6-2:解読(デコード)
アキラの指が、油で粘つくキーボードの上を「走り」始めた。
(……最悪だ)
(……キーストロークが、深すぎる。物理的な『バネ』の反発が、非効率なノイズとして、思考に割り込んでくる)
彼がエデンで使っていた「触覚フィードバック・パネル」は、彼の思考と「同期」していた。彼が「A」と「思考」すれば、指が触れるか触れないかのうちに「A」が入力されていた。
だが、これは、違う。
これは、彼がピットにいた頃に触れていた、あの「旧時代の遺物」そのものだった。
(思考が、物理に、制限されている……!)
彼のタイピング速度は、エデンでのそれの、おそらく30%も出ていなかった。
だが、彼は、その「不快感」と「苛立ち」を、あの「不潔なパン」を飲み込んだ時と同じように、奥歯で噛み砕いた。
(……合わせるしかない)
(……この「非論理的」な「環境」に、俺の「論理」を、「最適化」させるしかない)
彼の背後で、ケイが、鋼色の義手を組んで、彼の手元を黙って見つめている。
アジトの「風景」が、彼の思考に、否応なく侵入してくる。
チカチカと明滅する、不安定な裸電球。
アジトに漂う、あの「腐った腕」の男が発する、苦痛に満ちた「うめき声」。
ケイが「解体」した、あの少年が、麻酔もなく「焼灼」された、その「肉の焦げる匂い」。
(不潔だ、不潔だ、不潔だ)
彼の潔癖症が、彼の「論理」を、内側から破壊しようとする。
(集中しろ)
彼は、自らの「レベル1電脳化」の機能を、エデンにいた時とは「逆」の目的に使った。
エデンでは、「外部」の「完璧な論理」と「同期」するために、インターフェイスを使っていた。
今、彼は、自らの「内部」の「論理」を、この「外部」の「混沌」から「守る」ために、精神的な「防壁」を、自らの脳内に構築した。
(ノイズ・キャンセリング、最大)
(嗅覚情報、遮断)
(聴覚情報、あの『絶叫』の周波数帯域を、フィルタリング)
彼は、自らの「生身の脳(レベル1)」が持つ「感情」を、彼がヴェクターから学んだ(と信じていた)「鋼鉄の意志」で、無理やり押さえつけていく。
アキラの「論理空間」が、再び、彼の思考に展開された。
だが、それは、エデンで知覚していた、あの「光の結晶体」ではなかった。
マザーの「欺瞞」を知り、ヴェクターに「裏切られ」て崩壊した、あの「瓦礫の山」だった。
(……関係ない)
(……瓦礫でも、動けばいい)
アキラは、ケイの「ジャンク・コンソール」の「非効率な処理能力(CPU)」と、彼自身の「瓦礫」の「論理(OS)」を、強引に「同期」させた。
そして、彼の「スレート」にかけられた「暗号」の「壁」に、対峙した。
(……これは)
アキラは、その「暗号」の「構造」を見て、再び、ヴェクター(・・・)への「憎悪」を新たにした。
ケイが言った通り、これは「マザー」の最高レベルの暗号化だ。
だが、それだけではなかった。
その「上」に、さらに「別の」暗号化が、二重に(・・・)かけられていた。
(……ヴェクターの、個人的な「暗号鍵」だ)
彼がオフィスで「報告」を送信しようとした、あの「プライベート・チャンネル」。
アキラの「送信」は、マザーによって「阻止」された。
だが、アキラが「証拠」を「スレート」にコピーした瞬間、マザーと(・・)ヴェクターは、アキラが「盗み出した」ことを「瞬時に」察知した。
そして、アキラが「廃棄物シュート」に飛び込む、あの「数秒間」の「間」に。
マザーとヴェクターは、アキラが盗み出した、この「スレート」の中の「データ」に対し、外部から「二重のロック」をかけていたのだ。
(……俺を「ヴァイラス」として「処理」するだけでは、足りなかったのか)
(……俺が、万が一「逃げ延びた」場合に備えて、この「証拠」を、絶対に「開示」できないように、ロックしたのか)
アキラが信奉した「理想の上司」は、アキラが「裏切る」ことすら、その「完璧な論理」で「予測」し、万全の「対策」を、すでに講じていた。
その「冷徹」な「先読み」こそが、アキラがかつて「尊敬」した、あの「0.043%のリスク」すら許容しなかった、ヴェクターの「論理」そのものだった。
「……ハッ」
アキラの口から、ケイが彼を嘲笑った時のような、乾いた「嘲笑」が漏れた。
(……やられた)
(……完膚なきまでに、「論理的」に)
「どうした、『エリート』様。お前の『論理』が、解けねえパズルにぶつかったか?」
ケイが、アキラの「嘲笑」を、即座に「揶揄」した。
「……ああ、そうだ」
アキラは、キーボードを叩く「汚れた手」を、止めた。
「これは、俺の『論理』の『師』が、俺のため『だけ』に、用意してくれた『卒業試験』だ」
(マザーのロックは、俺の「権限(ID)」を使えば、理論上は「裏口」から解除できる)
(だが、ヴェクターの「個人ロック」は、俺の「権限」では、解除できない)
(……正面から、破壊するしかない)
アキラは、自らの「瓦礫」の「論理空間」から、エデンで発見し、マザーへのハッキングの「鍵」として使った、あの「コード」を引きずり出した。
彼が捨てた「過去」。
ピットの腐臭がする「化石コード」。
「……『取引』の内容を、変更する」
アキラは、背後のケイに、振り返らずに言った。
「このロックを解除するのに、時間がかかる。……おそらく、数日だ」
「……はァ? てめえ、あたしらと『交渉』する気か?」
「その間、俺の『生命』を『保証』しろ」
アキラは、あの少年の「絶叫」を、意図的に「再生」した。
「……水だ。それも、『清潔』な、飲める『水』を、要求する」
「……」
「それと、あの『パン』とかいう『汚物』じゃない、最低限の『栄養』」
「……」
「そして、何よりも」
アキラは、あの血と膿にまみれた「ナイフ」の「感触」を、思い出した。
「……『清潔』な『布』だ。俺の『身体』を、拭くための」
彼の「潔癖症」は、もはや「エデン」の「完璧な白」を求めてはいなかった。
この「ピット」の「混沌」の中で、自らの「論理」を「正常」に保つための、最低限の「境界線」を、要求していた。
ケイは、数秒間、沈黙した。
そして、アジトの奥に向かって、怒鳴った。
「……おい! 誰か、備蓄から『浄水』と『レーション』、それと『一番マシな布』を持ってこい! ……この『クソ生意気なガラクタ(・・・・・・)』が、お目覚めだ!」




