第24話 記憶の欠落/田中みかん
おかしいね。俺の意識が無い間に、テスト期間が終了したらしい。
月島弥生先生の厳しく激しい「ご指導」により、脳細胞が記憶を蓄積させないという防衛手段に出たらしく、およそ一週間ほどの、記憶の多くが抜けていた。断片を繋ぎ合わせると、どうやら勉強合宿が開催されていたようなのだが、大半の記憶が欠落している。これも催眠をかけられたようだ、と言えなくもない。
そうか、月島弥生も催眠術師だったか、なんてな。
非常に残念なのは、記憶の無い間に、いくらか素晴らしきハプニングがあったらしい。
いくつか苦情が寄せられていた。
「おい結城」
「何だよ」
「いのりがな、風呂に入ってるところに入って来られたって言ってたんだけど、殴っていいか?」
「そ、そんなの記憶にないんだが」
「気持ちの悪い粗末なものを見せ付けられたんだろうなぁ、潰していいか?」
「いや、その、すみません。それは、たぶん絶対、俺が悪い……」
それから、田中みかんからも、
「あたしもさぁ、断片的な記憶の中に、アキラちゃんにトイレのドア開けられたっていうのがあって、最悪な気分になったなぁ」
「えぇ? それも記憶に無いんだが!」
本当に残念だ。どうして彼女たちのあられもない姿や、もろもろの眼福イベントが記憶されていないのだ。
「しかも、ミカンの皮で滑って転んだふりして抱きしめられたりもしたよ」
「え、うそだろ……偽りの記憶じゃなくて?」
「あと、これは、いのりからの伝言なんだけどな、何回もキスしてごめんってよ」
「それも記憶に無い」
何で憶えてないんだ、俺の脳みそ!
勉強よりもそっちの絶景の数々とか感触とかの方が大事だろうに!
「えっと……本当なのか? 弥生」
「うん。見てたから、全部本当よ。アキラったら、タイミング悪くって、すぐそういうラッキースケベなイベント起こすんだもの。腹立っちゃって仕方なかったわ」
「みかん、いのり、申し訳ない。反省してる」
すると弥生が、人差し指を立てながら、まだ他にもあるのよと言ってきた。
「木林のみのりちゃんの方にもやらかしててね、アキラが転びそうになった拍子に派手にジュースぶっかけちゃってさ、シャツが透けた上、抱きつくような形で身体に触れたりね。どこか痛くない? だいぶボッコボコにされてたけど。木刀で」
「当然の報いだろ」とみのりが鬼のような表情でにらみつけてくる。
「言われてみると、かなり全身が軋むかもしれない」
「ああ、思い出した。そういえばアキラちゃん、背中に、もみじみたいなアザもつくられてたね。すっごい真っ赤になってたよ」
「あっ、みかんちゃん、それは違くて、木林さんじゃなくて私がやったのよ。つい指導に力が入っちゃって何回もバシバシ叩いちゃった」
「ってことは、もしかして俺、弥生にも何か、すげえ失礼なことを……?」
「うん、それがね……私は、特に何もされなかった……」
何で残念そうなんだろうか。何かされたかったとでも言うのか?
とまぁ、テスト終了の次の日に集まった時に、そんな会話があったのだが、本当に、ほとんど憶えていなくて、ごっそり記憶が抜け落ちているのだった。
まるで、俺のラッキーに嫉妬した誰かが記憶を書き換えたかのようであるが、実際のところは、ただの脳みそ容量オーバーなのだろう。
よく、酒に酔っ払って失敗する人の話を聞くけれど、それに近いかもしれない。自分の記憶がないところで狼藉を働いたという事実を突きつけられると、焦っても仕方ないとわかっていても、本当に焦る。
それにしても、よほど激しいスパルタぶりだったようだ。俺たち生徒三人に共通して見られた現象は、勉強したことが全くといって良いほど身についていないという結果のみであった。これではむしろ、テスト勉強をした意味が無い。
テストとは、勉強した物事がしっかり身についたかどうかを確かめるものであって、良い点を取るためのものではないのだ。
とにもかくにも、記憶は無くとも、テストを受けたという事実はあるらしく、明後日は返却日である。しっかりと、俺、みかん、木林いのりの答案用紙が返って来ることだろう。全部赤点とかだったらどうしよう。もう一度二年生をやることになったら……どうしよう。
そんなこんなで、この勉強合宿で一週間が過ぎたことで、秋と冬の間という中途半端な季節から、もう完全に冬と呼ぶべき季節になり、みかんの部屋に残ったミカンの箱も、いつの間にか俺の目の前にある一箱を残すのみだ。そして、その箱の中にも、もうミカンは僅か二つだけしか残っていなかった。いつの間にか、何十箱ものミカンを平らげていたらしい。
「アキラちゃん」
俺が一人、リビングのソファに残されているところに、珍しく夜遅くに起きてきたみかんがやってきて俺の隣に座った。いつもは正面に座るので、少し違和感をおぼえたが、そんなことよりも、少し動いただけで触れ合うほどの近距離に大好きな田中みかんが座っているという事実に、胸の鼓動はかつてないほどに早まっていた。
何とか心を落ち着けて、やさしくゆっくりと話しかける。
「みかん、どうした? こわい夢でも見たか?」
「アキラちゃんはさ、誰が好きなの? 弥生さん? いのりちゃん? それともみのり?」
「いきなり、何を言い出すんだ。もちろん、全員好きだぞ」
「あ、ごめん。訊き方悪かったね。誰が一番好きなの?」
「そっちの質問のほうが困るが……何でそんなことを?」
「気になるから」
コイバナがしたい、ということなんだろうか。
「誰が好きでも驚かないか?」
「うん。おしえて」
どうしようかと迷ったのは一瞬だけだった。
ずっと待っていたじゃないか。俺の本当の気持ちを伝えるチャンスを求めていたじゃないか。
二人きり、他に誰もいないリビング。
今、その瞬間が訪れたんだ。なけなしの勇気を振り絞って、大好きな彼女に、俺の想いを伝えなくては。
「……俺が好きなのは、田中みかんっていう、女の子だ」
言えた。よかった。ようやく、はっきり伝えることができた。
みかんは、この俺の気持ちにどう応えてくれるだろう。期待するけど、不安もある。
ドキドキがおさまらない。
「やっぱり、そうなんだよね」
みかんは、そう言って、天井を見上げた。
「ああ。ずっと、言いたかったんだ。俺は、みかんが好きだって」
「でもね、あたしね、実は女の子じゃないんだ」
「…………」
一瞬、思考停止した。
いや、まって。え。男だった?
そんなことがあっていいはずがない。もしも、みかんが男だったら、俺はずっと男に恋愛感情を抱いていたということになる。しかし、男だとするなら、胸が小さいのも当然だし、木林にキスしたことも不自然ではない……? いや別に女同士だったら不自然とか、そういうことでもないけれど。
いやいや、男だったら絶対無理というのではないけれど、みかんとの子供は欲しいし、ええと、ええと……。
「どういうことだ?」
考えても答えなんか出るはずもない。俺は、素直に訊き返した。そしたら、
「女とか男とか以前に……人間じゃ、ないの」
何の冗談なのだろう。
人間じゃない?
そんなことがあっていいはずがない。だって、みかんは、俺の好きな女の子だ。俺が大好きな一人の女の子で、小さくて、元気で、抱きしめたくなるような、守ってあげたくなるような子で……。
「あたしは、ミカンの木なの」
「え?」
なんだ、何を、言っているんだ。
「新種の病気にかかってね、もう助からなくて、他の木に病気をうつす前に、伐られたの。そこに不思議な力を持った人が偶然通りかかってね、その人が、あたしにもう一度命をくれた。あたしが生き続けるための条件は、定期的にミカンを食べる事。そして、私が一生でつけるはずだった数のミカンの果実が、全てなくなるまでの命……そんな有限の命だった。
あの箱に入ってたミカンが、全てなくなった時、あたしは消えるの。やり残したことは特に無いと思っていて、生まれ変わったことに意味なんて無いと思ってたけど、無類のミカン好きのアキラちゃんに会えて、うれしかったな」
「みかん……?」
「あたしは人間じゃないし、アキラちゃんの気持ちに応えることはできないけど、好きだって言ってもらえたのは、ホントにホントにうれしいよ」
みかんは優しい笑顔を浮かべていた。
「つまり……みかんは……いなくなってしまうってことか?」
ゆっくり、深く、頷いた。
ありえない。ふざけてる。どうして。
「アキラちゃんが、本当に好きな人は、きっと、あたしじゃないんだよ」
「何言ってるんだ! そんなわけない! 俺はみかんのことが――」
「ダメだよ。あたしは、いなくなるんだよ? 意味ないよ」
「悲しい事言うな! 意味ないわけないだろ! みかんは……みかんは……」
「あたし、本当は、生まれて来ちゃいけなかったんだよ」
「な……何で、何でそんなこと言うんだ! 俺は、結城アキラは、他の誰でもない、田中みかんが好きなんだ! なのに、なんで、そんなこと言って……!」
「アキラちゃんが、どれだけあたしを好きでも、もう、この最後の二つのミカンがなくなれば、あたしは……」
みかんはそう言って、箱の中の二つのミカンを手に取った。そして、そのうちの一つを俺に手渡す。涙をぬぐうこともなく。
そして、自分の手に残したミカンの皮を剥きはじめた。
「やめろ!」
俺は、みかんから、皮を剥きかけのミカンを奪い取る。
みかんは、優しく微笑みながら、俺に抱きついてきた。俺の胸のあたりが、涙で湿った。
甘い甘い、ミカンの匂いがした。
折れそうな小さな体を抱きしめる。
「あたし、軽いでしょ?」
「ああ」
みかんの体は、冷たかった。重さも感じられなかった。本当に消えてしまうんだ、と思った。
「ミカン。返して」
どうしてだ。どうして自分が消えるのに、こんなに平然としていられるんだ?
「返してってば」
絶対に返したくない。みかんに消えてほしくない。
「みかん……」
「何?」
「俺のこと、好きか?」
「別に」
「そ……そんな……」
「アキラちゃんが来てから、楽しかったよ」
みかんは、そう言って、俺から離れ、ミカンを奪い取り、次々と口に運んでいった。ひとかけら口に運んでいく度に、胸が突き刺されるように痛む。
二つあったうちの一つのミカンを平らげると、
「最後の一個……アキラちゃんに、あげるね」
そう言い残して、みかんは再び自分の部屋へと戻って行った。
テーブルの上には、ぽつりミカンの皮、俺の手には、最後のミカンが、残されていた。