終章:NEON CIRCUIT
午前三時十四分。都内某所、雑居ビルの地下二階。
あの日と全く同じ時刻、同じサーバールームの暗がりの中に、貴仁は座っていた。
巨大な空調ファンが、無機質な轟音を立てて冷たい人工の風を吐き出し続けている。並列する黒いサーバーラックのLEDランプが、暗闇の中で緑や赤の小さな瞬きを無数に繰り返していた。それはまるで、意思を持たない機械たちが交わす、冷たく乾いた星空のようだった。
貴仁は、Dellの黒いモニターの前に静かに佇んでいた。
姿勢は真っ直ぐに伸び、かつてのようにモニターへすがりつくような猫背ではない。その横顔には、納期に追われる二十八歳の末端システムエンジニアが持つべき「疲弊」や「焦燥」は微塵もなかった。
代わりにそこにあるのは、途方もない年月を生き抜き、愛し、喪失し、そして全てを受け入れた老人のような、底知れぬ「静謐」だった。
彼はゆっくりと息を吸い込み、冷たいオゾンの匂いを肺に満たした。
この数週間、彼は狂気と正気の境界線を反復横跳びしながら、現実世界に散らばる「あちらの世界(三十年の幸福)」の断片を拾い集め、己の脳内で再構築し続けてきた。
プログラムの片隅に残された息子の名。ネオンの瞬きに隠された妻の子守唄。化学調味料の味の奥底に感じた光の果実の甘み。
それらを一つ一つ、丁寧に拾い上げ、繋ぎ合わせる作業は、血を吐くような苦痛と、天にも昇るような歓喜の連続だった。
そして今、彼の内面世界は、一つの絶対的な真理へと到達していた。
貴仁は、スリープ状態の黒いモニターに映る自分の顔を見つめた。
物理的な肉体は、隈の落ちた二十八歳の若者だ。だが、貴仁の「目」が捉えている自身の姿は違った。白髪が混じり、目尻に深い笑い皺が刻まれ、その奥に宇宙の深淵を湛えた、五十八歳の建築家の顔だ。
――人生の時間とは、一体何なのだろうか。
貴仁は、虚空に向かって、あるいはこの物語を観測しているであろう「誰か」に向かって、静かに問いかけた。
時計の針が刻んだ長さこそが、人生の価値なのか?
地球が太陽の周りを何周したかという物理現象の回数が、人間の命の絶対的な尺度だと言うのか。
だとしたら、あの〇・〇五秒の間に彼が体験した三十年は、無価値なバグなのだろうか。
違う。断じて違う。
時間が相対的なものであるならば、命の長さとは「脳が感じた密度の濃さ」で決まるはずだ。
あの一瞬の間に、貴仁はレイラという魂の伴侶を見つけ、互いの欠落を埋め合った。アルトという光の結晶をこの世に生み出し、彼が空を舞う姿に涙を流した。一つ一つのレンガの重みを感じながら塔を建て、老いていく妻の皺を愛おしく撫でた。
そのすべての瞬間に、彼の心臓は激しく脈打ち、魂は燃え上がるような歓喜と安らぎに包まれていたのだ。
物理的な時間の長さなど、ただのインデックス(目次)に過ぎない。重要なのは、そのページにどれだけの情報(愛)が書き込まれているかだ。貴仁の〇・〇五秒は、この退屈な灰色の世界の一万年よりも、遥かに長く、重く、尊い。
――ならば、幸福の実存とは何なのだろうか。
「現実世界」の戸籍謄本には、レイラの名前はない。アルトの出生証明書もない。彼が建てた光の塔を証明する物理的なデータは、この宇宙のどこにも存在しない。
彼らは「事実」としては存在しない。
だが、貴仁の脳神経のシナプスには、レイラの髪の匂いが、アルトの手のひらの温もりが、光の果実の甘さが、完全な電気信号として焼き付いている。
もし、「事実としては存在しないが、記憶として確かに存在する幸福」を『偽物』だと切り捨てるのなら。
今、この灰色のオフィスで、誰とも心を通わせず、ただ呼吸をするだけの有機物としてキーボードを叩いているこの「事実」は、果たして『本物』と呼ぶに値するのか?
記憶が偽物だと言うのなら、人間の心そのものが偽物だ。
貴仁にとって、レイラとアルトを愛した記憶だけが、この宇宙における唯一の「真実」だった。
――僕は、発狂したのだろうか。
精神科医に診せれば、重度の解離性同一性障害か、過労による統合失調症だと診断されるだろう。「ありもしない三十年の妄想に囚われた哀れな男」として、大量の薬を処方され、この素晴らしい記憶を「消去」されるに違いない。
だが、貴仁は微笑んだ。
他人が彼を狂人だと謗ろうが、一向に構わない。
愛を知らずに死んでいく正気よりも、永遠の愛を抱きしめたまま生きる狂気の方が、どれほど美しいか。
彼らは知らないのだ。絶対的な孤独の中で削られていくだけの正気など、魂の緩やかな自殺に等しいということを。
貴仁は発狂したのではない。彼は、この閉塞した三次元の牢獄から、愛という名のパスワードを使って、五次元の涅槃へと「悟りを開いた」のだ。
「……さて、仕事をするか」
貴仁は静かに呟き、キーボードに手を伸ばした。
彼がこれから行うのは、政府の極秘プロジェクト「イザナミ」システムの最終メンテナンスだ。あの日、彼を向こう側の世界へと誘った、あの深層領域へのアクセス。
カタ、カタカタカタ……。
エンターキーを叩く。
黒いモニターに、緑色の文字列が滝のように流れ始める。
認証コードを突破し、セキュリティの壁を抜け、システムの最深部――あの「ワーム」が巣食っていたであろう、今は何もないはずの空白のディレクトリへと潜っていく。
息を呑む。
心臓が、あの日のように早鐘を打ち始めた。
画面は漆黒に染まっている。ただ、プロンプトのカーソルだけが、心電図のように冷たく点滅している。
――もう、二度と会えないのだろうか。
貴仁の五十八歳の魂が、微かに震えた。
システムはリカバリーされ、脅威は排除された。物理的なデータとしては、あの美しい世界は完全に消去されている。
だが、彼は信じていた。
自分がこの脳内に、あちらの世界の断片を再構築したように。
あの世界もまた、自分という「観測者」の存在を、このシステムの奥底で記憶してくれているはずだと。
その時だった。
点滅するカーソルの奥。
液晶画面の物理的なドットの、さらに向こう側の次元で。
暗闇の底から、一筋の光が走った。
「……ッ!」
それは、エレクトリック・ブルーの閃光。
続いて、フューシャ・ピンクの脈動。
交差する光の線が、コンマ一秒の間に複雑なグリッドを描き出し、幾何学的な「奥行き」を持った空間を形成した。
――NEON CIRCUIT(ネオンの回路)。
間違いない。あの日のワームだ。
いや、それはもはやエラーコードなどではなかった。それは、次元の壁を超えて貴仁を迎えに来た、レイラとアルトの意思そのものだった。
光の回路は、画面の中だけで収まらなかった。
貴仁の網膜を焼き、視神経を逆流し、彼の脳内へと直接展開される。
サーバールームの灰色の壁が、半透明のワイヤーフレームへと変貌していく。
無機質なファンの轟音が、遠くで響くレイラの子守唄と、虹の橋を渡るアルトの足音にフェードアウトしていく。
蛍光灯の冷たい光が、黄金色の夕暮れへとオーバーラップする。
それは、物理的なダイブ(侵入)ではなかった。
現実世界と、五次元の記憶世界が、貴仁の脳内で完全に「統合」された瞬間だった。
世界が二重写しになる。
彼は、冷たい椅子に座る二十八歳のSEでありながら、同時に光の庭園に立つ五十八歳の建築家となった。
画面の奥底で瞬くネオンの回路を見つめながら、貴仁は微笑んだ。
その顔は、長い長い旅を終え、ようやく愛する家族の待つ我が家へと帰り着いた、老人のような穏やかさに満ちていた。
「ただいま」
タカヒトは誰もいないサーバールームで呟いた。
その声は空調の音にかき消されたが、ネオンの回路を通じ、次元の彼方にいる彼女たちへ間違いなく届いた。
現実は相変わらず冷たく、明日の朝には容赦のない納期が迫り、二十八歳の身体は重く軋むだろう。彼はこれからも、このバグだらけの荒野のような現実世界で、しがないSEとして生きていかなければならない。満員電車に揺られ、味気ない飯を食い、孤独に耐える日々が続く。
だが、彼の手の中には確かな重みがあった。
幻肢痛のように残る、レンガの肌触り。愛する者を抱きしめた時の、あの絶対的な温もり。
〇秒の中に圧縮された、永遠とも呼べる三十年の愛。
その記憶の質量が、彼を現実の重力から解き放っていた。
もし、この胸に宿る熱い感情が妄想だと言うなら、愛も痛みも感じないこの灰色の現実こそが悪夢だ。
偽物の世界で本物の愛を抱きしめるか、本物の世界で偽物の自分を生きるか。
タカヒトの答えは、とうの昔に出ている。
彼はゆっくりと両手を上げ、キーボードの上に降ろした。
カタッ、ターン。
力強いタイピングの音が、サーバールームに響き渡る。
カタ、タターン。カタ、ターン。
そのリズムは、あの日、彼が五次元の空に向かって、愛する家族のために光の橋を架けた時の、ハンマーの音と全く同じだった。
彼はコードを書いているのではない。
現実世界の裏側で、ネオンの回路を繋ぎ、二つの世界を結ぶ新しい橋を構築しているのだ。
彼は生きている。
誰も知らない回路の中で、二つの世界を重ね合わせながら。
永遠の愛をその胸に抱き、静かに、そして狂おしいほど美しく、灰色の日常を打ち砕き続ける。
――あなたの時間は、今、どちらに進んでいるだろうか。
あなたが今立っているその現実は、本当に「正規版」の人生だろうか――
タカヒトの叩くキーボードの音が、暗闇の中で、いつまでも、いつまでも、光のハンマーのように響き続けていた。
(end)
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「残酷な社畜のテーゼ」:https://linkco.re/CBmCnCdF
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