第21話 雑談/泣かない女
ようやく長い長い夜が終わり、鳥が鳴き始めたのを合図にするように、俺の携帯も鳴き始めた。どうやら電話らしい。朝六時の目覚ましコールは一体誰だろうか。普段なら、日曜日くらいもっと眠らせてくれよと思うところだが、今は、この電話が嬉しくてたまらない。
取り出して見てみると『月島弥生』と表示されていた。
「もしもし」
『あ、もしもしアキラ? 寝てた? デートしよう。デート』
「弥生は受験生だよな。不真面目なんじゃないか。受験に失敗しても知らんぞ?」
『私の息抜きに付き合ってって言ってんのよ』
また問答無用だという雰囲気が伝わって来る。
『おごるから』
「行く」
『本当?』
しまった。と思って口を押さえる。またおごるという言葉につられてしまった。
硬貨の落ちる音につい振り向くように、脳で考える前に行動を決めてしまった。まるで、自分の中の、違う自分が反応したかのようだった。これも催眠や洗脳と言えるのかな。いわゆる、条件反射というものだと思うけど。
「ただな、弥生……俺は今日も寝てないから、途中で意図せず眠るかもしれんぞ」
『別にいいよ。寝ても』
「そうか」
『アキラの寝顔好きだし』
まさか、以前あのファミレスで眠ってしまった時に、寝顔をスマホで撮影とかされてないよな。
『……あら、なんか、また元気ないわね。彼女と喧嘩でもした? 家追い出されたとか』
なんだこの娘、何で俺がみかんに家を追い出されたことを知っているんだ。
「貴様エスパーか? このまちはエスパーだらけか?」
『へ? 何だって?』
「いや、別に……」
『じゃあさ、今日もいつものファミレスにいるから来てよ。さっきも言ったけど、何でもおごるよ?』
「行く」
『うん。待ってる』
通話、終了。
断っておくが、今のは「おごる」という言葉につられたわけではない。一刻も早く暖かい建物内に行きたかっただけだ。
とはいえ……たぶん、月島弥生に会いたいからというのも、心のどこかにあるんだろうな。
俺はみかんのことが好きだが、弥生のことも、木林のことも好きなんだ。
たださ、みかんのは恋愛感情で、ほかの二人は、恋とか愛じゃないと思う。
そんなことを考えながら、大量のココアやらコーヒーの空き缶を両腕に抱え、近くのゴミ箱に投げるように入れた。ゆるキャラ先輩が、『空き缶はくずかごへ!』とか困った顔で言っているのだから、ちゃんと正しい場所に捨てないとな。
重たい荷物を肩に担ぐ。早朝の静かな街を、ゆっくりと歩いていく。
★
「アッキラー」
いつもの席で月島弥生が手を振っていた。日曜日らしく私服であった。何となくいつもと雰囲気が違っていて、一瞬、弥生かどうかわからなかったものの、あっちから手を振ってくれたから、それはやっぱり月島弥生だ。
「おはよう」
俺はそう言って、弥生の対面に座った。
「おはよ。随分大きな荷物ね。どこか行くの?」
「ああ……ちょっとな……色々あってな」
「ねえねえ、唐突だけどさ、アキラって、お姉ちゃんとかいたりする?」
「本当に唐突だな」
「ごめん。でも気になってさ」
「俺、そんなに弟っぽいキャラかな」
「どうかしらね。でも、とりあえず、質問に答えなさいよ」
「そうだなぁ、まあ、いるぞ。いっこ上に」
「ふむ……年齢も合ってる。やっぱりそうなのかな……でも違うっぽいよな……似てないなんてもんじゃないし、やっぱ違うな、うん」
自問自答していた。
「どうしたんだ?」
「いや、もう解決した」
弥生の中で完結したらしい。
あまり根掘り葉掘り訊かれなくて良かったと少し安心した。なぜなら、俺が姉に初めて会ったのは一ヶ月前であり、地味な姉とは会話も弾まなかったからだ。これ以上姉の情報を渡せと迫られても期待には応えられそうになかった。
「そうか、無事に解決したなら何よりだ」
「でも、一応訊くけど、そのお姉ちゃんって、変な人?」
「いや全然。すげえ地味な感じの三つ編みメガネ」
黒髪のセミロングで、背は女子としてはかなり高いけれど、それを感じさせない猫背で、話しかけても反応が遅く、話すときもあまり表情を変えない。声も小さい。なんとなく薄暗さを感じるような、本当に地味な女性である。それを変な人と表現することはできないだろう。
「へえ、地味系なんだ。そうだよね。そんな感じする。アキラのお姉ちゃんって言えば、なんか常識人っぽいものね」
「何を根拠に言っとるんだ」
「んー、アキラって、根が真面目っていうか」
「そんなことないぞ。俺は不真面目だ」
「まぁ確かにね。他に好きな人いるのに私をナンパしたもんね」
「だから、あれはナンパじゃない」
「へー」
「本当だ」
「ま、どうでもいいけど」
なんかチクチクとシャープペンの先で突つかれるような感じだった。
「でも、弥生。何で急に、姉ちゃんの話なんて……」
「いえね、知り合いに結城って人がいてね。珍しくも無いけど、そこまでありふれた名字じゃないから、もしかしたら姉弟とか、親戚かなって思ってね。ごめんね、変な事訊いて」
「まあいいが……」
「で、アキラ、はい、メニュー」
弥生は俺にメニューを渡し、自分の髪を撫でた。
今日の弥生は、何だかいつもよりちょっと可愛いな、とは思ったが、いつもとどう違うのかがわからなかったので、言わなかった。すると弥生は、
「ねえ……私さ、今日いつもと違うでしょ?」
さっきから何だ。この娘、やはり心が読めるのか?
「どこが違うかわかる?」
「ずばり、制服じゃない」
「そんなの当り前でしょ! 日曜日なんだから」
おこられた。ただ、日曜でも祝日でも関係なく制服を着ている石河という人間がいるのを、俺は知っているからな。
「あ、胸にパッド入れてるとか?」
「鎖骨折るよ?」
「ごめんなさい」
「はぁ……気合入れて化粧してきても、相手がコレじゃあなぁ……」
おお、ナチュラルメイク。全然気付かなかったぜ。意識して見てみると髪型もほんの少し違う気がする。いつもよりふんわり立体感があるというか、なんというか……。
「でも、いつもより可愛いと思うぜ」
「……好きでもない女に何言ってくれてんのよ」
言わないと機嫌悪くなるだろうに。
「しかも、私の胸元ちゃんと見たの? パッド入れるんならもっと盛るわよ」
「小ぶりだよね」
「しにたいの?」
「すみません」
「まあ、私はこの身体気に入ってるからいいんだけどね」
まるで、人間の体に寄生するタイプの宇宙人みたいな台詞だな。
「弥生は何か食べないのか?」
「私はもう食べたわよ」
「そうか」
「何食べたか当ててみる?」
「クラブハウスサンド」
「……どうしてわかったの?」
「俺が食べたいものを言っただけだ」
「なるほど……」
月島弥生はどこか嬉しそうに呟き、音符マークが書かれたボタンを左手で連打した。
★
女は胸である、などというのはどう考えても妄言で暴言だと思うが、女性独特の体型である胸のふくらみは、男の浪漫とも言うべきものである。いつだって、あらがえない本能的な何かが、胸への興味を掻き立て続けている。
しかしながら、胸のふくらみについての男性の好みは、大きく分かれるところであり、何に情熱を感じるかは、人それぞれであろう。どのような胸のふくらみも、否定すべきではない。
ちなみに、俺の理想の胸というのは、ミカンのような胸だと言っておこう。こう言っておけば、大きなミカンは大きいし、小さなミカンは小さく、形も様々なので、うまく煙に巻くことができるはずだ。
俺は、トーストされた三角形のサンドイッチを食べながら、そんなくだらないことを考えていた。激しく反省すべきことだが大事なことでもある。
「それで、弥生。今日は、何をする予定なんだ?」
「映画館にでも行こうと思ったんだけど、アキラまた徹夜して寝てないんでしょ?」
「映画? いいよ。平気。寝ない。面白い映画なら」
「そう。じゃあ、決まりね。見たい映画があったのよ」
「弥生は、どんな映画が好きなんだ?」
「刑事モノ」
だと思った。
「あと探偵モノ。アキラは?」
「ファンタジーとか、特撮とか、なんかそういう単純で面白いやつ」
「ああ、リアリティないやつが好きなのね。だからロリロリ詐欺なんかに引っ掛かるのよ」
くそ、言い返したいが、ロリロリ詐欺のことを言われると反論できない。
「……ねえ、アキラ。泣いた事って、ある?」
「え? 何だよ急に。そりゃあるけど、映画でってこと?」
「ううん……人生でって意味」
「当然あるよ」
「そうよね……普通は、そうなんだよね……」
「弥生は、何があっても泣かなそうだよな」
「うん。物心ついたときから、泣いた事、無いから」
何だと。俺なんかつい一昨日、木林に殴られて泣いたぞ。情けない話だけども。
「一度もっていうのは……すごいな」
「自慢する気にはなれないけどね……」
黙って窓の外を見る弥生。その憂いを帯びた横顔を眺めていると、また彼女は話題をころっと変えた。
「ところで、サンドイッチ、おいしい?」
「ああ」
「そう、よかった」
「…………」
月島弥生は、また窓の外を見て、多くの人が通り過ぎる風景を眺めていた。