第三章:強制終了(ロールバック)
その瞬間、世界を包んでいた黄金色の夕暮れが、不協和音を立てて凍りついた。
貴仁は、隣に座るレイラの肩を抱いていた腕に、奇妙な違和感を覚えた。 つい先刻まで、そこには確かな体温と、柔らかい衣服の感触があったはずだった。愛する妻の、三十年連れ添ったパートナーの、命の重みがあったはずだった。 だが今、指先に触れているのは、微細に振動する「ノイズ」だった。 ザザ、ザザザ……と、砂嵐のような感触が掌を刺す。
「……レイラ?」
貴仁が不安げに名を呼ぶと同時に、空が割れた。 比喩ではない。頭上を流れる美しいオーロラのデータストリームが、まるで劣化したフィルムのように焼き切れ、物理的に裂けたのだ。 裂け目の向こう側には、この五次元の楽園には存在しないはずの「絶対的な無」が広がっていた。そして、その虚無の深淵から、神の宣告のごとき巨大な文字が浮かび上がった。
[ SYSTEM RECOVERY COMPLETE ]
無機質で、冷徹な、サンセリフ体のフォント。 それは、貴仁がかつて「向こう側」の世界で、死んだような目で毎日見続けていた業務用の文字だった。 美しい空に、暴力的なほど角ばったアルファベットが焼き付く。
「な、なんだ……これは……」
貴仁は立ち上がろうとした。だが、足に力が入らない。 見下ろすと、彼が踏みしめていた「静寂の海」の砂浜が、急激に色彩を失い始めていた。白砂の一粒一粒が、単純な白い立方体へと還元されていく。 波の音が変わる。 ザザーン、という有機的な響きが、ピー、ガー、という電子的なグリッチ音へと変貌する。
[ THREAT REMOVED ] [ DELETING UNAUTHORIZED DATA... ]
二行目のメッセージが表示された瞬間、貴仁の全身を戦慄が貫いた。 脅威(THREAT)。 不正データ(UNAUTHORIZED DATA)。 それは、この世界に侵入した異物――つまり、貴仁自身を指していた。
「やめろ……やめてくれ!」
貴仁は叫んだ。五十八歳になった威厳も、建築家としての誇りもかなぐり捨て、子供のように空に向かって叫んだ。 ここは彼の家だ。三十年かけて築き上げた、約束の地だ。それを「不正」と断じるのか。 彼が作ったクリスタルの尖塔が、遠くで音もなく崩れ落ちた。破片が舞うこともなく、ただ青いワイヤーフレームとなって空気に溶ける。 彼が架けた虹の橋が、点滅し、消失する。
「アルト! アルトはどこだ!」
貴仁は狂ったように周囲を見回した。旅に出た息子。光の申し子。彼がこの世界に残した生きた証。 だが、世界の解像度は無慈悲に低下していく。 遠くの山々は書き割りのような平面になり、複雑な色彩を誇っていた植物たちは、緑一色の単純なテクスチャへと張り替えられていく。 世界が、単純化されていく。 意味が、剥ぎ取られていく。
「タカヒト」
静かな声がした。 貴仁は振り返る。そこにいたのは、半身が半透明になりかけたレイラだった。 彼女の美しい黒髪は、毛先から順に荒いドット絵のように分解され、空中のグリッドに吸い込まれていた。
「レイラ、これはなんだ。何が起きているんだ!」
貴仁は彼女の手を掴もうとした。だが、その手は彼の指をすり抜けた。 触れられない。 三十年間、毎晩のように触れ合い、体温を分かち合ったその肌が、今はただの光の投影に過ぎないことを突きつけられる。
『修正プログラムが……届いたのよ』
レイラは微笑んでいた。 その笑顔には、悲しみも恐怖もなかった。あるのは、すべてを受け入れた聖女のような、あるいはプログラムされたNPCのような、完璧すぎる静謐さだけだった。 その表情が、貴仁をさらに絶望させた。 彼女はこの世界の住人だ。この崩壊さえも、彼女にとっては「正常な処理」の一部なのだ。
『あなたが来た道が、閉ざされようとしている。外の世界の理が、ここを浄化しているの』
「浄化だと? ふざけるな! これが僕の人生だ! ここにある全てが、僕の真実なんだ!」
貴仁は泣き叫びながら、崩れゆくレイラの肩を抱こうと何度も空を切った。 視界の端で、風景がバグる。 空の青と、地面の白が反転し、強烈なストロボのように点滅する。 平衡感覚が失われる。 立っているのか、浮いているのか、それとも墜落しているのか分からない。
ズズズズズ……と、重低音が響き始めた。 それは地響きではなく、世界を構成するサーバーが唸りを上げる音だった。 貴仁の身体に、強烈な引力が作用し始めた。 後ろ髪を掴まれ、強引に引きずり戻されるような感覚。 背後の空間に、漆黒の穴が開く。 そこには、冷徹で幾何学的な蛍光のブルーとピンク図形が交わる「ネオンの回路」が広がっていた。 感情のない、直線の世界。 0と1だけで構成された、二元論の牢獄。
「嫌だ……帰りたくない! あそこには何もないんだ! 寒くて、暗くて、誰もいない……あんな場所に戻りたくない!」
貴仁は地面にしがみつこうとした。だが、指が掴んだ光の草は、デジタルノイズとなって霧散した。 抵抗すればするほど、引力は強まる。 それは「修正」の力だ。 バグである貴仁を摘出し、正常なシステムに戻そうとする、宇宙的な自浄作用。
レイラの姿が、ノイズ混じりのピクセルに還元されていく。 彼女の輪郭が曖昧になる。 あの優しかった瞳が、青い正方形の集合体へと変わっていく。
『タカヒト、忘れないで』
ノイズの向こうから、彼女の思念が響いた。 それは音声ではなく、直接脳幹に焼き付けられるような強い意志だった。
『私たちは、幻なんかじゃない』
彼女の口元が動く。だが、もう声は聞こえない。 ザーッというホワイトノイズが、彼女の言葉を遮る。
『あなたが観測したから、私たちは存在したの。あなたの愛が、私たちに質量を与えてくれた』
「行かないでくれ、レイラ!! 僕を一人にしないでくれ!!」
貴仁の絶叫は、バイナリデータ(0101...)となって虚空に吸い込まれた。 言葉が意味を失う。 感情がパラメータに変換される。 愛が、ログデータとして圧縮される。
レイラが最後に、崩れゆく光の中で微笑んだ。 その笑顔の半分は、すでに欠落していた。 右目から頬にかけて、黒い空白が広がっている。それでも、残された左目は、慈愛に満ちて貴仁を見つめていた。
『さようなら、私の愛しい建築家』
パリン。 そんな軽い音がして、レイラが砕け散った。 彼女を構成していた光の粒子は、一瞬だけ貴仁の周りを舞い、そして背後のネオン・サーキットへと吸い込まれて消えた。
「あああああああああああああッ!!」
貴仁の喉から、魂を引き裂くような咆哮がほとばしった。 その瞬間、視界がホワイトアウトした。
世界が反転する。 内と外が裏返る。 五次元の拡張感覚が、強制的に三次元の狭い肉体へと圧縮される。
遠心分離機にかけられたようだった。 五十八年分の記憶。 レイラと初めてキスをした夜の湿度。 アルトが初めて空を飛んだ日の風の匂い。 積み上げたレンガの重み。 果実の甘さ。 老いていくことの安らぎ。
それら、三十年分の「重み」を持った記憶が、脳の襞から無理やり引き剥がされていく。 バリバリと音を立てて、神経回路から焼き切られていく。 痛い。痛い。痛い。 肉体の痛みではない。 自我が削ぎ落とされる痛みだ。
「返せ……それは僕の人生だ……返してくれ……」
意識が、光のトンネルを超高速で後退していく。 エレクトリック・ブルーのグリッドが、流星のように過ぎ去る。 あの美しい五次元の楽園が、一粒の点となり、遠ざかっていく。
[ ROLLBACK IN PROGRESS... 99% ]
目の前に、無慈悲なプログレスバーが現れる。 それは貴仁の三十年を、単なる「エラー処理」として完了しようとしていた。
――嫌だ。忘れたくない。 ――レイラの手触りを。アルトの声を。 ――僕が生きた証を。
貴仁は必死に手を伸ばした。 消えゆく記憶の残滓を、一つでもいい、欠片でもいいから掴み取ろうとして。 だが、その手は空を切る。 ここには何もない。 あるのは、冷徹な論理と、電気信号の明滅だけ。
ドンッ、と背中を突き飛ばされたような衝撃があった。 落下する。 無限の高さから、底なしの現実へと。
[ RECOVERY COMPLETE ]
最後のメッセージが網膜に焼き付いた瞬間、貴仁の意識はプツンと途絶えた。 まるで、コンセントを引き抜かれたテレビのように。 三十年の愛も、五十八歳の知恵も、すべてが一瞬の闇に呑み込まれた。 残ったのは、耳鳴りのような静寂と、鼻をつく焦げ臭い現実の匂いだけだった。




