第28話 足りない手紙/みのりの手紙
マンションの三階。『木林』と書かれた表札。
なんだか見慣れない表札だなと感じた。
鍵を開け、少し重い鉄扉を開いて、中に入る。
廊下を進み、リビングへ。俺は、新しく弥生から受け取った手紙を、特別なものを入れるために用意した箱の中に入れた。俺はそれを「宝箱」と呼んでいて、俺の大切にしているものしか入ることはない。今のところ、俺が限りなく大事にしているのは、二通の手紙のみで、先刻弥生から受け取った『ラブ』と書かれたもので三通目だ。
二通の手紙のうち一通は、弥生からの手紙。もう一通は……あれ……もう一通は何だっけ?
俺は、弥生からの二通目のラブレターを、宝箱に入れようとした時、そこに二通あるはずの手紙が一通しか無いことに気付いた。
「あれ?」
もう一通は、どこに行ってしまったのだろう。このままでは、弥生の手紙率百パーセントになってしまう。こんなはずじゃない。もう一通、大事な手紙がどこかに……。
誰かが持ち出したとは考えにくい。宝箱に入れる手紙は、俺にとっては重要なものだが、他の人間にとってはどうでも良いものであるはずだ。
俺は部屋中を探した。
ソファの下、冷蔵庫の中、台所、廊下の隅から隅まで、カーテンの裏、ベランダ、不自然に何も無い部屋、教科書の間なんかに挟まっていないかもチェックした。
「無い」
残ったのは、みのりの部屋だけだった。
何故だろう、どうしてもその失われた手紙を見つけ出さなくてはいけない気がしたんだ。俺の記憶では、確かに宝箱には二枚の手紙があったはずで、でも、大事なものであるはずなのに、どんな手紙か憶えていない……。
こんなことって、あるのか?
最初からそんな手紙なんて無かったんじゃないか……。
――いや、確かにあった。
箱に入れ忘れたのかもしれない。
本当に大事なものなんだ。
だから、探さなくてはならない。
可能性のある場所全て。
俺は躊躇いながらもドアノブに手をかける。
悪い事とわかっていながら、みのりの部屋にそうっと侵入すると、少し散らかったその部屋の中で、手紙を探す。机の引き出しを開けると、青い封筒が見えたので、手に取ってみる。封筒には、何も書かれていなかった。
「これか?」
もしかしたら、これが俺が探していた手紙ではないだろうか。
封筒から中身を取り出すと、一番上に『石河開様』という文字が書かれた便箋があった。探している手紙ではなかったらしい。俺は封筒に便箋を入れようとする。
そんなタイミングで部屋の扉が開く音がした。
「げ」
扉が開いたということは、木林みのりが、帰ってきたということであり、これは相当まずい状況なのではないか?
状況を冷静になって考えれば、俺は無断で木林みのりの部屋に入り、勝手に引き出しまで開けて、石河開あての手紙を盗み読んでいる変態野郎だ。
あれ、変だ。何で俺は、みのりの部屋に勝手に立ち入るなんて行為に及んだんだっけ?
「……結城?」
「あ、あの、違うんだ。これは……」
「違うって……何が、どう違うの?」
「ごめん、手紙を探してて……」
「手紙……?」
みのりは、俺が持っている青い封筒に視線を移動させ、目の色を変えた。
「違う、この手紙じゃなくて、別の――」
俺の弁解に聞く耳を持たず、木林みのりは、部屋の入口に置いてあった短い木刀を手にすると、俺に向かって突進してきた。
振り下ろされる木刀を、ギリギリで避けた。空を切った。
みのりは立ち止まって叫ぶ。
「この最低男!」
言い返す言葉を持っていない。
「拾ってやった恩も忘れて、あたしの手紙を盗み読んで、しかもさっきのファミレスの飲み物も、変な味だったし、何がしたいのよ!」
カラン。みのりは、木刀を投げ捨てて、俺に静かに近付く。涙ぐんでいた。後ずさりする俺だったが、胸倉を掴まれた。もう逃げられない。
「ごめん」
謝った。
バシン、と乾いた音が響く。一発目は平手打ち。二発目はより鈍い音で、手の甲で殴られた。
「最低! 最低最低!」
みのりは涙を撒き散らしながら、俺を解放したが、次の瞬間……。
腹に衝撃、回し蹴り。
「うぉぉぉ……」
痛い。今までの人生の中で最大級の痛みだ。思わず膝をつくしかない。
そこに、追い討ちのカカトが、左肩を襲った。
「あっぐぅ……」
痛い。あらゆる部分が痛い。
「……ご、ごめん」
「少しは、信じてた。こういうことだけはしないって思ってた。なのに……」
「ごめん」
「許せない。絶対、許せない。あんたは、今、あたしも裏切ったし、何より、いのりのことも裏切った!」
「本当に、ごめん!」
俺は床に膝と手と頭をついて謝ったが。
思いっきり脇腹を蹴られた。骨や内臓がもっていかれたんじゃないかってくらい痛い。目の前がチカチカと白黒する。
「うぅ……いってぇ……」
「あああ! 殺す! もう殺す! いのりならきっと許してくれるわよ。こんな最低男、殺してもいいよね、いいよね、いいよね、いのり」
ゾッとするような形相だった。みのりは、再び転がった木刀を手に取る。
彼女の目は本気だった。このままでは本当に殺される。俺は確かに最低なことをした。どれだけ言葉を尽くして、どれだけ事情を説明しても、俺のしたことは最低で、許してもらえることではないと思う。
だけど、でも、死ぬのは……嫌だ!
生きていたい!
「ごめん!」
俺は立ち上がり、木林みのりの両腕を掴むと、無理矢理にキスをした。
木林の手から力が抜けたのを感じて、俺は口を離し、手も放した。
何から何まで最低だけど、きっと、いのりなら、殺そうとはしないはずだ……。
腕を垂らした木林いのりは、木刀を手放す。そして――
パシン。
と、撫でるように、俺の頬を引っ叩いた。
今までで一番弱々しい一撃だった。でも、今までで一番痛いと思った。
「出て行って……」
大粒の涙をポロポロと流しながら、震えた声でそう言って、口元を拭った。
「ごめん」
「いいから、出て行って」
「あの……これ……」
俺は、石河開あての手紙が入った青い封筒を手渡した。
「最低。これ……みのりの……なんだよ?」
「ああ」
「……しばらく、戻ってこないで」
「え?」
「何か、事情があるんだよね? そうじゃなかったら、こんなことしないよね? みのりのことは私が説得するから……でも、今は、顔も見たくない」
「……本当に、ごめん」
俺はそう言い残して、いのりが居る部屋を出た。
着替えて、財布と携帯だけを持って上着を着るのも忘れて玄関の外に出た。
外に出ると、雨か雪でも降りそうな曇り空だった。
★
とんでもないことをしてしまった。
荷物は置いて出てきてしまったけど、もうあの部屋には二度と行けないなと思った。
どうしてあんな事をしてしまったのだろうと考えて、消えてしまった手紙のことを思い出した。
何の手紙だったんだろう。
気になって仕方が無い。
結局、探していた手紙はあの部屋には無かった。手紙がある可能性のある場所で、まだ探していない場所を考えて、自分の家しかないという結論に至る。
しかし、自分の家は危険だと燃やした父の手紙に書かれていた。それでも、父に逆らってでも、どうしても探さなければならない気がする。
俺は、注意深く周囲に気を配りながら歩き、十数日前まで住んでいた家に着いた。
施錠されていなかった扉を開いて、中に入る。俺以外の誰かが侵入した形跡は無かった。
「ただいま」
俺は、誰もいない家で呟き、とてつもなく虚しくなった。
リビング。ダイニング。キッチン。冷蔵庫の中。一旦外に出て郵便ポストを漁る。自転車のカゴの中。再び家に入り、自分の部屋。整理整頓された姉の部屋も探した。しかし、手紙は出て来ない。どこを探しても、見つからなかった。本の中に挟まっていないかと全ての書籍のページを捲ってみたが、無い。最後に残ったのは、父と母の部屋だった。
戸を開けて、そうっと閉める。
そして、俺は和室の畳の上にぽつんと置かれた手紙を、見つけた。
「これが……探していた手紙……?」
いや、どうなのだろう。おそらく違うと思うが、これも大事な手紙に違いないと思う。
拾い上げて、読んでみる。
『二枚目の手紙を探さないほど、冷静さを欠いているなら、お父さんの子じゃないと言いたいところだったが、最後のチャンスをあげよう。全てを知りたいのならもう一度、石河開のところへ行け。今すぐにだ。何も知らないまま、平和に生きたいのであれば、全てを……忘れることだ。一分間で答えを出せ。父より』
どういうことだ?
一度石河には全てを聞いたはずだ。まだ何か秘密があるのか?
俺は、どうすれば良い。俺自身は、どうしたい?
このまま何も知らないまま全てを忘れる?
それも良いかもしれない。誰だって、俺だって、平和に生きたいはずだ。
でも……父の事、人格彫刻のこと、催眠術のこと、石河のこと……全てを知りたいとも思っている。
木林みのりと木林いのり。
謎の多い彼女たちのことも、少しでも知りたいと思った。
謎が多すぎるくらいの、この世界のことを、心の底から知りたいと思った。
全てを忘れる?
それは、つまり、一ヶ月半前にこの街に引っ越して来た時からの記憶を全て失うということか?
もしも、平和を手に入れても、今までの人生のように、ずっと独りぼっちの停滞世界が続くなら、俺は危険なことに首を突っ込んででも、父や母や姉を知りたいし、石河ともちゃんと友達になりたい。それから、木林みのりや木林いのりにも、まず謝らなくてはならないし、俺を好きだと言ってくれる月島弥生のことも忘れたくない。
普通じゃなくて良い。
俺は、居場所が欲しい。
皆が居るこの街を、居場所にしたいと思っているんだ。
だから。
「全てを……知りたい!」
手紙は、手を叩いたような軽く高い破裂音と共に粉々になり、やがて跡形も無く消滅した。