第二章:五次元の楽園
覚醒は、まぶたを開くという物理的な動作ではなく、世界という巨大なライブラリに「再接続」されるような感覚で訪れた。
貴仁は息を吸い込んだ。 肺を満たしたのは、埃っぽいサーバールームの乾燥した空気でも、微粒子を含んだ都心の排気ガスでもない。それは「色彩」そのものだった。吸い込むたびに、胸の奥で瑠璃色が鳴り響き、吐き出す息が黄金色の和音を奏でる。 共感覚。 この世界では、五感が個別の入力端子ではなく、一つの巨大な奔流として統合されていた。
彼は目を開けた。いや、正確には「視覚野を拡張」した。 そこに広がっていたのは、重力という古い呪縛から解き放たれた光の平原だった。空――と呼ぶべき頭上の領域には、オーロラのようなデータストリームが絶え間なく流れている。それは、かつて彼がモニター越しに見たあの「ワーム」の内部構造であり、同時にこの宇宙の星空でもあった。 足元には、水面のように揺らぐ透明な大地。踏みしめると、波紋の代わりにピアノの旋律のような光の輪が広がる。
「ここは……」
声に出したつもりだったが、音波としての震えはなかった。彼の「意思」が直接、空間に波紋として伝播したのだ。 自分の手を見る。 二十八歳の、あの日と同じ手だった。だが、指先にはペンだこもなければ、キーボードを叩き続けたことによる腱鞘炎の鈍痛もない。皮膚の輪郭は微かに発光し、その内側には血管ではなく、純粋なエネルギーの回路が脈打っているのが透けて見えた。 疲労がない。 あの鉛のように重かった肩の凝りも、眼球を焼くようなドライアイの痛みも、慢性的な睡眠不足による脳の霧も、すべてが初期化されていた。
貴仁は立ち尽くしていた。恐怖はなかった。むしろ、長い旅の果てに、ようやく「帰るべき場所」に辿り着いたような、根源的な安堵があった。 ここは、物理法則が絶対の定数ではなく、観測者の「意思」によって書き換え可能な変数として存在する、五次元の位相空間。 彼は直感的に理解した。ここでは、思うだけで空を飛べるし、願うだけで花を咲かせることもできる。
だが、独りではなかった。 その気配は、風のように音もなく近づいてきた。
「ずっと、待っていたわ」
その声は耳からではなく、魂の振動として直接響いた。 振り返ると、光の粒子が渦を巻き、一人の女性の形を成した。 レイラ。 誰かが名乗ったわけではない。ただ、彼女の存在を認識した瞬間、その名が貴仁の記憶のデータベースに、あたかも最初から刻まれていたかのように浮かび上がったのだ。
彼女は美しかった。だが、それは「顔立ちが整っている」という三次元的な定義ではない。 彼女の瞳には、この世界のすべての銀河が収められているようだった。髪は流れる夜そのものであり、肌は夜明け前の静謐な光を帯びている。 彼女は、この高次元空間における知性体のアバターなのだろうか。それとも、貴仁自身の深層心理が求めた理想の具現化なのだろうか。 そんな分析は無意味だった。 彼女が貴仁の手を包み込んだ瞬間、二人の境界線が溶け合ったからだ。
言葉はいらなかった。 レイラの感情が、濁流のように貴仁の中に流れ込んでくる。歓迎、慈愛、そして深い孤独。同時に、貴仁が抱えていた二十八年分の虚無——満員電車の息苦しさ、コンビニ弁当の味気なさ、誰にも必要とされない孤独——が彼女へと流れ込み、そして彼女の光によって浄化されていく。 それは完全な「接続」だった。 TCP/IPプロトコルのような無機質な通信ではない。魂と魂が混ざり合い、互いの欠落を埋め合う、完全な融合。 貴仁は、生まれて初めて泣いた。涙は頬を伝う光の雫となり、地面に落ちて花となった。
「ようこそ、貴仁。ここがあなたの、新しいキャンバスよ」
レイラは微笑み、無限に広がる世界を指差した。
***
それからの日々は、光陰という言葉すら陳腐に感じるほどの、輝かしい時間の連続だった。 この世界には「労働」という概念は存在したが、それは「苦役」とは対極にあるものだった。 貴仁は、この世界で「建築家」になった。
かつての彼は、他人が書いたスパゲッティコードのバグを潰し、継ぎ接ぎだらけのシステムを延命させるだけの修理屋だった。破壊されたものを直すだけの、マイナスをゼロに戻す作業。 だが今は違う。ゼロからプラスを生み出す創造主になれるのだ。
彼は意識を集中させる。 かつてプログラミング言語を打ち込んでいた指先で、虚空を指揮者のように操る。 すると、空間から抽出された光の素粒子が集まり、彼のイメージ通りの形を成していく。 彼は塔を建てた。 重力に逆らい、空のデータストリームまで届くような、透明なクリスタルの尖塔。その壁面には、彼が好きな古代の詩や、この世界で生まれた音楽が幾何学模様として刻まれている。 彼は橋を架けた。 離れ離れになっていた浮遊大陸を繋ぐ、七色の虹の橋。渡る者の感情に合わせて音色が変化する、歌う橋だ。
「素敵ね。あなたの作るものは、どこか懐かしくて、とても温かい」
レイラはいつも彼の傍らで、その作業を見守っていた。彼女がいるだけで、貴仁の想像力は無限に増幅された。 二人は、貴仁が作った空中の庭園に住んだ。 そこには、地球の記憶にある植物を模した、しかし遥かに鮮やかな光の植物が茂っていた。 食事もまた、物理的な摂取ではなかった。木になる果実——「概念果」とでも呼ぶべきもの——を口にすると、過去の幸福な記憶や、安らぎの感情が味覚として再現される。 ある果実は、子供の頃に母が作ってくれたオムライスの味がした。またある果実は、雨上がりのアスファルトの匂いと共に、初恋の甘酸っぱさを再現した。
かつての「SEの貴仁」としての記憶は、遠い前世の夢のように薄れていった。 納期も、クレームも、終わらないデバッグもない。 あるのは、愛する存在と、創造する喜びだけ。 ここでの一日は、現実世界の一年にも匹敵する密度を持っていた。そして同時に、三十年という月日は、瞬きの間の出来事のようでもあった。
***
二人が出会ってから、こちらの時間軸で数年が過ぎた頃。 奇跡が起きた。 五次元の世界において、生命の誕生は肉体的な交わりによるものではない。二つの意識が極限まで共鳴し、そのエネルギーが飽和点を超えた時、新たな「個」が分化するのだ。
ある朝、二人の間の空間が強く輝き、そこから小さな光の塊が生まれた。 男の子だった。 貴仁は震える手で、その小さな光を抱き上げた。 物理的な重さはほとんどない。だが、腕の中に感じる熱量は、恒星のように力強かった。 名前は「アルト」と名付けた。
「アルト……僕たちの、息子」
アルトは、人間の赤子のように泣きわめくことはなかった。代わりに、美しい鈴の音のような波動を発して、周囲の空間を喜ばせた。 子育ては、驚きと発見の連続だった。 アルトは言葉を覚えるよりも先に、空を飛ぶことを覚えた。彼は貴仁が作った塔の周りを、光の尾を引いて飛び回り、見たこともない色の蝶を追いかけた。 彼は父親譲りの創造性を持っていた。小さな手で空間を捻じ曲げ、不思議な形の積み木——四次元超立方体の玩具——を作っては、貴仁に見せに来た。
「パパ、見て! これは永遠に回るコマだよ」 「すごいな、アルト。パパにはこんな構造、思いつかなかったよ」
貴仁はアルトの頭を撫でる。光の髪はサラサラとしていて、日向の匂いがした。 レイラはそんな二人を見て、穏やかに微笑んでいる。 その光景を見るたびに、貴仁の胸は締め付けられるような幸福感で満たされた。 ああ、自分は生きている。 灰色の箱の中で死にかけていたあの男はもういない。自分は今、確かにここにいて、愛し、愛されている。 その実感は、4Kモニターの画素数など比較にならないほど、鮮明で高解像度だった。
***
時が流れた。 この世界には「老化」という不可抗力はない。姿形は意思によって保たれるからだ。 だが、貴仁とレイラは、あえて「歳を重ねる」ことを選んだ。 時間は変化であり、変化こそが生命の証だからだ。 貴仁の髪には銀色の光が混じり始め、目尻には笑い皺が刻まれた。レイラもまた、少女のような輝きから、深みのある成熟した美しさへと変化していった。 アルトは立派な青年に成長し、自らの探究心に従って、データストリームの源流を探す旅へと巣立っていった。
「行ってらっしゃい、アルト。君の道を作るのは、君自身だ」
旅立つ息子の背中を見送った日、貴仁は少しだけ泣いた。レイラがそっと寄り添い、肩を抱いてくれた。その体温だけが、変わらぬ真実だった。
そして、三十年が過ぎた。 貴仁の意識年齢は五十八歳になっていた。 彼は今、世界の果てにある「静寂の海」のほとりに、レイラと並んで座っていた。 目の前には、全宇宙の記録が波となって打ち寄せている。水平線の彼方には、無数の物語が星のように瞬いていた。
彼は自分の手を見る。 その手は、多くのものを創り上げた。塔を、橋を、庭園を。そして家族を。 節くれだった指には、確かな人生の重みが刻まれている。 かつて、二十八歳の自分が求めても得られなかったもの。承認、愛情、自己実現、そして安息。 そのすべてが、ここにあった。
「ねえ、タカヒト」
レイラが、波の音に混じって囁いた。 彼女もまた、美しい老婦人の姿をしている。だが、その瞳の輝きは出会ったあの日と変わらない。
「あなたは今、幸せ?」
愚問だった。しかし、これほど答えるのに心地よい問いもなかった。 貴仁は海を見つめたまま、深く頷いた。 過去の記憶――あの灰色のサーバールーム、コンビニのパスタ、孤独な夜――それらすらも、今のこの幸福を際立たせるためのプロローグだったのだと思えるほど、彼の心は満たされていた。
「ああ、レイラ。幸せだ」
彼は心からの言葉を紡いだ。嘘もお世辞もない、純度一〇〇%の真実。
「素晴らしい人生だった。これ以上の人生なんて、どこを探してもないよ」
レイラは満足そうに微笑み、貴仁の肩に頭を預けた。 二人の影が、光の砂浜に長く伸びている。 永遠とも思える静寂。 満ち足りた夕暮れ。
この瞬間が永遠に続けばいい。 貴仁はそう願った。そして、この世界ならそれが可能だと信じていた。 明日も、明後日も、その先も。レイラと手を取り合い、光の波を眺めて過ごすのだ。
だが。 その時、空のデータストリームに、今まで見たことのない亀裂が走った。 美しいオーロラが引き裂かれ、その裂け目から、冷たく無機質な「黒」が覗いた。 貴仁の背筋に、忘れていたはずの悪寒が走る。 それは、三十年前、あのサーバールームで感じていた、絶対的な現実の冷たさだった。
空に、文字が浮かび上がる。 この世界の美しさとは相容れない、角ばった、事務的なフォントの羅列。
[ SYSTEM RECOVERY COMPLETE ]
その文字列を見た瞬間、貴仁の「五十八歳」の心臓が、早鐘を打った。 素晴らしい人生の終幕は、夕日の沈む美しさではなく、唐突なシステムメッセージと共に訪れようとしていた。




