第2話 寂しい家/父の置手紙
数分経って、石河はペットボトルのお茶が入ったコンビニ袋を提げて戻ってきた。
「おまたせ」
「まさか、今買ってきたとか?」
「そうだよ。うち、冷蔵庫無いからね」
それでどうやって生活しているというんだ。コンビニを冷蔵庫代わりにしてるのか?
俺たち高校生にとっては、とんでもなく金がかかるだろう?
すると石河は俺の思考を読み取ってか、「だって、僕料理作れないし」とか言って、床に買ってきたものを置いた。
「毎日コンビニ弁当か?」
「まあ、そんなところ。でも、コンビニとかスーパーってすごいじゃん。毎日新鮮なものを届けてくれるし、冷蔵庫無くて困ったこと無いよ。ていうかコンビニは僕の巨大な冷蔵庫だよ」
家族はいないのかという質問は、出会ったばかりの頃にしたことがある。そのとき石河は、一緒に暮らす母親がいると答えた。だが、母親は仕事で飛び回っていて、ほとんど家にいないという。つまり、表向きは母子家庭の二人暮しだが、事実上は石河の一人暮らし状態なのだ。
悠々自適に暮らしていると言い張ってはいるが、本当のところはどうなのかと心配になる。この部屋の中には、いつも圧倒的な虚無感が横たわっていて、人間らしさみたいなものが感じられない。部屋を見ても、何が好きなのか、何に興味をもって生きているのかというのが、全く感じ取れないのだった。
石河開は、コンビニ袋から二リットル入りペットボトルのお茶を取り出して、俺の前に置くと、また部屋の外に出て、すぐに戻ってくる。
「結城、これ」
そう言った石河が俺に投げ渡したのは、座布団だった。
「おお、サンキュ。気が利くなぁ」
さらに石河は、円いちゃぶ台を俺の前に置き、対面に座った。
「結城、学校には、もう慣れた?」
親みたいな質問をしてきた。
「慣れたよ。とはいえ、まだクラスメイトの顔と名前、半分くらい一致しないけどな」
「そっか」
「さっきもな、女子の名前がどうしても出てこなくてなあ」
「女子って、誰?」
「木林って子だ」
「……木林みのり」
「そう、木林! そんな名前だった」
木林という名を聞いた途端、石河開のポーカーフェイスがほんの少しだけ崩れたように見えた。
「結城。木林には近づかない方が良い」
「え、どうしてだ?」
肌スベスベの黒髪ロングな美人だから、気になる女子リストに加えようとしていたのに釘を刺されたぞ。もしかしたら、石河は木林のことが好きなのだろうか。
「木林みのりに近付くと、必ず後悔する時が来る」
いやいや、そんなことを言われてしまっては余計気になるじゃないか。だいたい、木林みのりじゃなくて、木林いのりじゃなかったっけ。名前、間違えてないか?
……まあ、いいか。俺の記憶違いかな。
「そうかい、わかったよ」俺は生返事した。
「それで、何か用事だっけ?」
「ん、ああ。だから、よくも俺を騙しやがったな、ということを言いに来たんだよ」
昨日、原稿用紙五枚分もの将来の夢を書くために朝まで掛かったんだ。一発くらい軽く蹴りを入れてやりたいところだ。
「騙したって……だからさ、あんな冗談を真に受けるとは、誰も思わないよ。真面目に授業に取り組んでいれば、課題の内容を聞き逃すことも無いはずだし」
こいつ、まるで俺をバカだと言っているようじゃないか。
「だけど、うん。そんなことになるとは思わなかった。ごめん」
今度は真摯な謝罪に聞こえたので、許してやることにしよう。悪気があったのか無かったのかと言えば、あったんだろうが。だが石河は何だか憎めない男なんだ。
「で、まあ、用事はそれだけでなぁ……」
俺は立ち上がりながらそう言った。すると石河は、
「え、もう帰るの?」
そりゃそうだ。こんな何も無い部屋に石河と二人きりで、一体何をして過ごせば良いというんだ。せめてテレビくらいあれば、映像を見ているだけで時間が過ぎていくから暇ではないのだが。本当に、この部屋は、無さ過ぎるくらいに何も無い。
石河は残念そうに俯いていた。
「また来るよ、今日も家族そろって晩飯なんだ」
「そっか……。それじゃあ、また明日、学校で」
結局、石河が買ってきたお茶も飲まずに帰ることにした。
★
再び自転車に乗って、自分の家に戻る。少し急な坂を下って四分。自分の家の敷地内に自転車を運び入れ、扉を開けて家の中へ。
扉が閉まる音が、妙に大きく響いた気がした。
相変わらず家には誰もいない。靴を脱ぎ捨てた俺は、また階段を上り、自分の部屋に入る。あっというまに部屋着に着替えて、ベッドにダイブした。
寝転がりながらまだ見慣れない天井を見つめ、自分の置かれている状況を整理してみることにする。
転校して来たのは、一ヶ月前。それまでは、別の地域に一人で住んでいた。
「もう、一ヶ月か」
以前住んでいた場所もそれなりの都会だったから、周囲の人間が変わっただけで、都会の生活という意味では、それほど戸惑いはしなかった。
戸惑ったのは、家族生活の方だ。
無口な父、優しい母、超がつくほど地味な姉。血が繋がっているとはいえ数年もの間、別々に暮らしていた。更に俺以外の三人の家族はずっと一緒に過ごして来たらしい。だから俺以外の家族の一体感というものがあって、ほんの少し居づらい雰囲気ではある。それまでの生活と違いすぎて違和感があり過ぎるといったところだろうか。
俺に黙って海外に引越した家族。当時小学生だった俺は、何が起きたのかさっぱりわからず、途方に暮れた記憶がある。
「よくわからんかったけど、思い返すと、つらかった気もするなぁ」
その後、俺は親戚だっていう男に預けられ、その人にお世話になりながら学校に通った。ちなみに、俺の本当の家族は、いつの間にか帰って来ていて、そのことを一年以上俺に黙っていたという。であれば、実は俺という息子は、いらない子だということだろうか。そうだとしたら少し悲しい。
まあ、学校に通わせてもらっていて、普通の人生を歩ませてもらえる以上、文句を言うべきではないんだろうが。
それにしても、みんな遅いな。両親も、姉ちゃんも、どこに行ってるんだろう。普段なら夕食を囲んで一家団欒が繰り広げられていてもおかしくない時間帯だ。一ヶ月間、共に過ごして来た中で、こんなことは初めてだった。
強いて言うなら、数年前のあの日と同じだ。置手紙と俺だけを残して家族全員が突然姿を消した日。
「まさか……」
嫌な予感がした。
いや、まさかな……。
俺は、バタバタと階段を一段飛ばしで下り、ダイニングへと向かう。
そして、団らんの場であるはずのテーブルの上に、存在してはならないものを見つけてしまった。
★
手紙には、以下のように書かれていた。
『アキラへ。急がなければならないので、必要なことだけ書きます。本当はもっと伝えたいことがあって、本来ならこんな手紙ではなく会って言うべきことなのかもしれません。しかし、もう時間が無いのです。
まず、黙って出て行くことを謝ります。ごめんなさい。いいわけをさせて下さい。お父さんは、危ないお仕事から足を洗ったつもりでいました。ところが、敵の存在は、お父さんを簡単には幸せにさせてくれないみたいです。だから、もう一度三人で海外に逃亡します。
アキラだけは、敵に狙われることはありません。しかし、この家にもいずれ追っ手が来るので、出て行かないと危険です。それから、警察には絶対に関わらないように。お父さんたちに危機が迫る恐れがあります。
学費は既に支払ってあるので心配はいりません。生活費も、普通の生活をすれば五年くらいは暮らしていけるだけ入った通帳を置いていきます。豪遊するとすぐに無くなるので注意して使って下さい。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい』
ということらしい。
おい何だ、この手紙は。どこからツッコミを入れたら良いんだ?
危ない仕事って何だ?
この家にも追手が来るけど、俺は狙われない……その理由は?
俺は今日、何回ごめんと言われただろうね。数えていなかったよ。
ああ、現実から逃避したい。
と、幻想世界に没入しかけたまさにその時、来客を告げる軽いチャイムによって、現実に引き戻された。まるで漫画やドラマのようなタイミングだ。
――まさか、追手か?
正体のわからない敵を相手に、どう逃げれば良い?
緊張で汗が噴き出し、頬を伝う。
数秒の間あれこれと思考して、俺は居留守を決め込むことを選択した。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
サイレンにも聞こえてくるようなインターホン連打に身構え、息を止める。全力の居留守。
「…………」
足音が遠ざかる。人の気配もしなくなった。どうやら、居ないと思って帰ったようだ。だとすれば、追手ではなかったということだろう。もしも追手だったら、部屋に入って痕跡を探す可能性が高いからだ。
「ふぅ……」
とにかく、この家は出て行かなければならないらしい。
俺は二階に戻り、一ヶ月前ここに来る時に担いできた大きな鞄に制服一式を詰め込む。お気に入りの服も詰め込む。
学生という身分なので、勉強道具や筆記用具等も忘れず詰め込む。辞書は重いのでさすがに置いて行くことにしよう。このへんが俺の真面目さの限界である。
外は寒いのでコートを羽織った。手紙の横に置かれていた通帳と、財布等の貴重品、その他必要なものを詰め込んだ。
準備よし。
すっかり重たくなった鞄を右肩に担ぐと、音を立てないように慎重に玄関の戸を開け、まるで、仕事を終えたコソ泥のように周囲を警戒した。仕事を終えたコソ泥がどんな行動をするのか、目の当たりにしたことがないのでわからないが、コソ泥というくらいだ。こそこそしているのだろう。
右よし。左よし。
怪しい人影はなかった。強いて言うなら、俺自身が怪しい人影だ。
まだ住み慣れてすらいなかった我が家を離れる。これから、無口だけどやさしい父親や、底抜けに優しい母親のことをもっと知って、地味な姉のことも深く知って、孤独じゃない日々というものを実感して、生きたかった。
左手に持った父の置手紙は、知らず知らずのうちに拳を握り締めていたせいで、ぐしゃぐしゃになってしまっていた。
ああ、これから、何処に行けばいいんだろうか。