第25話 時間切れ/みかんの手紙
何なんだよ、突然すぎる。
確かに、思い返せば、みかんには不自然なことが多くあった。
果物のミカン以外を口にしないことや、人間とは思えない軽さ、体調を崩してもすぐに治り、さっきは影も無かった。
目の前にある、彼女の命を保つ最後のミカン。それが無くなることが、田中みかんが消滅する引き金のようなものだと知らされて、食べられるはずがない。今までミカンを食べまくってしまったことに対する罪悪感も、無限に湧き上がってくる。
俺は何があっても、このミカンを守り抜き、彼女を消さないようにすると決めた。
もしも奇跡が起きるなら、彼女が消えないようにと願う。
でも、既に奇跡の果てにいる彼女に、これ以上の奇跡が起こる確率なんて、限りなくゼロに近いだろう。それでも、ゼロではないのなら……。
(アキラちゃん)
(アキラちゃん)
(アキラちゃん)
(アキラちゃん)
(アキラちゃん)
幻聴のように、みかんの声が頭の中に響く。彼女の声で埋め尽くされる。みかんと過ごした数日の記憶が、終わらない紙芝居のように何周も何周も繰り返され、いつの間にか朝になっていた。
閉じたカーテンの隙間から、ミカン色の光が少しだけ射していた。
「おはよう。アキラちゃん」
「ああ、おはよう、みかん……」
「元気……ないね」
「木林は?」
「寝てるよ。たぶん、夕方くらいまで起きないと思う。夜更かし、しちゃったから」
「そうか」
部屋で二人で話しこんでいたのだろう。あるいは、俺にしたのと同じように、別れの挨拶をしていたのかもしれない。
「…………」
静かな冬の朝だった。何の音もしないような、止まったような世界だった。
いきなり、みかんが倒れた。みかんが机にぶつかる音で彼女が倒れたことに気付いた。
「みかん!」
「ゲホ……ゲホ……」
咳だ。まずい。
「大丈夫か? みかん」
俺は、彼女を持ち上げて、ソファに寝かせた。
「……思ったより……早いな……もう、時間切れなのか……」
いつもより高い、かすれた声。
みかんの症状は、あの日……みかんが風邪のような症状で倒れた日に似ていた。あの日と同じなら、咳の後には、高熱と異常な発汗が見られるはずだ。
「ア……キラ……ちゃん……」
「何だ? どうした? 時間切れって何だ?」
「ミカン……食べたい」
「なっ! ダメだ。これは、ダメだ。絶対に、ダメだ!」
「苦しい……」
どうすればいいんだよ。
このミカンが無くなれば、みかんは消えてしまう。だから、このミカンだけは失わないようにって思ってた。なのに……。
そうだ、そういえば言っていたじゃないか……。みかんが命を維持するためには、定期的にミカンを食べなくてはならないと。酷すぎる。みかんは、ミカンの数が自分の消滅へのカウントダウンと知らされたまま、生きていたってことかよ。
苦しそうに息を吐くみかん。手足は冷たく、体は熱い。体中から水分が抜け出るように、汗が流れ続ける。
悔しい。
俺はそう思って泣きながら、最後のミカンの皮を剥いた。
何が悔しいって、何もできない自分自身が悔しい。
彼女を消させない力があればと思う。せめて、彼女の命を延長させる力があればと思う。
だけど、そんな力、持っていない。
みかんの口に、ひとかけらずつミカンを運ぶ。よく噛んで、飲み込んでいった。
「おいしいか?」
「うん。おいしい」
笑ってた。
「どれくらい食べれば治るんだ? あと三口くらいか? 半分くらいか?」
「一個、全部……食べないと」
そんな……。
そんなことしたら消えるんだろう?
いなくなってしまうんだろう?
そんなの嫌だ。
「きっと、皆、あたしのこと、忘れちゃうだろうけど、できれば、アキラちゃんには、あたしのこと、忘れてほしく、ないよ……」
「忘れるもんか! 俺は、みかんが好きなんだぞ! 世界で一番! 好きなんだぞ!」
そして、最後のひとかけらが……みかんの中に消えた。
「みかん!」
俺の大好きな女の子は、オレンジ色の光の中で、霧散した。
ヒラヒラと、室内に一枚の紙が舞う。彼女からの手紙だった。
『あなたに会えた。あたしは、あなたが好きです。大好きです。やったね。両思いだね。もっと一緒にいたかったね。でも、おわかれです。何よりも、それが、悲しいです』
「みかん……」
この手紙は、大事にしようと思った。大事にしようと思った手紙は、これで二通目だ。箱に入れて大切に保管しておこう。失くさないように大切に……。
裏面を見る。何も書いてなかった。しかし次の瞬間、あぶり出しのように、
『さようなら』
文字が浮かび上がり、直後、手紙も消滅した。
「…………」
好きだった。
大好きだった。
そのちっちゃな体も、小さな胸も、少し茶色い、くるくるした髪も。甘い匂いも。
恋していた。愛していた。
いつか、俺も彼女のことを、忘れてしまうのだろうか。
忘れたくない。忘れたくない。絶対に忘れたくない。
忘れない。
「忘れない……」
呟いた。呟いた後に、考えた。
何を忘れないでいようと思っていたんだっけ?
どうして忘れないでいようと思ったんだっけ?
憶えていないといけない大事なことが、あったような気がする……。
「…………」
思い出せない……。
「白昼夢でも見ていたのかな」
再び呟き、俺は立ち上がった。