第4話 みかん/ミカン
俺は、田中みかんに自分の今置かれている状況を話した。家族と一緒に過ごせなかった、俺の複雑な半生ってやつだ。話し終える頃には、一箱分のミカンが。俺とみかんの胃袋の中に消えていた。
「きゅぴーん! 閃いたよ。つまり、結城アキラはホームレスになったってことね?」
遠まわしに言ったはずなのに、こんな時ばかりは変化球に対応してくるとは、侮れない娘だ。
「そして、アキラちゃんのお父さん達が危険な仕事をしていて、それにアキラちゃんを巻き込みたくないから出て行ったわけだ」
「どうやらそうらしい。俺としては、学校もあるし、この街にいたいんだが……」
「なるほどなるほど」
ありえないような話を信じてくれる。そんなみかんの存在が嬉しい。
俺は、また新たなミカンを手にとって、皮を剥く。じっと田中みかんに見つめられながら。
「アキラちゃん」
不意に彼女が真面目な声で俺を呼んだ。
目を合わせた時、彼女は言った。
「とりあえず今日は、ここに泊まりなよ」
「ええっ?」
「あたしのことなら気にしないで」
「気にするなという方が無理だ!」
「え、なんでよー」
だって、俺は、みかんのこと、かなり好きだから。
背が小さくて、胸も小さくて、可愛くて、茶色っぽいくるくる髪で、くりっとした綺麗な目をしていて、いつも柑橘系の少し甘い香りがしていて、恋のような感情を抱いていた。
「そう、俺は、みかんのことが好きなんだ」
気付けば告っていた。
俯きながら返答を待とう、と思っていたのだが、みかんは思いのほかあっさりと言葉を発した。
「そうでしょう? だからほら、ちょうどいいじゃん」
え、どういうことだ。それはつまり、みかんも俺のことが好きだということか?
「いくらでも食べていいんだよ?」
んん?
それはつまり、田中みかんのことじゃなくて、果物のミカンのほうを話題にしているということかよ。なんかもうややこしいよ。折角なけなしの勇気を出して告白したというのに、果物のミカンに告白したことになっているって話で……。ショックすぎる。
「ほんと助かるよ。あと二十箱くらいあるから、どんどん食べて」
やさしい微笑みを浮かべながら、みかんはミカンを差し出してくる。
「……はい。いただきます」
俺は、皮を剥いた果物のミカンを丸ごと口に運んでやった。
たまたま酸っぱいミカンだったから、少し泣きそうになった。
★
夜が深まり、俺はミカンを食べ続けながら、これからのことを考えていた。
田中みかんの家にいつまでも居座り続けるわけにはいかないだろう。彼女は女の子で、俺が男の子であるということも問題だ。おかしな噂が立ってしまうのも迷惑だろうし、今日一日はお世話になるとしても、明日からは別の場所に寝泊りすることにしよう。
みかんという名の女の子は、もう自分の部屋へ行き、就寝している。
果物のミカンの皮が散乱するリビングの惨状を眺めつつ、今日あった出来事を思い返す。
今朝は、朝六時に起床して、家族四人で朝食。落ち着いた食卓だった。デザートにミカンが出たこと以外は普段と同じで、何もおかしなことなんてなかった。十一月の少し肌寒い空気の中を登校して、授業を受けた。これもいつも通り。いつもと違ったのは、放課後に担任の片岡梨々子先生に呼び出されて、職員室に連行されたことくらいだ。
あ、そういや思い出したぞ。英語の宿題をやって行かないとな。
五行の英語翻訳だったか。
俺は重い鞄の中からノートと筆記用具を取り出す。梨々子先生の出した宿題を片付けてからミカンの香りに包まれながら眠ることにしようと思った。しかし、その計画は、いきなり暗礁に乗り上げることとなる。
「あ、辞書……」
もう自宅じゃなくなったあの家に、辞書を置いてきてしまった。理由はもちろん、重すぎるからだ。電子辞書なんてものも持ってないし、まさか必要になるとは思わなかった。
俺は、みかんの部屋の扉を叩いた。
「…………」
ノックしてみたけど返事が無かった。
「は、入るぞ……」
ドアノブを回す。
眠っている女子の部屋に入るという、最低にして最高なシチュエーションだ。しかし俺には今、どうしても辞書が必要なんだ。
部屋の中は暗かった。
うわぁ、やばいこれ、なんかすっごいドキドキする。
「すー、すー」
可愛い寝息を立てるみかん。甘い感じの、とても良い匂いがする部屋。
ダメだ。煩悩を振り払え。辞書だ。知力の象徴である辞書を掴み取るんだ。
「すー、すー」
ちくしょう、やめてくれ。寝息を立てないでくれ。鼓動が止まらん。
リビングから廊下を越えて部屋まで届く微かな明かりを頼りに、本棚から和英辞典と英和辞典を抱え、みかんの部屋を出た。風を立てるくらいの高速で。
ゆっくり静かに扉を閉めた。
「ふぅ、あぶないところだったぜ……」
再び冷たいフローリングの廊下を歩いて、リビングへと戻った。
すっかり水分を失った乾いたミカンの皮をまとめてゴミ箱に放り込み、テーブルを拭いて、勉強モードになる。
元々梨々子先生から出されていた英語の宿題とは、それほど難しいものではなかった。日本語で書かれた五行ほどの文章を、英語にするだけだ。教科書と辞書さえあれば、とりあえず形にはなるだろう。
俺は三十分ほどかけて、そのホームワークを終わらせると、白い壁に掛けられた時計に目を向けた。ちょうど日付が変わる時刻だった。
長かった一日がようやく終わる。
梨々子先生に呼び出され、木林いのりと会話して、石河開の家に行き、自分の家に戻ると家族が全員いなくなっていて、街を歩いているところで、田中みかんと会って、みかんの家にやって来た。
これから、というものが限りなく不安で、長い孤独の果てに手に入れた温かい家庭生活をたった一ヶ月で失った悲しみとか、ホームレスになってしまったこととか、色々なことがありすぎて、もう本気で疲れた。今は何も考えたくない。
そして俺は、ミカンの甘い香りがする部屋。そのふかふかのソファの上で、眠った。