第四章:0秒後の残像
「……ッ、ガハッ……!」
肺に空気が突き刺さった。 呼吸という行為を、何十年も忘れていたかのような暴力的な吸気だった。肋骨がきしみを上げ、心臓が破裂しそうなほどの勢いで胸壁を叩く。
貴仁の身体は、安っぽいメッシュチェアの上で、陸に打ち上げられた魚のように激しく跳ねた。 重い。 あまりにも身体が重い。 先刻まで五次元の空間を飛翔していた魂が、重力という名の鉛の鎖で、強引に三次元の座標へと縫い付けられたのだ。 背骨に走る激痛。網膜を焼くような蛍光灯の白い光。そして、鼓膜を圧迫するサーバールームの無機質なファンの轟音。
世界が、狭くなった。 無限の色彩と音楽に満ちていた宇宙が、灰色の鉄とプラスチックの箱へと圧縮された。
「あ、ぐ……う、ううっ……」
喉の奥から、言葉にならない呻きが漏れる。 脂汗が毛穴という毛穴から吹き出し、シャツを一瞬で濡らした。視界が定まらない。平衡感覚が破壊されている。自分が上を向いているのか、下を向いているのかすら分からない。 強烈な目眩と共に、胃の腑から熱いものがこみ上げてきた。
「オエッ……!」
貴仁は反射的に床へ身を乗り出し、激しく嘔吐した。 胃液と、消化不良のコンビニパスタの残骸。酸っぱい臭気が、オゾンの匂いと混ざり合い、鼻腔を刺激する。 汚い。臭い。醜い。 つい数秒前まで――いや、彼の感覚では数分前まで、彼は光の果実を食べ、神々のような美酒を飲んでいたはずだった。それなのに今、彼は自分が吐き出した汚物を見つめながら、喘いでいる。
「はぁ、はぁ、はぁ……ここ、は……」
震える手で口元を拭う。 指先が冷たい。血の気が引いている。 貴仁は、恐る恐る顔を上げた。
目の前には、Dellのロゴが入った黒いモニターがある。 その脇には、積み上げられたエナジードリンクの空き缶。 絡まり合ったLANケーブル。 埃を被ったキーボード。
見覚えがある。 痛いほどに見覚えがある。ここは、彼が二年もの間、人生を浪費し続けてきた「牢獄」だ。
「戻って、きたのか……?」
掠れた声が出た。それは二十八歳の若者の声だったが、その響きには五十八歳の老人の疲弊が滲んでいた。 嘘だ。嘘だと言ってくれ。 あそこには、三十年の歳月があった。レイラと出会い、家を建て、アルトを育て、そして共に老いていった、確かな一生があった。 それが、ただの白昼夢だったというのか?
貴仁は、何かに縋るようにモニターの右下を見た。 デジタル時計の表示。
03:14:05
思考が停止した。 記憶を手繰り寄せる。 あの美しいワームを見つけ、魅入られ、エンターキーを押した瞬間の時刻は、確かに「03:14:05」だった。 秒針が進んでいない?
いや、違う。 貴仁は視線を、デスクの端に置かれた紙コップへと移した。 コンビニで買ったホットコーヒー。エンターキーを押す直前に一口飲み、置いたものだ。 その液面から、白い湯気が立ち上っている。 湯気は、ふわりと揺らぎ、まだ天井へ向かって昇りきっていない。 その形状は、彼がワームの世界へダイブする直前に見たものと、完全に一致していた。
ピロン♪
乾いた電子音が響いた。 Slackの通知音だ。 その音すらも、まだ余韻を残して空気中に漂っている。 音の波が減衰しきっていない。
「……嘘だろ」
貴仁は震える手でキーボードに触れた。 コマンド履歴を表示させる。 tail -f /var/log/syslog
ログの最終行。
[03:14:05.00] User: Takahito executed cleaning_patch.sh
[03:14:05.05] System: Threat removed. Recovery complete.
経過時間、〇・〇五秒。
貴仁は椅子から転げ落ちるように崩れ落ちた。 膝が笑っている。立てない。 三十年だぞ。 一万九百五十日だ。 二十六万二千八百時間だ。
あの、レンガを一つ一つ積み上げた労働の日々も。 レイラと語り明かした無数の夜も。 アルトが初めて空を飛んだ日の、あの胸が張り裂けそうな感動も。 老いていく身体を労わり合った、あの穏やかな夕暮れも。
そのすべてが、〇・〇五秒の間に処理されたというのか? 瞬きよりも速い、神経伝達速度の極限の中で、脳が焼き切れるほどの密度で圧縮され、再生されたというのか?
「あ、ああああ……」
頭を抱える。 脳が悲鳴を上げている。 彼の頭蓋骨の中には今、五十八歳の成熟した精神と、三十年分の膨大な記憶データが、暴力的な質量を持って詰め込まれていた。 この二十八歳の未熟な脳みそという器には、あまりにも大きすぎるOSとデータだ。
処理落ちを起こしそうな意識の中で、貴仁は自分の手を見た。 白く、細く、頼りない手。 ペンだこもなければ、日焼けもしていない。 だが、感覚は違った。 彼の手のひらは覚えていた。光のハンマーを振り下ろした時の衝撃を。クリスタルの柱を磨き上げた時の、あの硬質な手触りを。 親指の付け根に、硬い「豆」の感触がある。 擦り合わせると、ザラリとした皮膚の厚みを感じる。
――幻肢痛。
失った手足が痛むように、貴仁は「失った人生」の感触を、皮膚感覚として鮮明に感じていた。 彼はデスクの鏡に映る自分を見た。 そこにいるのは、目の下に隈を作った、青白い顔の若者だ。 知らない男だ。 貴仁の自認は、白髪混じりの髭を蓄え、深く刻まれた皺を持つ、威厳ある老人なのだ。 この鏡の中の若造は、僕じゃない。 こんな、人生の何一つ分かっていないような顔をしたガキは、僕であるはずがない。
「返せよ……」
貴仁は鏡の中の自分に向かって呟いた。涙が溢れてくる。
「返せよ! 僕の妻を! 僕の子供を! 僕の三十年を!」
拳でデスクを叩く。 ドンッ、という鈍い音が響き、コーヒーが倒れた。 黒い液体がデスクに広がり、キーボードを汚していく。 その液体は熱かった。 レイラの体温よりも、アルトの温もりよりも、残酷なほどに熱く、そしてリアルだった。
検証しなければ。 これは悪質なドッキリかもしれない。あるいは、自分が狂ってしまっただけで、本当は三十年間昏睡していて、今目覚めたのかもしれない。 貴仁は汚れたキーボードを無視して、狂ったようにタイピングを始めた。 date エンター。 表示される日付は、あの日と同じ。
uptime エンター。 サーバーの稼働時間は変わっていない。
スマホを取り出す。 ニュースサイトを開く。 日付は変わっていない。トップニュースは、昨日見たものと同じ政治家の汚職事件だ。 Twitter(X)を開く。 タイムラインは、五分前と同じ話題で流れている。
逃げ場はなかった。 あらゆる証拠が、物理的な現実が、彼を追い詰める。 時間は進んでいない。 世界は何一つ変わっていない。 変わってしまったのは、貴仁だけだ。
たった〇・〇五秒の間に、彼は一生分の愛を知り、そしてそれを永遠に失ったのだ。
「うぅ……うぅぅっ……」
貴仁は椅子の上で小さく丸まった。 五十八歳の老人の魂が、二十八歳の若者の身体の中で、子供のように泣いていた。 孤独だった。 以前の孤独とは質が違う。 かつての孤独は「知らない」ことによる欠乏だった。しかし今の孤独は、「知ってしまった」ことによる喪失だ。 満たされることの喜びを知ってしまった人間に、この空虚な現実は、地獄よりも過酷な拷問だった。
ふと、視界の端で何かが明滅した気がした。 貴仁は顔を上げる。 汚れたモニターの黒い画面。 そこに一瞬、エレクトリック・ブルーのグリッドが走ったように見えた。 あの「ネオン・サーキット」の残像。
彼は手を伸ばした。 画面に指を這わせる。 指先が脂で汚れるだけだ。向こう側へは行けない。 回路は閉じられた。 システムは正常化された。 バグである彼の「幸せ」は、脅威として削除された。
「……レイラ」
名を呼んでも、返ってくるのはファンの回転音だけ。 テレパシーのような共鳴はない。 彼の心は、分厚いコンクリートと鉄の壁に閉ざされた、完全なる密室に戻っていた。
貴仁は、倒れたコーヒーが床に滴り落ちる音を聞いていた。 ポタ、ポタ、ポタ。 それは、秒針の音のように聞こえた。 ここからまた、一秒ずつ、時間を積み上げなければならないのか。 あの輝かしい三十年を、幻として抱きしめたまま。 この色褪せた、味気ない、灰色の牢獄で。
彼はゆっくりと目を閉じた。 瞼の裏に、オーロラの残像が焼き付いている。 それは消えない。決して消えない呪いのように、彼の網膜にこびりついていた。
これが、〇秒後の世界。 永遠が終わった後の、残酷な続きの始まりだった。




