第23話 3A07/涙
月曜日。
今日は学校に行かなければならない日だった。ここ何日も、布団で眠っていない。疲れが溜まっているためか居眠りを繰り返し、授業の内容なんてさっぱり覚えていない。
ただ、帰りのホームルームでのテスト一週間前というキーワードを聞き逃さなかった俺はとても偉いと思う。
先週までは掃除当番だったが、週が変わったので、それもなくなる。
「結城。一緒に帰るよ」
と言って来たのは、石河……ではなく、何と木林みのりだった。石河は、木林いのりへの失恋が余程のショックだったのだろうか。まだ、一人にしてくれ状態だった。心配だ。石河のことが好きな木林みのりも、今の石河には近づけないらしい。
「はぁ? 何で、お前と一緒に帰らないといけないんだよ」
「また……いのりに、怒られたから……その……」
それで、俺と仲直りする気になったわけだ。それにしても、二重人格である木林は、自分の別人格とどうやって意思の疎通をしているのだろうか。不思議だ。
「あたしも帰るよー」
みかんがぱたぱたとやって来て、三人で帰ることとなった。何処へ帰るのかといえば、みかんの家だ。
昨日の夜、いつものファミレスで目を覚ました俺は、俺が眠っている間に仲良くなっていた三人の女の子に囲まれながら、みかんに許してもらい、また田中みかんの家にしばらく泊めてもらえることとなった。
木林みのりも、しばらくはみかんの家に居座ることになったようだ。おそらく、もし俺がみかんに対して狼藉を働いた場合に備えてのことだろう。俺に魔が差した場合、俺は徹底的に殴り砕かれることになるだろう。
今朝はみかんと木林が家を出る時間が早く、俺は一人置いて行かれたので、三人で登下校するのはこれが初めてだった。
「テスト勉強、始めないとね」
待つんだ、みかん。今はまだテストのことなんて考えたくないぞ。いやしかし、愛するみかんと一緒に勉強する光景を想像し、素敵なことだとも思う。
「三人で一緒に勉強すれば、効率がいいんじゃないか?」
妄想したついでに、そんな事を言ってみた。
「なるほどぉ、じゃあ訊くよ。アキラちゃん、得意科目は?」
「体育だ。保健体育だ」
「みのりは?」
「あたしも体育」
「そしてあたしは、美術なのです」
絶望的だ。その二科目は今回ペーパーテストが無いので、勉強する意味が無い。
昇降口で靴を履き替え、校門へと歩いている途中で、またしても門で誰かが待っているのが見えた。近付いてみると、やはり月島弥生だった。
「あ、アキラ。家もお隣同士だし、たまには一緒に帰ろうかなと思って」
弥生は、ツッコミを待つようなキラキラした目で、俺の言葉を待っているようだった。
これは「家隣同士じゃねえぞ」とツッコめばいいのだろうか。
「たまには……って一緒に帰るのなんて初めてじゃないか」
無難な発言を選択した。初めてというのは本当である、以前に待ち伏せされていた時は逃げたからな。
「弥生さん。昨日はどうも」みかん。
「ごちそうさまでした」みのり。
結局昨日は、またしても弥生に奢らせてしまった。そろそろ、おごってもらうのは断りたいと思っているのだが、果てしない意志の弱さがそれを邪魔している。ならば、せめて何かお礼をしたいところだが、ひどい詐欺に引っ掛かってしまったため、そんな金銭的余裕が無いのだった。情けないことこの上ない。
というわけで、ここで月島弥生が合流し、四人で帰ることとなった。
★
学校を出ると、すぐに商店街がある。商店街を抜けると、道幅の広い静かな住宅街になるのだが、車が通る事はほとんど無いので、三人は道に広がって歩いていた。女子が三人集まると際限なくおしゃべりが続き、その勢いについていけない俺は、三人の後ろを歩き、三つ並んだ背中を眺めているしかなかった。
余談だが、みかん、弥生、みのりの三人が並ぶと階段のようになる。三人の身長は、みかんが百五十センチ、弥生が百六十センチ、みのりが百七十センチほどということで、綺麗な段々畑が完成する。やっぱり小さな子が一番可愛いと思う。
と、左右にふわふわ揺れている小さな後頭部を眺めていたのだが、ふと真ん中にいた月島弥生が突然思い出したかのように、自分の鞄の中を探った。かと思ったら、何かを見つけて立ち止まる。そして、振り返りながら俺にピンク色の可愛らしい封筒を差し出してきた。
「アキラ。これ、読んで」
「何だ、これは」
「手紙よ」
「手紙だとぉう!」
思わず裏返った声が出た。今の俺は手紙という存在自体がおそろしくて仕方ない。もはやトラウマだ。
「そう。この私が、おバカなアキラにもわかるように私の気持ちを書いた手紙よ?」
ガサガサ。可愛い封筒に入ったその手紙を取り出す。中の便箋も、薄い桃色だった。
手紙には真ん中にオシャレな書体で『3A07』とだけ書かれていた。何の暗号だ?
まさか、あぶりだし?
弥生の顔を見ると、何となくニヤニヤしているような感じだ。
やはり、あぶりだし。
そうに違いない!
俺はポケットから百円ライターを取り出して、点火した。
三人は、ギョッとした顔で固まった。
あれ、おかしい。何かこれ、かなりまずい雰囲気かも。どうやらあぶりだしの仕掛けは無いみたいだし……。
「あの……弥生……この、『さんえーぜろなな』って……何だ?」
そう言って、弥生の方を見ると……。
驚いた。
あの月島弥生が。
物心ついてから一度も泣いた事がないと自慢気に憂いていた月島弥生が、ボロボロと涙を零していたのだ。
「……あ、あっれ……おかしいな。うそ、私……泣いてるよ……」
時々「フフッ」という笑いを混ぜながら、とても複雑な表情をしながら、弥生は涙を流していた。まるで、今までの人生で溜め込んだ涙を全て流すような大量の涙だった。大粒の涙が、次々にアスファルトに落ちていく。
「ご、ごめん。弥生。違うんだ。これは、えっと、理由が……」
俺は、ライターの火を消し、再びポケットへと隠すように入れようとした。手を滑らせて地面に落としてしまった。
「アキラちゃん。さすがに……史上最悪」
違うんだ、みかん。あぶりだしだと思ったんだ。それ以外にこの暗号文を解読する方法が無いと思ったんだ!
「殴っていいかしら」
木林の突き放すような声。殴ってくれていい。いくらでも殴ってくれていいから、誤解だということを理解して欲しい。
皆、手紙を燃やそうとしたと思っているんだろう。それで弥生は泣き、みかんは非難の目を向け、みのりは怒っている。みのりの裏に隠れているもう一人の人格は、木林いのりは、どう思っただろうか。やっぱりきっと、俺のことを嫌いになるくらいに最低だと思っただろうな。
でも、違うんだ。
俺は、決して手紙を燃やそうとしたわけじゃないんだ。
「あはは……アキラ、『さんえーぜろなな』って……バカじゃないの……? 逆さまよ」
笑いながら、泣きながら、弥生はそう言った。
逆さま……?
「しかも、どうやったら『A』に見えるのよ。カタカナの『ヘ』とか、ギリシャ文字の『Λ(ラムダ)』とかならまだわかるけどさ…………本当、バカ。信じられない……バカ。バカ」
ハンカチで涙を拭いながら、バカ三連発。
拭っても拭っても、涙は止まらないようだった。
確かに、俺は最低最悪の愚か者だった。弥生に言われた通りに手紙を逆さまに見てみると、そこには『LOVE』の文字。
言うまでもない。とてもシンプルなラブレター。
こんなに想われているのに、俺はその手紙を、目の前で燃やそうとした。俺がそのつもりじゃなくても、三人の目には、そんな風に映っただろう。だから、俺は、説明して、許してもらわなければならない。
冷たいアスファルトに膝をつく。手の平をつく。地に頭をつける。
「ごめん!」
「どういう意味よ? 私とは絶対に付き合えないって……こと?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。あ、あぶりだしだと思ったんだ!」
「え?」
「実は、以前弥生に見せた父親の置手紙あっただろう? あれに、あぶりだしのメッセージがあったんだ。もしかしたら、弥生の手紙にも、その仕掛けがあるんじゃないかと思って……だから、燃やしてしまおうとしたわけじゃないんだ! 俺は、どちらかといえば弥生のこと――」
そこで、弥生は俺の言葉を遮った。
「何だ、そっか。よかった……。私のこと嫌いで燃やそうとしたんじゃ、ないんだ」
「ああ」
「立って、アキラ。もう、いいから。許すから」
「本当に、ごめん!」
弥生は、無理矢理に俺の体を起こし、俺の腕を掴んで、立たせた。
「あぶりだし、か。その発想は、なかったな」
そう言って、弥生はまた笑った。涙は流れっぱなしだった。
この手紙は、ずっと大事にしようと思った。
★
弥生がずっと泣いていて、放っておくわけにもいかず、四人でみかんの家にやって来た。ソファに四人で座る。俺の隣は月島弥生。対面は田中みかん。昨日のファミレスと同じ席だった。
みのりはずっと俺に怒りの目を向けていて、みかんまでも、俺を非難する修羅のごとき視線を継続。
みかんとみのりは、俺の父親の手紙を知らない。もう灰になってしまったから、今さら見せることもできない。もっとも、見せたところでどうなるわけでもないだろうけども。
「二人とも、アキラを許してあげて」
月島弥生の涙がようやく止まったようだ。
「弥生さんがそう言うなら……まあ……」
みかんは一つ息を吐く。
「あたしは絶対に許せないわ」
怒りが収まらない木林みのり。
「でも、みのりがいくら怒っても、弥生さん本人は許してるんだから……」
「甘いよ、みかん。激甘よ。だってこいつ、好きな人への手紙を燃やそうとしたのよ? いのりの好きな人が、そんなことをしようとしたなんて、ひどい裏切りで、許せるわけない。悔しい!」
「落ち着いて考えてよ、みのり。きっと理由があって……」
「そんなのどうでもいい! あたしは、いのりのためにも絶対に結城を許さない」
「ええい、おだまり!」
みかんは、そう言うと、木林みのりに飛び掛かり、木林の頭の後ろに腕を回し、
「きゅぴーん」
そんな吐息交じりの掛け声の後、口付けをした。
「なっ…………」
驚く月島弥生。それはそうだろう。人前で唐突にキスをするというのを目撃したら、誰だって驚く。俺も全く見慣れない。何度だってびっくりすると思う。
人格チェンジの儀式を終え、みかんは、弥生に向かって、
「弥生さん。紹介するわ。この子が、木林いのり」
「へ? みのりじゃあ……あれ?」
戸惑う弥生。頭の回転が速い弥生でも、さすがにこの状況を理解するのは大変だろう。
「月島さん、はじめまして。木林いのりです」
「はぁ、はじめまして……って、嘘でしょ……? 多重人格……?」
「はい。すみません、妹のみのりが、多大なご迷惑をお掛けしてるみたいで……」
「いや、全然大丈夫だけど……。かわりに激怒してくれて、超ありがたいくらいだけど」
驚きのあまり、思わず本音が出ているな。ほんと申し訳ない気持ちしかない。
「みのりも、昔は、あんなに攻撃的じゃなかったんだけどな……」田中みかんは呟いた。
「結城くん」
木林いのりが、俺の目を見て、俺の名を呼ぶ。
「な、何だ……?」
おそるおそる、彼女の目をみる。
「私は、結城くんのこと、信じてるから」
そう言いながらも、それは信じている者の目ではなかった。どうあっても信じられないけど、どうにかして信じたいといった目だ。
「あ、ああ。ありがとう」
その後、俺は、父の手紙や、あぶりだしについてを必死に説明し、みかんと木林にも何とか理解してもらうことができた。と思う。
★
「なるほど、テスト勉強ね。私が教えてあげようか?」
月島弥生は、ミカンをもぐもぐ食べながらそう言った。受験生のはずなのだが、猛勉強もせずにそんなことをしていて良いのだろうか?
「それは助かる!」と田中みかん。
「ただ……私は厳しいわよ」
弥生は、そう言ってニヤリと笑う。その表情が少し魅力的に見えてしまって、ドキリとさせられた。
「と、ところでみかん」
「なに、アキラちゃん」
「ミカンの箱、あとどれくらいあるんだ?」
テストなんかのことよりも、ミカンの数の方が気になった。
「あと七十箱よ」
「まだまだあるなぁ」
「全部食べ終えたら、あたしの秘密を教えてあげる」
みかんは、そう言ってニヤリと笑う。その表情がとても魅力的で、俺の鼓動は高鳴った。
秘密……か。みかんのようなカゲの無い子に、どんな秘密があるっていうんだ。まあ、どんな秘密があっても、俺がみかんのことを嫌いになることはない。自信をもって言えるね。
「木林」
今度は木林いのりに話しかける。
「何? 結城くん」
「いのりとみのりが話すのってできるのか? できれば、俺のさっきの、手紙についての説明をして、わかってもらいたいんだ。俺の話は聞かないと思うから、その、頼む」
「うーん、話せるけど……今は無理なの。ええとね、眠っている時だけ話すことができるの」
「そうなのか。普段は、どんな話をするんだ?」
「えっとね……秘密」
木林いのりはそう言ってニコリと微笑んだ。とても優しげで、可愛らしい笑顔だ。いつも険しい表情のみのりとは大違いだ。
つられて俺も笑ったが、この笑顔を最後に、テストが終わるまで、俺、みかん、木林の三人が、安らかな笑顔を浮かべる事はなかったのだと思う。
それから一週間ほど、俺たちの記憶が、途切れ途切れになったからだ。