第7話 おにいちゃん/五百万
昨日から、俺の周囲の状況が激しく動きすぎて、戸惑う。
木林いのり、田中みかん、月島弥生。
現在俺の頭の中は、この三人のことばかり考えてしまうくらいに混乱している。
家族が再びいなくなってしまったこともあるし、俺は現実から逃避したがっていた。かといって特にするべきことも思い付かず、みかんの家に行くのも迷惑だと思ったので、制服ブレザーのまま公園の木製ベンチに座ってボンヤリと世界を見ていた。赤や黄色に色付き始めた葉っぱを眺めて心を落ち着ける。
めっちゃ綺麗――。
もみじもイチョウも非常に鮮やか。
突然、俺の体が震えた。寒さで震えたのか、寂しさとか悲しさで震えたのか、わからなかったけど、きっと寒さで震えたんだろう。
昨晩みかんの家で充電した携帯電話を懐から取り出して見つめる。時刻はもうすぐ午後の四時になる。
家族から連絡が来たりしないかな、とか、起こるはずの無い奇跡を願う俺。もう自分で言うけど、俺ってすごい可哀想だよね。
と、白い溜息を一つ吐いた時、突然、俺の携帯が震えた。非通知設定と表示されていた。
「んん?」
なおも震え続ける携帯。電話だった。もしかしたら、父や母や姉からの連絡だろうか。
何らかの理由で非通知にしなけれなならない事情があるとか?
俺は、少し躊躇った後、通話ボタンを押した。
『もしもし、おにいちゃん?』
おにいちゃんだと?
しかも女の子の声だ!
「え、ええと、どちら様ですか?」
『おにいちゃん、たすけて』
どういうことだ?
一体何なんだ?
誰かの悪戯?
俺のことをお兄ちゃん……と呼んだな……。つまり、今まで知らされていなかったが、俺には妹がいたということか。そしてその妹が、俺に助けを求めた……?
『おにいちゃん、たすけ……あっ――オイ、聞こえたか? オニイチャン』
電話の声は、途中で突然、野太い声に変わった。
『妹はあずかっている。返してほしいか?』
何年間も俺を放置して、そしてまたいなくなってしまった両親のことだ。実は知らない間に妹が産まれていて、俺と似たような境遇で育った可能性がある。
というより、危険な仕事をしていた両親が消えたというタイミングで掛かってきたこの電話という事実。俺に妹がいたと考えるのが自然だ。そして、その妹がピンチなんだ。
「目的は、何だ」
精一杯、強そうな声を出す。
『金だ』
そうだろうな、とは思ったさ。まったく、最低の輩がいるものだ。しかも俺の妹に手を出すとは……。
『おにいちゃん。ボク、こわいよ』
再び、妹の声が聴こえた。
「大丈夫だ。俺が何とかしてやるから」
『本当に?』
「ああ、本当だ」
『本当に本当?』
「当り前だろう? 妹が危ないんだ。何をしてでも助けてやる」
『ボクね、高級車に自転車で激突しちゃったんだ。それで、高級車がオシャカになったらしくて……オトシマエをつけなくちゃいけないの。それに必要な金額が、五百万』
五百万!
なんという天文学的大金!
『だから、一時間後電話する時までに、五百万用意してくれないと、ボク……ボク……』
殺されるのか?
売り飛ばされるのか?
どちらにしても、そんなこと、させるわけにはいかない!
妹を見捨てるなどというのは、兄として最低最悪の愚行!
「わかった。一時間後に、五百万だな……? 何とかする」
『ごめんね……ごめんね……おにいちゃん』
そして、通話は終了した。
「やばい……」
何とかする、とは言ったものの、一時間で五百万円を稼ぐ方法なんて、思い付かない。
というより、不可能……なんじゃないか?
いや、しかし、妹がピンチなんだ。
「…………」
財布を開けてみたところ、あまりの寂しさに言葉を失った。
二百十円だと……。
コンビニ弁当も買えないぞ、これじゃ……。
他に何か持っていないものかと鞄の中やポケットの中をさがす。
「ん?」
何か冷たいものに触れた。取り出してみると、それは、ミカンだった。俺は、とりあえず、そのミカンを食べることにした。甘いものを食べると、普段より頭が回っている気分になるからだ。
そうだ。みかんの家に置いてある荷物の中に、通帳があるはずだ。父親が生活費として財産を残してくれていたはずだ。五百万なんて大金は入っていないとは思うが、少しでも金を払えば、妹の命だけは助けてもらえるかもしれない。
まずは残高を見てみよう。絶望するのはそれからだ。
★
みかんの家に行き、大きな鞄から銀行の通帳を取り出すと、すぐにみかんの家を出て、鍵を閉めて早歩き。
まだ通帳は開いていない。残高を確認する勇気が無かったのだ。もし話にならないレベルで足りないようなら、妹を救えない。
思えば、銀行になんて行ったことなかったな。ちゃんと手続きできるんだろうか。
焦りと不安で、重荷を背負いながら追い立てらている気分だった。
しばらく歩き、銀行ATMが見えた頃、電話が掛かってきた。唸る携帯。またしても画面に浮かび上がる『非通知設定』という五文字。
妹は一時間後電話すると言った。しかし時刻は午後四時二十分。まだ一時間は経っていないぞ。三十分以上も余裕があるはずだ。
だが、この電話を無視することで、妹の身に危険がせまる可能性がある以上、通話ボタンを押すしかない。
「もしもし」
『あ、おにいちゃん。ボクだよ』
やはり妹か。
『お金……準備できた?』
「まだ確認していないからわからないが……」
『とにかく、ある分だけでも振り込んでくれれば……』
「もちろんそのつもりだ!」
『銀行……ねえ、普段どこの銀行を使ってるの?』
「ホニャララ銀行とか書いてあるな……」
『じゃあ、電話を切らずに、駅の構内にあるホニャララ銀行のATMの前に行って』
「ああ、わかった」
幸いにして、駅の近くにいた。
「すぐ着くからな。待っていろ」
『うん』
妹の安心したような声が聴こえた。これでもしも通帳にも五百円くらいしか入っていなかったら、妹はどうなってしまうだろうか。間違いなく酷い目に遭うことだろう。もしもそうなってしまったら、それは……俺のせいだ。
「着いたぞ」
無人のATMの前に立った。人通りの少ない場所にひっそりとあるATMだ。機械音声が、いらっしゃいませ、と言った。
『うん。おにいちゃん……ありがとう』
「礼を言うのはまだ早い」
『そ……そうか……そうだね』
俺はとりあえず、キャッシュカードを入れて、残高を確認する。驚いた。桁を指差しで数えてみると、なんと、五百三万二千円が入っているではないか。
これで、妹を救える!
タッチパネルの『取り消し』と書かれた場所を押すと、機械が、ありがとうございました、と言って、キャッシュカードを吐き出した。
「それで、どうすればいいんだ?」
『僕の言うとおりにしてね』
「ああ」
『まず、キャッシュカードを入れて下さい』
言う通りにした。
『それから、振込みっていうところを押して』
「ああ」
ふと、真横の壁に貼られたポスターに大きな字で、『振り込め詐欺を撲滅しよう』という文字が躍っているのに気付いた。それから、手元のあたりにも、特殊詐欺への注意喚起をする文字列が並んでいる。
「……これ、振り込め詐欺じゃないよな?」
訊いてみたところ、
『きゃあ! ボコッ! だめ! 痛いよ!』
妹の叫び声と、ヤバそうな音が響いた。殴られたのか?
くそぉ、よくも俺の妹を殴りやがって。とにかく、やっぱりヤバイ状況らしい。
「おい、大丈夫か?」
『はぁはぁ……はやく……振り込んで、お願い』
「わかった、妹よ、次はどうするんだ?」
俺は、液晶タッチパネルの、『振込み』という字が書かれた場所に触れた。
『口座から振り込む、っていうところを押して下さい』
「おう」
『そうしたら、ホニャララ銀行の大東京支店、普通預金で』
「ああ」
言われた通りに操作して行く。
『口座番号言いますよ』
「ああ」
そして、妹の言う通りに番号を入力した。
画面は金額入力画面に移行し、俺は躊躇わず五百万を振り込む操作をする。五百万がそうそう稼げない大金だということは知っているつもりだ。だが、今、妹を助ける方法がこれしかないんだ。人命とマネーを天秤にかけたら、後者を乗せた皿が跳ね上がるのは自明のこと!
暗証番号入力画面になった。機械が四桁の数字を求めている。俺は番号を入力する。液晶画面に『****』と表示された。『完了』と書かれたボタンを押す。
また画面が切り替わり、確認画面が表示された。
「えっと、口座名義人が、サギヤマサギタロウ……でいいのか?」
『はい、オッケーです。おにいちゃん』
俺は『振り込む』と書かれた場所を押す。
振込人名を記入する画面が出た。
きっと相手は悪の組織。であれば、本名を知られるのはまずい気がする。とりあえず、『オニイチャン』と入力した。するとまた確認画面になる。『完了』と書かれた場所にタッチ。
『手続き中→→→』
という画面になってから数秒して、明細書を発行するかどうかの画面になった。一応発行しておこう。大金だからな。
ありがとうございました、という機械の声と共に、明細書が出てくる。はっきりと、五百万を振り込んだという証拠が刻まれていた。
「振り込んだぞ」
『おにいちゃん! ありがとう!』
「当り前だろう。俺はお前のお兄ちゃんなんだから」
『よし、妹は解放する。絶対に警察には言うなよ。言ったらお前の妹は……』
再び野太い声。
最後の最後まで脅迫してくるとは、最低だな。
「わかっているさ」
『ありがとう! おにいちゃん!』
その声を最後に、通話は終了した。
よかった。名も顔も知らぬ妹が助かって本当によかった。
ただ……俺は、これからどうやって生活していけばいいのだろうか。もともと五百万は、父が残してくれた五年分の生活費だったはずで……。
いや、今はそんなことは考えないでいい。妹を救った喜びに浸ろうじゃないか。できれば、会いに来てくれると嬉しいぜ。
そんなことを考えた後、さすがに所持金二百十円では、何もできないので、三千円を引き出して財布に入れ、銀行を出た。