第二章「反発と停滞」
自宅まで遁走して俺は、別れ際にリーゼが演奏したピアノ独奏曲が頭の中で巡っていた。
堂々としていて、勇ましく、時折悲しいような印象を受けるそんな曲だった。
頭の中で再びその曲を聴きながら俺は、何もかも忘れるように眠りについた。
朝起きたら、何もかもが夢の中の出来事で非現実でそうだったらいいのにな、と現実逃避的な事を考えながら目を覚ました。しかし現実というのは、そんな甘ったるくはない、部屋に散乱した洗濯物と隅に追いやられた渡すのを忘れていた缶の紅茶が少なくとも六車の存在が非現実ではなくて実際に起こったことなのだと無言で突きつけてくる。
「はあ……だよな」
昨日の今日で遭遇したくはない、今日は一日引き籠もり、キャッチセールスも新聞勧誘も全てガン無視して飯はカップラーメンだけで過ごそうと心中で静かな決意表明をしてある事実に気がついた。本来ならば昨日済ますべきだった食料調達は、突然六車の来訪とそのまま曼珠沙華へと連れられてしまったことによって全く進んでいないどころか朝食すらも何もない状態だった。
「はぁ……」
再びの溜息。
そうして俺の引き籠もり計画は、わずか一五分で幕を下ろした。
そして現在、何故か定食屋のボックス席に向かい合う俺と六車。確か一八歳だったか、女子高生だというのに恥も外聞も飛び跳ねるカレーもついでに俺の存在も気にすることはなく淡々とカレーうどんをずるずると啜っている。
俺、何か憑いてるのかな……お祓い行こうかな……。
「食べないの? 麺伸びるよ」
うっせ!
「食べるよ……」
聞くかどうなわずか逡巡……と言っても多分一秒も悩まなかった。
「何でお前は、ここにいるんだ?」
で何で俺に断りもなく平然と相席して注文までやってるんだよ。
ずるずるとカレーうどんを啜ったまま指だけを俺に向ける、次いで自分のに指を指す。そしてそれで伝わったと思ったのか食事に戻った。
わかるかっ!
「聞かないと延々と食ってる気だろ……全然伝わってないからな」
「んっ……」
喉に詰まったようで蒼い顔でコップに手を伸ばす。
俺は、六車より先に素早くピッチャーを確保する。少々意地悪だと思ったけれどピッチャーを顔の横に掲げて告げた。
「ちゃんとわかるように説明するか?」
六車は、蒼い顔のままでうんうんと大きく頷くと、早く早くと言うように海で溺れた子供ように空中で手を掻いていた。
元より六車で選択権は、ない。
ピッチャー僅かに下げるとひったくる様にして奪い取るとコップから溢れるのも気にせずに注ぐと一気にの飲み干す、それを三度ほど繰り返すとやっと落ち着いた。よっぽど苦しかったらしい、ちょっと可哀想なことをしたかな。
「殺す気?」
と睨んでくる。瞳がうるうると水気を伴っているので睨むというよりも哀願。片目からだけはらりと一雫だけこぼれ落ちた。なんだか罪悪感……。
六車は、再びカレーに手を付けようとして、一端手を止める、そしてピッチャーを見る、そして俺を見る、そして再びカレーを見ると。悲しそうに、心底残念そうに箸を置いた。
不服そうな上目遣いを見せると。
「単にあなたに会いに来ただけですよ、南谷冬弥さん」
あぁ私のカレーうどんという小さな呟きが聞こえた気がした。
「どう言う意味?」
「あなた馬鹿ですか!操り人形にでもなってしまいましたか?」
ちょっとカチンと来たが抑える……。
「昨日勝手に貴方が飛び出してリーゼ泣いて引きこもっているから私が代わりにあなたを探しに来たんですよ」
おー六車にしては、長ゼリフだ。と心の中だけで感嘆する。本当に気になる言葉さえ無ければ心底驚けたに違いない。
「リーゼが、何故……」
今度は、叫ぶだけでは飽き足らず机を力いっぱいに叩く。ほとんど恫喝だ。よくドラマとかで見る事情聴取のそれだ。
「そんな事もわからないんですか!リーゼがどんな気持ちのあの話をあなたにしたと思っているんですか!」
あの話は、判る……判るが、初対面でであったばかりの少女にそんな話をされてだ、その機微まで推し量れというのは、少々無理が過ぎないか。そしてお前も昨日まで初対面だったからな俺の何を知っている。
「もう知りません、勝手にしてください」
そう意気消沈したように呟くと六車は、そそくさと店から出て行った。
言うだけ言って出て行ったな、だが何も反論出来なかったな。そんな事を思っていると、ふと視線を感じたので周りを見渡してみると、無数の目がこちらを見ていた、店員も客も窓際の席だったので行き交う人々も皆一様にこちらを注視していた。正直怖い……動物園のパンダってこんな気持ちなんだろうか。と現実から逃避しようとすると逃がさないようにと一人の若い店員が声をかけてきた。
「お客様、あまり店内での大声は、他のお客様の迷惑になりますので」
「えっと、すいません、ですがもう終わりました」
そういうと店員は、注視されている状況を見て取ると、
「ですけれど、こちらとしてもこのままじゃ営業になりませんので、お代は結構ですので出て行っていただけますか」
店員の瞳が出て行けそして二度と来んなと暗に示していた。ついさっき六車に言われた事が気になって店員と戦う気力も失っていたので俺は
「すいませんでした」
そういうととぼとぼと店を出て行った。店員は、ああ言っていたけれどお金は、置いていくべきだろうと財布を手を伸ばすと店員に強引に背中を押して店から追い出されてしまった。お気に入りの店だったのにな。
陰鬱とした気持ちでコンビニへ向かう。当初の目的だった食料調達の為だ、カップラーメンなど保存の効く物その他もろもろ。
コンビニへ向かうとコンビニ前で黙々と読書をする少女がいた。最早誰かと問うまでもない、六車陽花だ。
さっき別れたばかりだというのにこいつのアンテナは、一体どうなってやがる。僥倖な事に六車は、本に夢中になっていた。顔を上げる前に立ち去ろう、そう思った時、ふと自然な仕草で六車が顔を上げた。
「「あ」」
ハモるようにお互いにそう呟いた。
俺は、咄嗟に背を向けて雪道である事も忘れ走った。
「まって」
と後ろからそんな声が追いかけてくるが、さっきの今でどんな顔をして会えばいいのか正直判らなかった。
俺は止まらない、止まる気が無かった。それを理解したのか六車は、
「念のため歯食いしばってくださいね」
とすぐ後ろから息の上がった声でそう告げられた。
すぐ後ろに迫っていた事にも驚いたが、言ってる事の意味がわからず一瞬脳内で空転。
そして次の瞬間、背中に衝撃が走ったと思うと俺は、雪道に顔を打ち付けていた。
顔は、完全に凍傷になりそうなぐらいに冷たいを通り越して痛かった。が背中は柔らかな感触を感じていた、その感触の正体に気がついて俺は、全神経を背中に集中させた。
「あの、生きてる?」
無反応な俺を心配してくれているのか覆いかぶさったままゆっさゆっさと俺を揺する。
「そうだ本で読んだことがある、ヒロインが朝電気アンマでお起こしたら一瞬で目を覚ますっていうやつだった筈だ……いい機会だから試してみよう」
俺は、寝たふりをしていた事も忘れて思わず飛び起きた。
「何だ起きていたんだ」
寝てても起きるわ、目覚めさせる気か。言っておくが俺にそんな属性はない。
「何で逃げるの、逃げてばっかり」
否定できん……。
目を合わすことができず俺は、思わず目を逸した。
「まあ、さっきあんなに大声で怒鳴っちゃったし気まずいのは、理解できる」
「曼珠沙華の事は、後回しでいい、だから……リーゼちゃんに会いに来てあげて」
頭を通過せずほとんど脊椎反射で反駁していた。気がついたら口に出ていた。
「昨日合ったばっかりで初対面だぞ」
「それでも!」
「それでも、会ってあげて……リーゼちゃんは、あそこではね……」
そこで言葉を切ると自分で言い聞かせるように首を振った。
「初対面の相手にあんな話すると思う?」
「…………」
そうそれは、俺が昨日から心の中に仕舞っていた疑念。リーゼも六車もあのリーダーの男も皆何故初対面の相手に何かを期待する、それが曼珠沙華を心の底から信用できない理由だ。
それを問おうとして後ろから人の気配がして振り返った。
そこには、一人の警察官が居た。
別に俺たちの方を見ていたわけじゃない、だけど大事そうに鞄を胸の前で抱きかかえて挙動不審にどこかへ向かっていた。警察官は、怪しい人を第一印象で見破ると言うけれどその警察官は、素人の俺が見ても怪しかった。怪しいですと自ら喧伝しているように人の目を気にしながら東の方で消えていった。
六車は、それには目もくれず、不審そうに俺の方を見ていた。
今かなり大事な話をしていたのは、事実だ、リーゼは、昨日の俺のせいで引きこもっているらしいし、俺が会いに行けばもしかしたら出て来てくれるかもしれない、だけど今明らかに怪し気な警察官が東へ向かっていった。俺としては、それをどうしても追いかけたかった、追いかける事によって昨日リーダーの男の言った警察な不甲斐なさとそれを否定した事により絶望に絶叫したリーゼ、何も言わなかったが無言の反論の色を見せていた六車、この三人の世界が僅かばかりは、見えるようなそんな気がしていた。そしてもう一つ、怪しい警察官なんて俺は、二十数年生きてきて見たのは、今日が初めてだ。今を逃せば恐らく今後見る機会はないそんな漠然とした気持ちが胸を支配していた。
「ごめん!」
前車の轍は、踏まない、俺は昨日何も言えなかったことを反省し六車に一言そう告げと警察官が消えた、街の東へと走る。
警察官は、すぐに見つけることが出来た、コンビニは、街のほぼ中心に在るそこから東へ抜けると一気に人通りは、少なくなる古くから街に住む人達は、「棄てられた東側」なんて呼んでいる、東へ暫らく歩くと西洋風の建造物が在る、六車いわく、東側は都市開発を幾度となく繰り返したそうだ、元はベッドタウンとして、そして外人居留地になり、それもダメならとコンテナを集めて、そして最後には棄てられた。
そのコンテナ郡に挙動不審の警察官は、居た。好都合だった、ここまで薄暗く身を隠すスペースのある場所ならばこっそりと様子を伺うことも可能だ、学校前で一端立ち止まった時は肝を冷やした、昨日の遁走の件で後ろめたい事もそうだが、あそこは一本道だから身を隠すスペースなんて電信柱ぐらいしかなかったから。
警察官は、誰かを待っているようだったしきりに携帯を開いたり閉じたりしている相当に落ち着きがないそんなのでよく警察が務まるなと思う。そこでハッとする、俺は、この警察官の事を全く信用していないという事に気づかされた。俺は、真実を確かめに来たはずだった、本当に曼珠沙華の奴らが言うように警察官は、信用する価値の無い組織なのか、本当は、あいつらがいう事は、一面性に過ぎず近しい人を失った哀しみから一方的に警察を恨んでいるだけではないのか? そう思っていた、だけど実際に尾行してみて俺自身少なくともこの警察官の事は、最初から一切信用も信頼もしていなかった、むしろ何かが始まるという漫然とした事実を今か今かと待ち望んでいた。
ようやく警察官の取引相手と思しきいかにもアウトローな感じの輩がやってきた。一人は、黄色いパーカーを来たスキンヘッドでピアスのガタイの大きな男、一人は、長い髪のひょろりとしたビジュアル系のバンドマンみたいな男、そして最後の一人は、真冬だというのにタンクトップ一枚のガタイが良いというより好き勝手に肉をつけてぶくぶくと太った一人目の男とは違う意味で大きな男だった。三人の男が警察官に近づいた俺は、思わず倉庫の影から身を乗り出してその様子を一瞬たりとも見逃さいように注視していた。しかしそれが仇となった、そうあまりにその光景に集中しすぎていた。
次の瞬間後頭部に強い衝撃が走った、また六車かと一瞬よぎったがそんな生易しい衝撃ではなかった、骨の芯から痺れるような衝撃が後頭部から前進に走り抜けた。
気がついたら俺は地面からその男を見上げていた。そう俺は、三人で全員なのだと勝手に思い込んでいたのだ。危ない取引をするというならば、その取引現場の見張りは、居て当然なのだと今更ながらに後悔した。その男は、手に大きくへこんだ金属バッドを肩に担いで不気味に笑っていた。
「バカが好奇心で覗いていいものじゃない」
ああ、全くそのとおりだよガラにもなく警察の後なんてつけるからこうなる。因果応報なんてよくできた言葉だな、と他人ごとのようにそう思った。
「運がよければ生きてるだろうよ、もう首を突っ込むな、俺らだって無関係の人間まで殴り殺したくはない」
そうなんだな、お前実は、案外いいやつなのかも、と自分が殴られているというのにも関わらずそんな事を思った。そして視界の雪が朱く滲んでいく、血が出ているのかと認識した。視界を朱く染めるほどに流血しているらしく、俺死ぬのかなと諦めにも似た感情を抱いた。
もういいや、と重くのしかかる眠気に身を任せ瞳を閉じようとした。
「んっ~~~んっ~~~」
とくぐもった声が聞こえた。うるさいな眠れないだろう。
その声は、バットを持った男の奥、警察官が居る辺りから聞こえてきた。
肉だんごような男に後ろから羽交い絞めにされ口を塞がれている六車がそこには居た。
その光景で俺は、完全に目を覚ます。身体を起こそうと全身に力を込めるが力が入らないどころか指先一本すらも動かなかった。
身体は、完全に宙に浮き足をじたばたさせて必死に男たちから逃れようとしている。あまりにも暴れるので男たちも困惑しているようだった。ひょろりとした男が六車の胸に手をかけた瞬間、六車の暴れる力はより一層強くなった。スキンヘッドの男が、ビジュアル系の男を押しどけると男の拳は、目にも留まらないスピードで六車の腹にめり込んだ。それで六車は、完全に沈黙した。
「む……ぐるま」
そう掠れる声で搾り出すと、その光景を遠巻きから見ていたバッドを持った男が俺に気がついて見下してくる。
「言ったろ、首を突っ込むなって……全部見たんだ、お前はもう、無関係じゃねえよ」
男は、そう吐き捨てるとバッドを大きく振りかぶるとスイカ割の要領でそのまま重力に任せて力いっぱいに振り下ろす。胸と背中に今まで感じたことのない衝撃と激痛を感じると俺の視界は、完全にブラックアウトした。




