第5章:現実(ローライフとジャンク) 5-1:汚泥(スライム)
(……非論理的だ)
(……重力が、存在している)
落下の最中、アキラの思考は、その一点にのみ集中していた。
エデンの「完璧な秩序」から、時速数百キロメートルで垂直に射出された彼の肉体。その感覚は、彼が知るシミュレーション上の「落下」とは似ても似つかない、生の「暴力」だった。
風圧が、彼の制服を拷問具のように締め上げ、ヴェクターの部下に焼かれた背中の傷口に、汚染された空気がナイフのように突き刺さる。
(不潔だ)
パルス・ライフルが焼いた彼の皮膚の匂い。その「有機物が焦げる」という非論理的な異臭が、彼の思考を鈍らせる。
彼は、自らが信奉した「白」の世界から、彼が最も忌み嫌った「混沌」の底へと、ただひたすらに落ちていた。懐に抱いた「証拠」だけが、彼が「論理的」な存在であったことの、唯一の証明だった。
そして、落下開始から正確に三分十二秒後。
彼の「論理的な予測」——廃棄物のクッション層に激突し、その衝撃で意識を失うか、あるいは即死する——は、最悪の形で裏切られた。
衝撃は、なかった。
代わりに、彼の全身を、生暖かく、筆舌に尽くしがたい「粘性」が包み込んだ。
(…………あ)
それは、固体ではなかった。
液状化した「廃棄物」と、長年降り積もった「汚染雲」の酸性雨が混じり合ってできた、巨大な「汚泥の海」だった。
アキラの全身が、その「汚物」のプールに、音を立てて沈み込んでいく。
彼の潔癖症が、思考よりも速く、絶叫を上げた。
彼の視界(ARディスプレイ)は、落下の衝撃でとっくに機能を停止していた。彼が頼れるのは、旧式の「生身」の五感だけ。
そして、その五感が、彼の「レベル1電脳化」された脳に、処理不可能なほどの「汚染データ」を叩きつけてきた。
(……匂い)
それは、匂いという記号ではなかった。
メタン。硫化水素。腐敗した有機物。錆びた金属。そして、彼が忘れたくても忘れられなかった、あの「ピット」の澱んだ空気の匂い。
エデンの「完璧な空気(酸素濃度20.9%)」に最適化された彼の肺が、その「毒」を拒絶し、激しく痙攣した。
アキラは、汚泥の表面で、もがき、咳き込んだ。
その瞬間、彼の口内に、その「味」が侵入した。
酸味。苦味。そして、化学的な「鉄」の味。
「——ッ、……う、……ぐ……ッ!」
彼の胃が、論理的な制御を無視し、強烈な拒絶反応を起こした。
彼は、今朝摂取した「完璧な」高効率プロテインバーを、その「完璧ではない」汚泥の海に、すべて吐き出した。
嘔吐。
彼がエデンに来てから、一度たりとも経験したことのない、非論理的で、屈辱的な「生体反応」。
(汚れた……)
(俺が、汚染された……!)
彼の純白の制服は、今や、その「白」を認識することすら不可能なほど、黒と茶色の「汚物」にまみれていた。
彼が信奉した「白」の「秩序」は、この「汚泥」によって、物理的に「凌辱」された。
背中の痛み、肺を焼く悪臭、そして全身を包む不潔な粘性。
彼の論理は、この「情報」を処理できず、パニック(フリーズ)を起こしかけていた。
彼は、自らが「ゴミ」の山に叩きつけられたのではなく、それ以下の「汚物」の中に「落下」したという事実を、彼の潔癖症が許容できなかった。
彼は、まるで赤子のように、その汚泥の上で、ただただ嘔吐し、咳き込むことしかできなかった。
彼が顔を上げると、そこには、彼が愛した「エデン・ブルー(#74B9FF)」の空はなかった。
見上げても、そこにあるのは、分厚く、重く、よどんだ「汚染雲」の「天井」だけ。そして、その遥か上空に、まるで神々の住処のように、エデンの「底部」が、冷たい金属の光を放って浮かんでいる。
(……ここが、ピット)
彼が捨てた、過去の、本当の「底」だった。




