黒花が告げる別れ
穏やかなお話から一変し、初めて漆黒の魔物と対峙します。
何時間、こうして星を眺めていただろうか。
すごく長い時間だったかもしれないし、思っていたほど時間は経っていなかったのかもしれない。
流れていく星の数が騒がしいほどに多かったことに反して、流れた時間はとても静かだった。
バラッドの隣にいると安心する。気づけばずっと二人して無言で遠くの空を見つめ続けていた。
最初は盛大に流れていた星々にもその終わりが見えてくる。
小雨のようにはら、はら、と星々まばらにが落ちていくその光景に一縷の切なさを覚える。
この時が、終わってしまう。時間はいつだって過ぎるもので戻ってくることなんてないけれど……。
あまりにも鮮烈で美しい光景だったからだろうか。いつもよりも、特別名残惜しい夜だった。
だから、この光景をできる限り鮮明に記憶しておきたかった。目を閉じて瞼の裏で星々の残像をなぞってみる。
あぁ、いい夜だと感慨を伝えるべく、この光景をくれたバラッドにお礼をと隣を見た。
彼は、また遠いところを見ていた。まばらに落ちる流星のそのさらに先の暗い夜空を見ている。
感情の読めない、焼けた硝子のような透き通る赤い瞳。昼の暑さと比べると涼しい風が時折、音もなく僕らの間をすり抜けていく。
ねぇ、どこを、何を見てるの。と言いかけた言葉をいつものように飲み込んだ。
聞いてみても、何でもないとだけ返されるんだろうと予想ができた。彼の中にあるその、核心のようなものは親友であれ、付き合いが深く長くあれ、決して明かされることもない。
だけれど、そのどこか憂いすら帯びた核心の中には「僕」という存在が多く含まれていると確信めいて思えていた。
だから聞けなかったというのもある。聞いてしまうことで、何かが、この時が脆く壊れそうな予感がして理由もなく怖かった。
戻ってきてという意味も込めて彼の名を呼ぶ。
「バラッド!」
はたと瞳にいつもの光が戻り、こちらを見る。いきなり大きな声で呼んだから、何度も呼ばせたかもしれないと思ったのだろう。
「あぁ、ごめんな。考え事してた。何?」
「ありがとう!いい夜だった!多分忘れないと思う、それくらい綺麗だった。」
「そうか、ならよかった。」
兄のような満足そうな笑顔。これもよく見せる顔だった。僕が楽しそうにしていると無条件にバラッドも幸せそうだった。
「名残惜しいけど、もうそろそろ村へ戻る?流星群、もう落ちついてきたみたいだし。」
「そうだな。あんまり遅いとオラトリオの母さん心配するだろ?」
「からかわないでよ。もうそんな感じじゃないし。母さんの癖みたいなものだよ。口では心配するけど、実際割と大丈夫だと思ってるから。」
バラッドはイタズラっぽく笑う。彼がいつもの調子に戻ったことに安心し、二人で崖を下ろうと立ち上がった時だった。
突如、吹いた風の中に酷く胸をざわつかせる気配が混じった。こちらに向けられている明確な殺意。本能的に何か恐ろしいものが迫っている感覚で背中が総毛立つ。後ろだ、と気づいたが、わずかに振り返ろうとするくらいにしか反応できなかった。目視もできない速度で何かが飛びかかってくる。
「……っ!!オラトリオっ!!」
バラッドの顔に絶望や焦燥が滲み、必死にこちらに手を伸ばしてくるのが見えたけれど、左の肩口に何かが食い込む痛みがあり、そのまま後ろからの衝撃に押されて前のめりに倒れ込む。悲鳴を上げる間もなく、緩やかな傾斜になっていた眼前の崖を数メートル転がり、木の根元に強かに背を打ちつけて視界が暗くなる。
そのまま気を失いそうになった僕の耳に、獰猛な獣の唸り声が聞こえ、こちらへと疾駆する足音が聞こえる。このまま気をやっては駄目だと生存本能が警鐘を鳴らし、痛みの中から辛うじて意識を繋ぎ止める。
目を開けて相対したそれは真黒の犬か狼のような影だった。灰色の昏い光が二つ目で獲物を吟味するようにこちらを見ている。
教えられなくても、今まで実物を見ていなくても分かる。あれが「漆黒の魔物」と呼ばれるものだ。なぜ今更この村に、このあたりには出たことなかったのに、と酷く混乱した思考が頭を埋め尽くす。
違う。絶対に安全な場所はないと分かっていた。だから僕は身につけなくてはと思ったんだ、誰かを守れる力を。
今はそれよりも目の前の状況をなんとかしなければ、でも今の自分は丸腰だ。そもそも戦うための心得も技術もない。どうしたらいい?素手で倒せる相手なのか?とにかくと体勢を立て直そうと膝をつくも、打ちつけた腰の痛みと負傷した肩の痛みで体がうまく持ち上がらず、その場にグシャリと膝をつき、体勢を崩す。
僕の頭の中がぐるぐると生存を思案する間にも、僕を仕留めんとする殺意は確実に迫ってきていた。喉笛をめがけてその牙迫る。さっきは振り向こうと体勢を変えたため、偶然急所がズレて喉を噛みちぎられずに済んだだけだと、鋭く昏い瞳が言っている。次は確実に喰い殺される。
せめて何か抵抗をと、手探りでそばに落ちていた少し太めの木の枝を握る。これだけではどうにもならないだろうけれど藁をも縋る思いだった。
魔物が迫り来る。構え直そうとした僕の視界を、突如黒いマントが遮る。
「燃えろ!!!」
耳慣れた声が耳慣れない荒い音を吐き出す。前に向かって叫んだバラッドが、素早く背後の僕へ振り向き、呆気に取られる僕を抱え上げ、横に飛ぶ。僕がさっきまでいた場所には、蒼炎に焼かれ、木に激突した獣が倒れ、恨めしそうにこちらを見ていた。
「バラッド、それ、魔法……。」
この世界で魔法は素質のあるものしか使えない。大気中の魔法元素を取り込み、体外へ出力する身体機能が備わっている必要があるからだ。知らなかった。バラッドが魔法を使えること、その適性が焰を操るものであることも。
「オラトリオ!!大丈夫か?」
僕の零した疑問符よりも容体の方が重要だと、バラッドは僕を座らせ、即座に肩の傷口を確認しマントをちぎって止血をする。
その後ろで、瀕死の獣がこちらへ向き直っているのが視界に入る。バラッドは気づいていない。
「バラッド!後ろ!!」
急いでバラッドを庇おうとするも、逆にバラッドに抱き込まれる形で庇われる。彼の体越しに爪が肉を割く感触が伝わる。
「ぐっ……。」
バラッドが低い呻きを上げるが、なおも僕を庇って離そうとしない。獣はバラッドにもう一撃加えようとその爪を再度振りかぶる。このまま庇われているだけなのか?バラッドを失うかもしれないのに?
「嫌だ!バラッド!!離して!!ねぇ!!」
無言のバラッドは僕を抱く力を一切緩めない。嫌だ。このままじゃバラッドが。僕は守りたい。大切な人を守りたいんだ。
火事場の馬鹿力だったと思う。普段は力の強さでバラッドに敵うことがなかった僕が、咄嗟にバラッドの腕を振りほどき、バラッドの肩を掴んで前のめりに引き自分の後方へ倒す、と同時に獣の前に踊り出た。思考よりも早く負傷した痛みも忘れて体が動く。自然に意識と動作が流れるような不思議な感覚だった。
右手に持った枝をくるりと逆手に持ちかえ、獣に向かって振り上げる。そのほうが攻撃速度が速いと無意識で判断している。薙いだ枝の軌道にまるで暁光のような輝きが閃く。
一閃を正面から受けた獣が、光にかき消されるように断末魔を残して消滅した。
気づくとただの枝が、僕の右手で輝いている。これは……。
「オラトリオ、お前……。これは……これが……」
バラッドが酷く動揺して何か言いかけようとして口を噤んだ。
「バラッド、この力、僕、もしかして……。」
たくさんのことが一気に起こりすぎて、何から話すべきか、どう頭を整理して良いか思考が追いつかない。
けれど、僕に勇者としての素質が備わっていること、バラッドが焰魔法の使い手であることを、この時初めて知った。枝に宿った光が少しずつ小さくなり収まっていく。
目の前の魔物を退けたことで少し気が緩んだ僕らの意識は、崖下の村で上がった火の手と悲鳴に、再び緊張状態へ引き戻された。
人型をした漆黒の魔物が徘徊する様子と、逃げ惑う人々の姿が見える。この時がきてしまった。村が襲われている。
バラッドも僕も焦って村の方へ帰ろうと走り出そうとしたけれど、二人してばたりとその場に倒れ伏した。傷のせいだろう酷く体が熱かった。多分発熱している。隣のバラッドも状態は同じようだった。先ほどの獣型の魔物が毒を持っていた可能性が高い。
父母や村の人たちの顔が心に浮かぶ。這ってでも村へと手を伸ばし、草や土を掴んで前進しようとしたけれど、うまく力も入らなければ、動くこともままならない。
せめてもと上げた頭、その目が捉えたのは周囲の白百合が黒へと塗り替えられていく絶望的な光景だった。あれも漆黒の魔物なのか。
「……!!」
おぞましさと絶望に思わず息を呑む。炎によって崖下から巻き上げるような旋風が吹き、黒い花びらが眼前に舞い散る。
「だめ……だ、村が……みんな、を……助け……ないと………」
噛み締めた唇の端から漏れた言葉。言葉は前に進みたがっても、体は言うことを聞かず動かない。
隣のバラッドも目を閉じたままピクリとも動かない。彼の生死すら確認できない。
「バラ……ッド……。」
助けたいものが、守りたいものが、ずっと続いてほしい日々がこんなにもあるのに。
この手でその全てを守り抜きたいのに。気持ちに反するように、僕の意識はそこでぶつりと途切れて落ちた。
幸せな時が終わって、旅が始まります。
悲しいことばかりではないけど、悲しいことも多い旅になると思われます。
今は決して強くない彼らの成長を、今後も見守ってやっていただけますと幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。




