第11話 キス/木林みのりの殴打
遅刻せずに登校し、授業を受けていたが、授業内容は全く頭に入らず、ずっとみかんのことを考えていた。心配で心配で、どうしようもなかった。
あっという間に時間が過ぎて行き、午後の授業に突入。五限は英語だった。
「結城くん」
授業が終了して、梨々子先生が声を掛けてきた。
「え? 何ですか?」
放心しかけていた俺は、そんな言葉を吐いた。
「あのねぇ。何ですか、じゃあないでしょ。宿題、今出さないと受け取らないわよ?」
しまった。みかんで頭がいっぱいで、全く忘れていた。
俺は勢いよく手を合わせて頭を下げる。
「放課後! 放課後まで、待ってもらえませんか?」
「あのねぇ……それって不公平でしょう?」
確かにそうだ。他の皆は、期限までに提出しているのに、俺だけ遅れて出して構わないなんて論理は通るわけがない。
「だいたい、あたし放課後に予定あるのよ?」
「デートですか?」
「どうでもいいでしょう? 余計な事言ってると、もう受け取らないわよ?」
それは困る。みかんに嫌われてしまう。
「ちゃんとやってあったんですよ。でもノートが、その、無くなってしまって」
びりびりにされた紙片たちは、今頃どこにあるだろうか。風に飛ばされて、川に流されて、海の藻屑になったりしているだろうか。
「もう、仕方ないわね……放課後、待ってあげるわ。もちろん、評価は皆と同じにはできないけど……なるべく早くしてね」
「すみません! ありがとうございます!」
居残りが決定したのであった。
★
みのる学園高校の二年生の授業時間割は、金曜日と土日祝日以外は、毎日六限まであった。今日は金曜日なので、五限が終われば放課後だ。そして明日からは土日。二連休となっている。
俺の班が掃除当番だったから、教室を清掃。それが終わった後、再び自分の席に着いた。同じ班の石河は掃除が終わってすぐ、さっさと帰って行った。
結局、今日一日、みかんからの連絡はなかった。
できれば居残りなんかせずに、すぐに帰りたかったのだが、そんなことをしたら、みかんに嫌われてしまうだろう。落第したり遅刻する人は嫌いらしいからな。
俺はルーズリーフに課題の英文を書き込むと、記憶と辞書を頼りに、宿題を終わらせるために手を動かす。幸い、しっかり記憶していたので、すぐに終わらせることができそうだった。
と、軽快にペンを走らせていたその時だった。
引き戸が開いて、誰かが入ってきた。
「あ」
木林だった。木林みのり。あれ、いのりだっけ。確か、名簿でチェックしたら、『木林みのり』って書いてあったような気がする。
「よう、木林も居残りか?」
「ううん。ちがうよ」
じゃあ何で皆が居なくなった教室に一人で来たんだ……。
「結城くん」
「はい」
「隣の席、座ってもいいですか?」
俺がどうぞ、という前に、木林みのりは、俺の隣の席、石河の席に座った。
隣に座った木林の様子は気になったが、俺は早くこの英語の宿題を終わらせて、みかんの家に行かなくてはならない。だから、無言でペンを動かす。
「結城くん」
「ん、何だ」
やたらシリアスな彼女の声に、俺は手を止めた。
「私の名前、おぼえてる?」
「ああ、木林みのり、だろう?」
すると彼女は俯き、黙り込む。
「……………………」
重たい沈黙だ。何故だ?
しばらくそんな時間が続き、やがて彼女は震えた声で、
「違うよ。私はちゃんと、結城アキラって名前おぼえたのに、何で?」
いや、だって、昨日クラス全員の名前が書かれた紙を見た時、確かに『木林みのり』と書いてあったはずだ。
「じゃあ、木林いのり……か?」
「じゃあって……ヒドイ……」
「あ、すまん」
そして静かになったので、気まずさを抱えながらも、また宿題と向き合った。
急いで宿題を終わらせた俺は、座った姿勢のまま、ペンを置いて、木林いのりの方を見た。
「……ぅ……っく……うぅ……」
泣いていた。声を押し殺して泣いていた。
何故!
「あ、その、きば、木林? どうした……?」
「だって……名前……絶対忘れないって言った……のに。私、みのりじゃないのに……」
「…………」
俺は机の中から、転校してきた日に渡された紙、クラス全員の名前が書かれた紙を取り出した。そして確認してみると、そこには『木林みのり』と書かれていた。さすがに俺でも平仮名は読み間違えないはずだ。
それなのに、目の前の彼女は、「みのり」ではなく「いのり」だと言い張っている。
「私のこと、嫌い?」
「嫌いではないが……」
だが、さすがにわけがわからなすぎて、好きにはなれないと思う。予想外のタイミングで急に泣き出したりする女の子は、何と言うか、扱いが難しすぎて、俺の手に負える気がしないのだ。
「わ、私は……アキラくんのこと好き!」
おい何だと、またか。
これは、いわゆるひとつのモテ期と呼ばれるものだろうか。二人の女の子から「好き」と言われるとは、一生分のモテエネルギーを使い果たすくらいに危険なモテ期なんじゃないか?
正直、反動で、すさまじく悪い事が起こりそうで……おそろしいぞ。
「え……ええっと……」
「キスしても……いいですか?」
「えっ、だむ――」
ダメです、と言う暇もなく木林いのりの顔が目の前に現れ、すぐさま無理矢理唇を奪われた。
「……」
短時間の接触だった。
木林は、二歩後退りした後に、制服の袖で自分の唇を拭った。
そして、今までとは違う低い声で、
「最っ低の気分ね……」
と言うと、俺の左頬を平手でぶん殴った。
きっと、とても良い音が教室内に響いたことだろう。あまりにも強い。激しすぎる一撃。
「いっっ……」
涙出るくらい痛かった。おそろしく力強い。血の味がする。
あれ、でも俺は何で殴られたんだ。
全く意味わからねぇ。
「結城」
「は、はい? 何ですか……」
「とりあえずくたばれ」
「何で!」
それが、俺と木林みのりとの出会いだった。
★
「だから言っただろう? 木林みのりに近付くなと」
そんなことを言いながら、西日射す教室に入ってきたのは、友人の石河開だった。
「石河?」
どこからツッコミを入れればいい?
木林みのりに近付いたわけじゃなくて、木林の方から近付いて来て、わけのわからない会話の後、あろうことかキスされてぶん殴られて、そこに石河が現れたんだぞ。一体どうすれば、この事件を回避できたというんだ。しかも、俺これファーストキスだぞ?
立ち上がれないくらいショックだ。
「おい、帰ったんじゃなかったのか? 石河」
俺は混乱しながらも、八つ当たりするかのように険しい声を出した。
「い……石河くん……」
木林みのりは、そう呟くと、急にモジモジし始めた。好き好きオーラが出ている。どうやら、石河のことが好きらしい。おかしい。
木林は俺のことが好きなんじゃなかったのか?
俺も石河も好きってことか。さっき告白してきたばかりなのに。堂々とした二股すぎるだろう、それは。
「あ、結城ィ」木林は、怒りを帯びた声で俺を呼び捨てにし、再び俺の方を見た。
「何でしょうか」
「もう一発殴らせろ」
「何でだ」
「さっきのは、あたしの分で、次は、いのりの分だ」
何を言ってるんだ、この娘は。ぽかんとせざるをえない。
「さっき、いのりを泣かせただろう」
木林みのりは、俺の胸倉を掴んで立たせると、思いっきり殴った。良い音がした。さっきのより痛いのが来た。
「くっっぅ……」
涙出た。
俺はよろめきながら「わけわからん……」ということしかできなかった。
その時石河が、木林みのりに近付いて、彼女の肩に手を触れ、優しく語り掛けた。
「僕は結城と話があるから……しばらく出ていてくれ」
すると凶暴な光を目に宿していたはずの木林みのりは、「うん……」と素直に頷いて、石河の言う通りにおとなしく教室を出て行った。
俺はもう、何が何だかさっぱりわからなくて、ただ左頬がマジで痛いということしか考えられなかった。
「さて……ナンダコレっていう顔してるね」
石河の言う通りだ。さっぱりわけがわからない。これはもう、俺の頭がすこぶる悪いということを認めるしかないようだ。
「実は、木林みのりは、二重人格だ」
それってのは、よく映画とかアニメとかで見る人格が分裂しているという、ぶっ飛んだ設定のことか?
「今度はフィクションの中だけじゃなかったのか、って顔してるね」
「ああ……正直、そう思った」
「二重人格や多重人格は、実際に存在するんだ。もちろん、その数は少ないけれどね。多重人格……解離性同一性障害と呼ばれることもある。幼い頃に何らかの心的外傷……主に幼い頃に虐待などを受けた時に、自分自身を守るための防衛手段として、全く別の人格を作り出してしまうという例が多いらしい。この病の最大の特徴としては、人格が入れ替わっている時、別の人格には記憶が無いということだが……」
「俺はさっき、いのりの分も殴られたぞ」
「そう……正確に言うと彼女は、この病には当てはまらない。それが問題なんだ」
「え?」
「木林いのりは、人為的に作り出された人格だということだ」
何の都市伝説だ。そんな話を信じろと?
「木林みのりと木林いのりは、記憶を共有している。これは、二つの人格が解離しているわけではなく同一であるということだ。しかし、自由に入れ替わることが出来ない。それは、催眠をかけられているからなんだ」
「催眠?」
「そう。そして僕は、催眠術師だ」
石河が……催眠術師?
「おいこら、何だそれ。クラスメイトを巻き込んで手の込んだ冗談をかますなよ。悪趣味が過ぎるぞ」
「冗談で、こんなこと言わないよ」
石河の顔は真剣そのものだった。
「そもそも、二重人格とか言うけども、人間なんて多くの顔を持ってるもんだろうが。親の前での自分とか、先生の前での自分とか、友達の前、一人で居る時、好きな人の近くにいる時……」
「じゃあ、その時の結城は、違う名前を持っているのかい?」
「……持つこともあるよ。俺を結城と呼ぶ人と、アキラと呼ぶ人がいたり、人によってはインターネット上の名前とか芸名とかで、別の名前持ったりもするだろう?」
「そういう、仮面的なことではないんだよね」
「何なんだよ。さっきから何言ってるんだよ、お前は! 前触れもなく変な事言うな! 頭おかしいのか?」
「そうだな。僕の頭はとっくにイカレてるさ。ただ……これだけは言っておく、僕はね、木林いのりのことが好きなんだ」
「…………」
俺は口を開けて固まった。
ごっちゃごちゃでわけわからん。木林のことが好きだというのが、石河が催眠術師であることに、どうやったら繋がるんだ?
「木林みのりに近付いて、後悔したか?」
「くっ、わっかんねえ……」
俺は、頭を押さえてそう言った。
色んなことがありすぎて、一刻も早く頭の中の掃除が必要だ。
いっそ記憶を失いたい。さもなくば、こんな現実から、全力で逃避したいと思う。