第一章:灰色のループと特異点
"Beyond the Circuit, Eternity in Zero Seconds"
主人公: 貴仁、28歳。システムエンジニア。
テーマ: 幸福の定義、記憶の質、現実とシミュレーションの境界。
【しおの】
午前三時。都内某所、雑居ビルの地下二階。 貴仁は、今日も巨大な空調ファンの轟音に包まれていた。ここはサーバールームという名の、現代の賽の河原だ。並列する黒いラックの隙間を、冷たく乾いた人工の風が吹き抜けていく。濕度管理は完璧だが、ここにいる人間の精神衛生管理は、仕様書に含まれていないらしい。
二十八歳。システムエンジニア。 そう名乗れば聞こえはいいが、実態は大手SIerから三次請け、四次請けへと流れてきたタスクの残骸を処理する、末端の作業員に過ぎない。
「……ドライアイが限界だな」
独り言が、ファンの音に吸い込まれて消える。ブルーライトカットの眼鏡越しでも、眼球の裏側が砂利で擦られているように痛い。 デスクの脇には、四時間前に一階のコンビニで買った、食いかけのペペロンチーノが放置されている。麺は伸びきって、油とプラスチック容器の味しかしなかった。それを流し込むための、カフェインだけが過剰に添加されたエナジードリンクの空き缶が三本。これが貴仁の燃料だ。
この二年間、彼の人生は驚くほど効率的にループしていた。 埼玉の狭いアパートで四時間眠り、満員電車に揺られてこのビルに来る。太陽を見るのは通勤のわずかな時間だけ。あとはこの窓のない部屋で、エラーログと睨めっこをする。誰とも口をきかない日も珍しくない。いや、正確には話している。Slackという名のデジタルな伝言板で。 『了解です』『確認します』『修正完了しました』。 彼の発する言葉は、この三種類のスタンプに集約されていた。感情は不要だ。必要なのは、納期までにバグを潰すという機能だけ。
時折、自分が人間なのか、それともキーボードを叩くために作られた有機質の周辺機器なのか分からなくなることがあった。もし自分が突然死んでも、次の日には同じスペックの代用品がこの椅子に座り、同じようにペペロンチーノを啜るのだろう。そう考えると、悲しみよりも先に、奇妙な納得感があった。 生きている心地がしないまま、ただ脈だけが打っている。それが、貴仁という二十八歳の男の現状だった。
その夜、彼が担当していたのは、政府主導の極秘セキュリティプロジェクト「イザナミ」の保守作業だった。 名前は大層だが、やることは変わらない。深夜のトラフィックが少ない時間帯を狙って、システムの深層部に蓄積された不要なログを掃除し、パッチを当てる。デジタルなドブさらいだ。
「あと二件……これで今夜は上がれるか」
伸びをして、凝り固まった首を鳴らす。思考が鈍い。カフェインの覚醒効果も切れかけ、意識の端が泥のように濁り始めていた。 惰性でマウスを動かし、次のログファイルを開く。並列する文字列の羅列。いつもと同じ、無機質なデータの海。 だが、その時だった。 スクロールする指が止まった。
「……なんだ、これ」
最初は、ディスプレイの故障かと思った。 漆黒のコンソール画面の中央に、異質な輝きがあった。それは通常のテキストデータではなかった。かといって、既知のウイルスによる画面崩壊とも違う。
それは、あまりにも美しすぎた。
エレクトリック・ブルーとフューシャ・ピンクの光が、幾何学模様を描いていた。まるで、ここだけ解像度が違うかのように鮮明だった。 貴仁は眼鏡を外し、目をこすって再び画面を見た。幻覚ではない。 その光は、平面のモニター上にありながら、確かな「奥行き」を持っていた。無数の光の線がグリッドを形成し、画面の奥深くへと続くトンネルのように渦を巻いている。 それは、彼がこの灰色のサーバールームで一度も見たことがない、鮮烈な色彩の奔流だった。
――ワームだ。
直感的にそう理解した。だが、これは既存の定義に当てはまるような代物ではない。破壊活動を行うでもなく、データを盗むでもなく、ただそこに「在る」。自己増殖する美しい数学的構造体。 報告義務。そんな単語が脳裏をよぎるが、疲労しきった思考はそれを拒否した。今これを報告すれば、緊急会議が招集され、始末書を書かされ、この灰色の部屋にあと二十四時間は拘束されるだろう。
「デバッグして……消去するしかないな」
貴仁は溜息をつき、修正プログラムを呼び出した。この美しい光の回廊を、無粋な削除コードで上書きする。それで全ては元通り。明日はまた、伸びたパスタを食う日常が待っている。 それでいいはずだった。 だが、エンターキーの上に置いた右人差し指が、微かに震えていた。
魅入られていたのだ。 この埃っぽく乾燥した現実世界で、唯一、生命力を感じさせるその光に。
「……綺麗だな」
無意識に漏れたその言葉は、彼が二年ぶりに口にした、スタンプではない本音の感情だった。 吸い寄せられるように、指先に力が入る。
カチリ、と安っぽいプラスチックの音が鳴った。
その瞬間だった。 警告音は鳴らなかった。ただ、静寂だけが爆発した。
「え――?」
指先が、キーボードから離れない。いや、違う。指先がキーボードに「融解」していた。 プラスチックの感触が消え、代わりに、痺れるような電気信号が指の神経を逆流してくる。それは肘を超え、肩を駆け上がり、脊髄を通って、視神経へと直結した。
ドクン、と心臓が今まで聞いたこともないような大きな音を立てた。
視界が変貌する。 目の前のモニターが物理的な枠組みを超えて拡張した。漆黒の画面に走っていたエレクトリック・ブルーとピンクのラインが、実体を持って貴仁の周囲に展開される。 それはソースコードではなく、脈打つ血管のようだった。 サーバールームの冷たい壁が、光のグリッドへと置換されていく。ファンの轟音が遠ざかり、代わりに電子の流れる微細な音が鼓膜を震わせた。
貴仁は気づく。自分がキーボードを叩いているのではない。キーボードが、僕の魂をタイピングしているのだと。 肉体という重荷が剥がれ落ちていく感覚。それは、二年分の疲労が一度に蒸発するような、恐ろしいほどの快感だった。
「あぁ、これは……」
思考が溶ける。重力が消失する。 貴仁という個体識別IDが、無限に広がるネオンの回路へと拡散していった。 灰色のループが終わる。そして、永遠の0秒が始まった。




