鈍く、それを無理矢理おしつけてくるものだった。
なのに今、手首に感じるものは鋭く、おかげで余計な痛みはない。
そしてなにより、先程ちらりと見えた。男の口の端から、人より長く伸びた…
「いっ!?」
そこで今まで感じた痛みとは別の、おかしな感覚が手首から躰全体に広がった。
体中の、中にある何もかもが手首の噛まれている箇所に向かっていくような。
(何これ何これ何コレ…!!??)
ジルドレはいったい何をしているのだろう。
体中のぐるぐるとした感覚に頭も巻き込まれて、くらくらする。
思考もいつしかぐるぐるする。前後の感覚がなくなる。
姿勢が保てない…
―――落ちる―――
「おっと」
後ろへ倒れる直前、つい先程まで手首に噛みついていた筈のジルドレが、すんでのところで背を支えた。
「すまない、子どもにはキツかったな…」
「ぅえ……?」
「楽にしていろ。あいつも直に戻ってくるだろうから」
体中の力が抜けて、身を起こすことすらままならない。
息をすることで精一杯な、そんな疲労に身体が支配されている。
今のは一体なんだったのか。
さっきまでの妙な感覚を思い出して考えようとしたが、頭を使うのすら億劫だ。まともに思考が働かない。
自分の背を支え、膝にかかえてくれるジルドレを、少年は見上げようとした。
視界がぼやけていた。透明ななにかが目の前全てを覆っている。
(何これ…)
訳も解らず瞬きをすれば、そのぼやけは瞼の動きに合わせて視界の下部分に集まり、目からするりと落ちた。頬を何か温かいものが滑る。濡れる感触があった。
「すまない、無理をさせた」
ジルドレが再び謝罪の言葉を口にする。何をしたのかは解らないが、原因は彼であるらしい。申し訳なさそうな、切ない表情をしている。
背中を、ぽんぽん、と優しく叩かれる。大きな手の、その動きが心地よかった。
「確かに、これは名前が必要だな」
反対の手で頭を撫でてくる。この手つきも優しかった。
ジルドレの突然の態度の豹変に、正直戸惑う。
先程までは(本人は不本意そうだったが)威圧感を遠慮なく醸していていたというのに、今はそんなものはすっかり失せて、それどころか少年を優しく抱えている。
何が何だか、何もかも解らない。
(手首…熱…)
かろうじてそれだけ考えられた。
指先を動かすのすら億劫なのだが、なんとか左手を持ち上げる。
折り曲げて丈を合わせた袖口が、一部赤く染まっていてぎょっとした。
手首の、おそらく穴が空いているであろう箇所。そこから赤くなっていた。
それが己の血であると自覚して、やはり今のは牙を突きさされたのだ、と鈍くなった思考で確信する。
(牙がある人間なんて、初めてみたなぁー…)
先の視界のように頭もぼやけてきた。
また頬に濡れる感触がおこる。
はて、ここは屋内の筈なのに雨でも降っているのか、と疑問に思った。
するとジルドレの指が、少年の頬の濡れを拭い取る。
「泣かないでくれ……すまない…」
また謝罪。『ナカナイでくれ』とは、どういう意味なのだろう。
言葉の意味が解らずジルドレをぼんやり見ていると、切ない表情がより一層、その端正な造りを悲壮に歪ませる。
頭を持ち上げられ、胸に抱え込まれた。
「わからないよな…すまない……辛いだろう」
そしてまたすまない、すまない、と申し訳なさそうに繰り返す。
先程から謝ってばかりだ。
ジルドレにそれをやめさせたくて、口を開いて声を出そうとしたが、喉もうまく機能しない。
このままでは彼の言葉を止められそうにないな、と思った。
「…私がいない間に何をしているんだい?」
背後から、声。
(アル様――――)
違う。ヴァルゲンだ。
なんとか顔をそちらに向けると、なんとも不機嫌を顕わにした顔をしている。
手には大きめの籠。中に果物とパンがいくつか入っているようだ。
黒マントを身に着けている。どこかで見たことのあるマント。
同じものであろう布を、籠を持つのとは反対の手で持っている。
「用意できたのか」
「先に質問に答えてほしいね。我が主に何をしている、否、何をした?」
「大方予想はついているだろう」
「…噛んだのか、やはり」
やれやれ、とヴァルゲンがこちらへやってくる。
手に持っているマントを、未だ抱えられたままの少年に羽織らせる。
「不快に思うかもしれないが、我慢してくれ」
「…例の集団のものか?これ」
「……ちっ、そうだよ」
(なんで今舌打ちしたんだろ…)
やたらとヴァルゲンの纏う空気が険悪だ。
その理由が解らなくて、とにかく今がそういう事態なのかが知りたい。
視線だけをヴァルゲンとジルドレ、交互にやる。
「死体はどうした」
「ああ、これだけ拝借して、あとは燃した」
(もし……?)
そういえばヴァルゲンから焦げ臭い香りが。何故だ。
「あれだけの数を一斉にとか、お前…」
「放っといても腐るだけさ」
ジルドレが立ち上がって大扉の方へ歩き出す。
少年を抱えたままだ。
まだ身体は怠い。
「…おい、私が運ぶ」
「お前はその荷物を持っているだろうが」
「………ちっ」
(あ、また…)
何がそんなに気に入らないのか。
そういえばさっきから、パチパチと、何かを焼くような音がする。
…焼く?
「おい、さっき言った、火が広がっていないか」
「廃城のようだし、別にいいだろう」
「ここにはいくらか書物があったんじゃないか?いいのか、本は貴重な物だろう」
「心配せずとも全て【収納】してきた」
「…そうか」
さっきから二人にしか通じない会話しかしていない。
ジルドレの腕の中少年はそれについてささやかに抗議したかった。
だが、力の入らないまま、ジルドレが歩くまま大扉の外に出た。
外は、灰の森だった。
生気が抜けきってしまったような色彩。
岩の壁と、緑のない不気味な背の高い木々。
こんな処に自分はいたのか、と今更ながらに驚いた。
ジルドレが、くるりと城の方へ向き直ったので、少年も同じくそちらを向くことになった。
「……ぁ……」
ようやく声が出た。
どこからか上がった火が、城の半分を燃え上がらせている。
かつては力を持つ者が住んでいたのだろう、大きく堂々とした佇まいの、その半分が真っ赤で明るい炎に包まれている。
その炎も今まさに城のもう半分を飲み込まんと、さらに勢いを増していく。
「…どうした?」
少年の様子に気づいたジルドレの声は少年には聴こえていても、頭に入ってこなかった。
城を包む赤い炎。
それは古い記憶の中で。
少年の故郷の村を包んだ光と、同じ輝き。
赤く、熱く、忌まわしい、強い輝きだった。