第35話 戦いが残したもの/石河の秘密
弥生を置いて逃げることを選択した俺は、以前も座った公園のベンチに腰掛け、ホットなミルクティを飲みながら、いくつもの雲が流れていく青空を見つめていた。
いろんなことが解決したような気がするけど、未だ解決してない大事な何かがある気がして、ぼんやりしながら記憶の隙間について考え続けていた。
「なんなんだろうなぁ。何か、忘れていることがあるような……」
ふと、柑橘系のフレッシュな香りがして、横を見ると、いつの間にか隣に、木林が座っていた。ぎょっとした。
「き……木林……?」
「やあ、結城。ミカン食べる?」
何だ突然。不気味だ。
先日、木林みのりには、ものすごく酷い事をしてしまったから、会った瞬間に殴りまくられることくらいは覚悟していた。むしろ心ゆくまで殴られたいとさえ思っていた。それなのに、妙に柔らかい雰囲気で、あまりに不気味すぎる。
「食べます」
しかし、ミカンは大好物なので、食べるかと問われて断る理由は無い。
俺は木林からミカンを受け取って、皮を剥いて、食べ始める。甘い。
「結城は、さっきから何してるんだ?」
「特に何も。ボンヤリしてた」
「そっか。あたしも、一緒にボンヤリして良い?」
「構わないが……何かすごい違和感だな、本当に木林か?」
「ひどいわね」
「すまん」
そこで、しばしの沈黙が訪れる。
けれども、これは悪くない沈黙のように感じた。
もしかしたら、謝罪を促されているのかもしれない。
「ごめんな、色々と」
俺は、すべてをまとめて謝った。許してもらえなくても、俺にできるのは謝罪だけだ。
そしたら、彼女は言ったんだ。
「あたしさ、結城のこと、好きになったみたい」
え、おかしい。あまりにも予想外で、突然すぎる!
「何で!」
「そんな力いっぱい訊き返すのって、ひどくねえかな?」
「だ、だって、それはそうだろう。俺は木林の部屋に勝手に入って、勝手に手紙を開けたのに」
「ん? 何それ」
まったく思い当たらない、と言った様子で首をかしげていた。不審なものをみるような上目遣いで、こちらを見ている。どういうことだ。どうなってるんだ。記憶を失ったんだろうか。
「なあ、何言ってんだ、結城。手紙ってなんだ」
「……というか、今、みのりか? いのりか?」
「みのりだし」
「だよな。そのはずだよな……」
いのりはもともと俺に好意を寄せていたから、こうした言動をしても不思議ではない。だけど、木林みのりは、むしろ俺に負の感情をぶつけてばかりだった。
いのりとは逆のタイプで、いつも怒りっぽくて、俺を傷つける鋭すぎるナイフ系女子だった。俺を殴りつける木刀系女子でもある。
というか、そもそも、みのりは石河のことが好きだったはずだ。俺が盗み見てしまった手紙も石河あてだった。
そんな木林みのりが、俺のことを好きだとか言っている。信じられないが、からかっているような雰囲気も見えない。
「何か、おかしいか?」
「そうだな。とりあえず、珍しく大人しいなって……」
「す、す……好きな人の前なら、大人しくもなるわよ!」
おい嘘だろ。どうやら本気らしい。耳を赤くしたり、頬を赤らめたりなんかしている。
らしくないことに、もじもじして俯いたりしている。
「あ、あのさ、結城」
「なんだよ、みのり」
「キス」
「は?」
次の瞬間、強い力で頭を引っ張られ、突然に俺の唇は奪われた。
キス、されてしまった。
「んぅ」
喉を鳴らしながら彼女は離れた。
顔と耳を真っ赤にした、木林いのりの顔があった。
「……私、どうしたらいいの?」
こっちが全力で問いたい。どうなってる。
でも、みのりが変わってしまったことを訊こうにも、今の木林いのりには、ちゃんと答える余裕はなさそうだ。
ぽろぽろと大粒の涙を流し始めた木林いのりは、震えた声で感情を言葉にする。
「うれしいの。みのりがね、結城くんのこと好きになってくれて、うれしいはずなの。でも、これうれし泣きじゃない。なんで? 結城くんは、私の好きな人なのに……」
ハンカチを渡してやったものの、拭いても拭いても、次々にあふれ出して止まらなかった。
「大丈夫か?」
どう見ても大丈夫ではない。でも、どんな言葉を掛ければいいのか、人生経験の乏しい俺には、全く想像がつかない。
だから、もう黙って見守っていることしかできなかった。
「ごめんね、結城くん。わがままかもしれないけど、みのりのこと、好きにならないで」
「ええっと……」
答えに窮した。長い沈黙が続いた。やがて彼女は震えた声で、
「ねえ、結城くん。キス、してほしい」
「えっ」
「ごめんね。私たち変だよね。戸惑わせてるよね。でも、今は、私、外にいたくない。たぶん、ずっと泣いてしまうから……」
「あ、ああ……」
「……結城くん。お願いがあるの」
「俺にできることなら」
「私が言ったこと、みのりには言わないでね。絶対、何も、言わないでね」
「わかった。約束する」
そうしてベンチの隣に座る彼女は目を閉じ、綺麗な泣き顔を差し出してきた。
唇を重ねる。
キスをするしかなかった。彼女の細長い指先から湿ったハンカチを奪い取り、涙を拭きながら。
他にどうすればよかったのか、わかる人がいたら教えて欲しい。
目を開けた彼女は木林みのりになり、俺の顔を掴んで、突き放した。
いつも乱暴な彼女とはかけ離れた、どこか恥ずかしそうな表情で、甘くかすれた声で、
「キス、しちまったな」
嬉しそうだった。
数秒前の木林いのりは、絶望の色すら帯びた涙を流し続けていたというのに。
感情の振れ幅が乱高下しすぎて、混乱しかない。俺はもう、どこに心を置けばいいのやら、全くわからなかった。
「なあ結城、いのりは、何か言ってたか?」
「そう……だな。『うれしい』とか、『ごめん』とか」
何も言わないでとか言われたけど、このくらいは許されると思う。
「そうか。それだけか? 最近、その、何か嫌なことがあるとか、そういう悩みとか、相談されなかったか? あたしのこと、何か言ってなかった?」
相談された。思いっきり悩んでた。けど、いのりとの約束だ。伝えるわけにはいかない。
「なあ、お前さ、あたしと、いのり、どっちかを選べるとしたらさ、どっちと付き合いたい?」
いきなりぶちかまして来すぎだろう。木林みのりらしさなのかもしれないが、そんなの、答えられるはずがない。
互いに沈黙。目を逸らしたまま。
おい答えろやと胸倉を掴まれてぼっこぼこに殴られたとしても、こんな不器用で雑な告白にすぐに答えを出せるほど、俺の心は優秀じゃない。気持ちの整理をつける時間が永遠に欲しいくらいだ。
数秒だろうか、数十秒だろうか。
どう答えたらいいのか必死に考えながら、長いこと黙っていた。
やがて、居たたまれなくなったのだろう。木林みのりは勢いよく立ち上がった。
「な、なんか、ごめん! それじゃあ、あたし、用事があるから!」
みのりが走り去った後に、ベンチに残されていたのは、赤い網に入ったミカン五個だった。
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「……ってなことを、そんなことを木林みのりが言ってきたんだが……」
俺は、木林が置いて行ったミカンを手土産に、石河開の家に相談に来ていた。一通の手紙から始まった、ちゃんと家に帰るまでの物語を経た俺には、わけがわからないことがあると、とりあえず石河に訊きに行くという、一種のパターンみたいなものができていた。
相変わらずの物寂しい洋室。十八畳の広さを誇るフローリングの部屋で、ちゃぶ台を男三人が囲んでいた。
「その前に、記憶が消える前の木林みのりに、結城が何をしたのかが気になる。日々のメンテナンスの時にも、あんな極端に荒涼としてたり猛々しかったりする精神世界を、僕は見たことなかったからね」
「……あぁ、それは、あれだ。勝手に木林の部屋に入ってだな、木林の書いた他人あてのラブレターを手に取った。その場面を目撃された」
「うっわ……最低だな」
「ああ。最低なんだ。世界中から軽蔑されたい悪行だ。だけど、だからこそ、みのりがあの態度で、わけわかんなくてなぁ。どうも、その事件を憶えてないみたいなんだ」
俺が白い天井を見上げながら言うと、石河は、これは推測だけれど、と断った上で、見解を語ってくれた。
「たぶん、木林みのりの精神の部屋が、戒刃の攻撃で傷つけられたことが関わってる。それで記憶が少し消えたんだと思う。そして、結城が勇気を振り絞ったときの精神エネルギーが、みのりの部屋の中に多く残って、それを恋だと錯覚したんだろう。そして錯覚は、やがて確信に変わってしまった」
「つまり……どういうことだ?」
「少なくとも木林が、結城を好きな気持ちに嘘はないってことだ」
一見マジメな石河が言うものだから、本当にそうなんじゃないかと思えてきた。
好かれているという事実は素直に嬉しいが、俺のあの最低行為を憶えていないで、俺を好きだと思っているのだったとしたら、非常に申し訳ない気持ちに覆われる。ちゃんと謝罪もせぬまま好かれてるとか、後味が悪すぎる。
そもそも、木林いのりも俺のことが好きと言っていたし、さらに、みのりも俺に好意を寄せはじめたとなると、またひとつ人間関係での心配事が増えてしまったんじゃないのか。
好かれるのは非常に嬉しいけれど、あまりに危険なモテ期なんじゃないの、これ。
「結城も大変だな。木林みのりの性格はだいぶ激しいから、尻に敷かれそうだ」
「たぶん付き合わねえから、そんなことにはならねえよ。でも、いいのか? 石河」
「何がだい」
「木林みのりに、かなり好かれていただろ?」
「もともと木林みのりが僕を好きになったのは、僕が日々彼女のメンテナンスをしているからなんだ。彼女の精神の中に長時間入って作業するわけだから、そりゃ当然、無意識下で好意も生まれる」
「じゃあ、俺への恋心が不自然に植え付けられてしまっている状況ってことだよな? それは可哀想だろ。何とかならんか?」
「たいていの場合、一時的なものだよ。ただ、今回の場合は、結城がかなり格好よかったみたいだからね。長引くかもしれない」
「どうしようもないってことか?」
「そうだね。難しいかな。条件反射みたいな恋心は無理に消そうとすると、彼女たちの精神世界が不安定になる恐れがある」
「じゃあ、しばらくの間、近づかなければ熱は冷めるのかな」
「そういう考え方はよくないんじゃないか? 言ったろ? 経緯はどうあれ、好きな気持ちに嘘は無いんだ。逃げないで向き合ってあげなよ。木林みのりも、結城が思ってるよりも可愛いやつだと思うよ」
「カワイイ? あいつが?」
これはひょっとして、石河は楽しもうとしてるんじゃないか。俺が木林みのりに迫られまくって困る姿を。つまり、俺に襲い掛かる恋の大トラブルを観察して、ほくそ笑むつもりなんじゃないか。意外とそういう腹黒いところがあるから、あり得る話だ。
戦いを終えて成長した俺だ。いつまでも、やられっぱなしでいるわけにはいかない。何かを言い返す必要がある。
そこで俺が選んだのは、木林いのりの話題だった。
「待てよ? 相手の精神の中に入り込むと好意が生まれるって仕組みなんだよな……。じゃあ、石河がメンテで木林いのりの中に入ってるのに、俺のことが好きだとか言ってるのは何なん……」
そう言いかけた時、部屋の温度が急激に下がった気がした。
表情にこそ出してはいないが、無言の石河から深く静かな怒りを感じる。石河はいのりが心から好きなのだ。
俺は無言の圧力に敗北し、結局、「あ……すまん」と謝らされたのだった。
石河はひとつ切り替えるように息を吐くと、
「とにかく、結城には悪いけど、せいぜい彼女たち二人に好かれるくらいの、いい男であってほしいね。僕のメンテナンス作業の安全のためにね」
と、そんな皮肉を浴びせられたところで、長い脚であぐらをかいて座っていた三人目の男が会話に入ってきた。
「そうだな。全て石河の言う通りだ。さすが」
戒刃嶽人である。
木林からもらって来たミカンを喰い散らかして、もうあと一個しか残っていない。いや、一個を残すくらいの良心はあるとも言えるが……。
「つーか……何でこいつがこの部屋にいるんだ? 敵だろ?」
俺が不快感を表明しつつ言うと、
「素人に負けたから、格好悪くて『ブレイカーズ』とかいう悪の組織に戻れないんだってさ」
石河が、ずばりと答えてくれた。
「なに? このオレが、素人に負けただと?」
「だって、どう見たって、結城にやられて倒れてたし」
「ああ、確かに俺が見事に殴り倒したな」
戒刃は「ぐぬぬ」と大げさな動きで頭を抱え、悔しさを表現した。
俺たちは無視した。
「そういえば結城、あの後すぐに、僕と戒刃は強制的に外に弾き出されたけど……あの時さ、木林の精神世界で何をしていたの?」
「ああ、父親と、ちょっとな」
「なるほどね。道理で……。やっぱりデイドリームメイカーの力が働いてたのか」
そのいかれた二つ名のオッサンの力とやらがどんなものなのか、具体的に聞いてみたいもんだ。
「つまりね結城。きっと、いざという時のために準備がなされていたんだろう。精神にたっぷり取り込んだ、精霊の加護ってやつだ」
「まったくわけわからんぞ、石河よ。心当たりがなさ過ぎる」
「まあ、思い出せないかな。とにかく、結城の周りがオレンジ色に光っていたのは、何らかの精霊の力だったってわけで、それはデイドリームメイカーの作戦通りだったんだと思うよ」
「んー、わからねえ……」
「まあ、長い長い君の人生のなかで、いつかわかる日が来るさ」
「そういうもんかな」
いったん、会話が途切れたので、もう一つ、大いに気になっていたことをきいてみることにした。
「そういや石河。お前は以前、みのりが本当の人格で、いのりが書き足されたものだと言ったが、あのとき俺の親父を名乗る声は、二人とも書き直しによって作られた人格だと白状した。そうなると、もともとの依頼人だった……その……本物……というかな、手が加えられてない木林みのりは、どこにいってしまったんだ?」
「それはね、僕のせいさ」
「え? どういう……」
「木林みのりの本当の人格を破壊したのは、この僕だからね。つまり……僕はデイドリームメイカーに負けて、人殺しになったってわけさ。できれば知られたくなかったけどね」
「待て待て、人殺し? 急に何言ってんだかわからねえよ、もうちょい丁寧に説明してくれ」
「いいだろう。話そう」
「頼む」
俺は心の準備をして、淡々と語る石河の声に耳を傾けた。