お母さんの言う通り
「はい、今日分のメモね。ちゃんと読んで、このメモ通りにするのよ。いってらっしゃい」
そう言ってお母さんは僕にノートをくれた。僕はお母さんからノートをもらい、いってきますと言って玄関を出る。僕は玄関の前でノートを開き、今日の日付が書かれた所を読み始める。
『7時50分ちょうどに家を出て、歩いて学校へ向かう。寄り道や回り道はしない。7時55分ごろ、犬を散歩中の飯島さんのお母さんとすれ違うので、きちんと挨拶を行う。信号を渡るとき、赤信号の場合はきちんと立ち止まって、青信号になってから渡る。その時はきちんと右を見て、左を見て、もう一度右を見てから横断歩道を渡る。
8時ごろに学校に着くが、今日から風紀強化週間で校門に生活指導の先生が立っているので、一つ前の曲がり角でズボンが低くなっていないか確認する。校門を抜ける時は生活指導の先生に大きな声で挨拶をする』
とりあえず学校に着くまでのメモを読んだので、僕は歩き始める。お母さんの言う通り、7時55分ごろに飯島さんのお母さんとすれ違ったので元気よく挨拶をする。信号は赤信号だったから、きちんと立ち止まる。青信号になった後、右を見て、左を見て、もう一度右を見てから横断歩道を渡った。
そして、8時ごろに学校に着いて校門を抜けようとした時、僕のポケットに入っていた携帯が鳴る。僕は立ち止まって電話に出ると、お母さんは電話越しに「一つ前の曲がり角でズボンの高さをチェックしてないわよ」と言った。お母さんは僕の持ち物にカメラ、マイク、それとGPSをつけてくれているので、たまに僕が間違ったことをすると、こうやって教えてくれる。僕はごめんなさいと言って一つ前の曲がり角まで戻り、ズボンの高さをチェックする。それから改めて校門をくぐって生活指導の先生に元気よく挨拶をした。
「太田くん、おはよう!」
学校の下駄箱。偶然同じ時間に登校してきた同じクラスの浅田さんから声をかけられた。僕はしまったと思いながらノートを取り出し、急いで内容を確認する。
『下駄箱でクラスメイトから挨拶された時は、元気に挨拶を返す』
僕はノートから顔をあげ、浅田さんにおはようと返す。浅田さんはにこりと笑って、そのまま一人で教室へと歩いて行った。
『一時間目の算数。算数の問題について、先生が、誰かわかる人?とみんなに聞く。その問題が昨日の夜にお母さんと一緒に解いた問題と同じ問題だった時だけ、手をあげること』
お母さんのメモ通り、先生がとある問題について、わかる人がいないか聞いてきた。その問題は、昨日お母さんと解いた算数の問題と同じ問題だったから、僕は手を挙げた。先生に指名され、僕は黒板の前に立って答えを書く。先生は満足そうに頷いて、よくできたなと褒めてくれる。
二時間目、三時間目も僕はお母さんのメモ通りに行動する。給食を食べ、午後の授業が終わり、放課後。帰りの準備をしていると、クラスメイトの高橋くんから一緒に帰ろうと誘われる。僕はちょっと待ってと言ってからメモを確認した。
『放課後は持って帰るものをカバンに入れ、お家に帰る。教室を出る前に引き出しの中を確認すること』
メモを読みかえした僕は顔をあげ、高橋くんにごめんと謝った。
「ごめん。昨日と違って、高橋くんと一緒に帰るって書かれてないから一緒に帰れない」
高橋くんはまたかよと不機嫌そうに口を曲げる。それから、そんなんだったらもう誘ってやんないぞと言って、他のクラスメイトと一緒に教室を出て行った。
僕は一人で学校を出て、お家まで帰って行った。下校中。誰もいない通学路を歩いていると、道に知らないお爺さんが腰に手を当てながら道端に座り込んでいた。僕はメモを読み返す。そして、下校中に道端に座り込んでいるお爺さんに話しかけるとは書かれていなかったので、僕はお爺さんを無視してそのままお家へ帰った。
「おかえりなさい。それじゃあ、今日の振り返りをしましょう」
お家に帰るとお母さんが笑顔でそう言ってくれる。僕は手を洗ってリビングへ行き、お菓子と麦茶が用意されているテーブルに座った。お母さんが隣の椅子に座り、今日の僕がいい子だったのかどうかの振り返りを始める。
「まず、朝に校門の一つ前の曲がり角でズボンのチェックをしなかったのはダメだったわね。ちゃんとメモを読んでいたのに、忘れてたの?」
「ごめんなさい」
「ちゃんと気をつけてね。あと、下駄箱で浅野さんにおはようと声をかけられた時もダメ。ちゃんと下駄箱でどうするかと言うところまで前もって読んでいればもっとすぐに挨拶を返せたと思うわ」
「ごめんなさい」
「ただ、授業中はきちんとお母さんのメモ通り行動できてえらいわ。それに放課後に高橋くんから一緒に帰ろうと誘われても断ったのはいいことだとお母さんは思う。高橋くんは乱暴で口の利き方も悪いから、これからは少しずつ関わりを減らしていきましょうね。それから放課後に道端にいたお爺さんだけど……」
僕はお母さんの顔を覗き込む。お母さんは怒ったり残念がったりはせず、むしろ誇らしげな表情を浮かべていた。
「これもちゃんと話しかけずにいたのはえらいわ。そのお爺さんが変な人だったら、ケンちゃんが危ない目にあっていたかもしれないんだから。本当に誰かの助けを必要としていたのかもしれないけど、ケンちゃんが助ける必要はないわ。別の人が助けてあげたと思うことにしましょ」
お母さんは今日もいい子でいたわねと僕の頭を撫で、それから僕のことを後ろから抱きしめてくれた。そして、大好きよケンちゃんと言いながら、僕の耳元で囁く。
「お母さんはね、ケンちゃんが世界で一番大好きだし、ケンちゃんのことが心配で心配でたまらないの。ケンちゃんの身に何か起きたら、お母さんはきっとどうにかなっちゃう。だから、ケンちゃんが危ない目に遭わないように、お母さんのメモ通りに動いて欲しいの。わがままなお母さんで本当にごめんね」
僕はお母さんを抱きしめ返す。お母さんはわがままではないし、僕もお母さんのことが大好きだよ。僕がそう言うと、お母さんは嬉しそうに微笑み、さらに強く抱きしめてくれる。僕はお母さんの温もりを感じながら、机の上に広げたままのメモを一瞬だけ見るのだった。
『帰宅後、お母さんと二人で一日の振り返りを行う。その後、お母さんがわがままなお母さんでごめんなさいと言いながら抱きしめる。僕はお母さんを抱きしめ返し、お母さんはわがままなお母さんではないし、僕もお母さんのことが大好きだよと言う』
それからもお母さんは毎日僕のためにメモを作り、僕はそのメモ通りに行動した。そんな生活が何年も続き、僕は小学校を卒業し、中学生になり、高校生になった。だけど、ある日のこと。その日のメモに『お母さんから自分が末期がんで余命一年だと告げられる』と書かれていた。
「実はね、病院で末期癌だと診断されたの。もってあと一年くらいしか生きられないって」
お母さんがあと一年くらいしか生きられない。その事実を聞かされた僕は改めてメモを見て、自分が取るべき言動を確認する。
『お母さんから余命一年だと告げられ悲しさから涙を流す。そして、お母さんと抱き合い、お互いの愛を確認し合う』
僕はメモ通りに涙を流した。今まで何度もやったことがあるので、涙を流すのはそれほど大変ではない。僕とお母さんは抱きしめ合い、お互いの愛を確かめ合った。
それから慌ただしい毎日が過ぎていき、それと同時にお母さんの病気も進行して行った。そしてお母さんから末期がんを打ち明けられてからちょうど一年後。お母さんは病院で安らかに息を引き取った。
死後の事務的なことは叔父にやってもらうことになり、僕は一人でお母さんのいない家へと帰った。僕はお母さんから渡されたメモを確認する。メモには今日お母さんが死ぬこと、そして家に帰った後に取るべき行動が書かれていた。
『家に帰り、二階にあるお母さんの部屋に行く』
僕は二階にあるお母さんの部屋へ行った。今までお母さんの部屋に入ると指示されたことがなかったので、この部屋に入るのは初めてだった。僕はドアノブを回し、中にはいる。部屋の真ん中には一つの小さな勉強机があり、壁一面には本棚が置かれていて、どの棚にもびっしりとノートが収納されていた。
『部屋に入ってすぐ左にある本棚の二段目の、左から十冊目にある明日のメモを取り出す』
僕はメモの通り、すぐ左にある本棚の二段目からノートを取り出す。本棚の各段には仕切り板が所々差し込まれていて、二段目の仕切り板には2024年という文字が書かれていた。ノートを取り出し、中を確認すると、そこにはお母さんが死んだ次の日に取るべき行動が同じように書かれていた。
『お母さんが自分のために残してくれた膨大なメモをざっと確認していき、このメモを作るのがどれだけ大変だったのかについて想いを馳せる』
僕は部屋を歩き回り、本棚にある膨大なメモを見ていく。僕は時々ノートを取り出し中身を見ながら部屋の中を一周する。そして、一番最後のメモの部分まで到着し、そのノートが収納されている仕切り板が2036年となっていることに気がつく。つまり僕がちょうど三十歳になるころに、メモが終わっている。僕は最後のノートを取り出し、一番最後のメモを確認してみた。そこにはいつもと同じように、朝起きてからの細かい行動が書かれていて、そして、その最後はこんな一文で締めくくられていた。
『母親の喪失感に耐えきれなくなり、母親の写真を抱きしめながら、首を吊って自殺する』
僕はノートを元の場所に戻す。そして、僕はこのメモを作るのがどれだけ大変だったのかについて想いを馳せる。それから次の行動を知るため、メモを確認した。
『お母さんの愛を実感し、その場で泣き崩れる。明日以降もお母さんのメモ通りに行動することを誓う』
僕はメモ通り、残されたメモを抱きしめながらその場で泣き崩れた。そして、これからもメモ通りに行動することを誓うのだった。