第10話 みかんの殴打/咳き込む
月島弥生と別れた後、俺は、みかんの家へと向かった。今日梨々子先生に提出する宿題が書かれたノートを回収するためだ。
持っていた鍵で、エントランスの半自動扉を開け、マンション内に入り、エレベータに乗って三階へ。
そしてその場所で俺は、信じられない光景を目にしたのだった。
「み……みかん……?」
玄関の扉の前で、膝を抱えて座り込んでいる田中みかんがいたのだ。
一体何をやっているのかと思い、近付き覗き込んでみると、みかんは静かに顔を上げた。
「アキラちゃん……」
「みかん、何やってんだ……こんな所で」
「何やってるんだ、ですって?」
みかんは勢い良く立ち上がると、俺の左頬を思いっきり引っ叩いた。
俺は横を向くことになった。激しい音がした。
すげえ痛い。眠気が一気に吹き飛んだ。
「いっててて……」
「鍵がなくて、家に入れなかったのよ!」
「う、嘘だろ」
この寒空の下で夜を越したというのか?
「嘘じゃないよ! すぐそこにあったかい部屋があるのに! ここで夜を越したんだよ?」
みかんは目尻に涙を浮かべ、腕をぶんぶんと右へ左へ振り回し、特大のジェスチャーで怒りを表現している。
「えっと、鍵は?」
「一個しか無いわよ! 返してもらおうと思ったけど、走って逃げちゃうし……」
あっ……放課後、待ち伏せていた月島弥生から逃げ出した時のことか……。
「じゃ、じゃあ携帯は?」
「学校には持って行かないよ!」
「財布は?」
「お財布なくても学校には行けるもん。忘れたよ!」
偶然が重なってしまったんだな。不運だ。ただ、俺が引っ叩かれるのは何か違う気がするぞ。
「けほけほ……」
みかんは咳をして、俺をジロリとにらみつけた。
「……風邪か?」
「そうよ!」
そりゃ確かに十一月にコートも着用せずに外気に晒されていたら、いくらピョンピョン元気系のみかんでも病気になるかもしれん。なんだか俺が悪い気がしてきたぞ。
「ごめん」深々と頭を下げた。
「謝ったって許せるわけないでしょう! 寒かったんだよ?」
「いつからここに……?」
「学校終わってから、ずっとだよ!」
「コンビニとかで時間を潰せば……」
「バイトの人の帰れオーラにあたしが耐えられるとでも思ってんの? しかも高校生なんだよ? 制服着てるし……非行少女だと思われて補導されたらどうすんの? そして深夜のコンビニよ? 強盗来たらどうすんの? 深夜の街にいて、あたしが襲われたりしたらどうすんの? 責任とれるの? 鍵は一個しかないからなくさないでって、書置きの裏面に書いてあったでしょう? 見なかったの? 注意力散漫?」
いやいや、裏面とか普通見ないだろう……。
「ほら、鍵、返してよ」
「あ、はい」
俺は、ブレザーのポケットから鍵を取り出しみかんに手渡す。
みかんは、震えた手で、鍵を差し込み、くるりと回す。
すぐさま部屋の中に消えた。そしてすぐに扉が開いて、隙間から俺の荷物を全て放り出した。ドサドサと地面に荷物が落ちる。出て行きやがれということだろう。
やばい、やばいぞ。超怒ってる。
「おい、みかん、ごめん、許してくれ!」
俺は、ドンドンと扉を叩いてそう言った。大好きなみかんに嫌われるわけにはいかない。
するとみかんは、もう一度扉を開き、隙間から顔を出した。
「あ……みかん。ごめん」
俺は頭を下げた。
扉がパタリ静かに閉まる音が聴こえたので顔を上げてみる。
その時、目の前に立っていたみかんは、俺の英語のノートを持って、妖しい笑いを浮かべていた。そして……。
ビリッ。ビリッ。ビリッ。
「うああ! みかん! 何を?」
「知らない! アキラちゃんなんて嫌い!」
胸がズキリと痛んだ。
やめてくれ、嫌いだなんて言わないでくれ。俺はみかんが好きなんだ。
破かれた俺の英語のノートがみかんの手を離れ、風に飛ばされて、静かな街に舞い降りて行く。
「ふんっ!」
みかんは、鼻息荒く、再びフラフラと部屋に戻っていった。
きつい音で、扉が閉まる。そして、その音に続いて「ゲホゲホ」という咳の音。更に、ガシャンという何か金属が倒れて石にぶつかったような音がして、パリンという陶器が割れるような音がした。咳は「ゴォゴォ」という更に酷い音になって、そして何の音もしなくなった。
「みかん!」
気付けば俺は、扉を勢い良く開けていた。
田中みかんは、真っ赤な顔して倒れていた。下駄箱の上に置いてあった花瓶が玄関に落ちて割れ、金属製の傘立てが倒れていた。
「みかん!」
もう一度、大好きなその名前を呼んで駆け寄る。
「…………」
返事が無い。苦しそうに息を吐くだけだった。
意識が無いのか?
救急車を呼ぶか?
「みかん! みかん!」
「だい……じょうぶ……」
やっと返事してくれた。大丈夫そうには見えないが、緊急度は低そうだ。それで少し安心した。
手を握ってみると冷たく、身体に触れてみると熱かった。
肩を貸す形で部屋のベッドに運ぶ。この世のものとは思えないほど軽いと感じた。上着だけ脱がせてから寝かせた。
「ごめんな」
「…………」
返事は無い。
みかんは、ひどく汗をかいていた。額の汗を拭いてやっても、止まることなく出続ける。
これは、着替えさせたりした方がいいんじゃないか?
いや、待て、しかし、それは十七歳という年頃の娘にとっては、かなり辛い記憶になってしまうんじゃないのか?
だが、だが、そんな事も言っていられない。これ以上体調を崩されてしまったら、俺はどうやって責任をとればいい?
やはり救急車を呼ぶしかないのか。
単なる風邪の症状に見えるが、風邪をこじらせて死んでしまう可能性だってある。
「…………」
よし。まず着替えさせてやろう。
なるべく彼女の肌は見ないように、そして心を無にして、裸に剥くんだ。
ミカンの皮を剥くように、つるっと、何気なくやってしまおう。
俺は、彼女の服が入ったタンスから、黄色いシャツを取り出した。そして、子供っぽいミカン柄の下着も……。
ミカンの輪切りがプリントされた、おパンツ。子供っぽい下着。こんなものに欲情する俺ではない!
大丈夫!
大丈夫、大丈夫、大丈夫!
心の中で百回くらい唱えて、いざ着衣を脱がすため、彼女の方へと向き直る。
依然苦しそうに息を吐く田中みかん。
元はといえば俺の責任なんだ。昨日の朝、書置きの裏面を見ていれば、みかんが風邪を引くこともなかった。月島弥生に発見されて、奢るという言葉に釣られてノコノコとファミレスに行かなければ、みかんが家に入れないなんていう事態になることもなかった!
近付き、彼女に掛かっていた布団を剥ぎ取った。
「うわ……」
スカートが盛大に捲れていたが、そんなことよりも汗の量が異常だった。脱水症状を起こしているのかもしれない。こういうとき、どうすればいいんだ?
彼女の体は発熱していて、近くに居るだけで熱を感じた。まず着替えさせないとまずいと思い、濡れた彼女のブラウスに触れようとした時。
「さわったら、ころすー」
小さく目を開けて、そう言った。
みかんに殺されるなら本望だと思ったが、触れようとした手は止まった。
「でもな、みかん、汗がすごいぞ」
「リビングに、私の、携帯あるの。とってきて」
「……わかった」
俺は、みかんの頭の横に着替えさせる予定だった服を置き、言われた通り、リビングでみかんの黄色い携帯を手に取り、言われていないが冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを持ってみかんの部屋に戻った。
「みかん。言われたものを取ってきたぞ。そして水も」
「うん、ありがとう」
「いまだに、スマホじゃないんだな」
「アキラちゃんもでしょ」
「確かに、そうだが」
お互い、尋常じゃなく古いタイプの人間のようである。
布団の中から右手を伸ばし、俺から携帯だけを受け取ったみかんは、慣れない手つきで操作して、耳に当てた。どうやら電話を掛けているらしかった。
ふと足元を見ると、脱いだブラウス、下着、スカートがあった。自分の手で着替えを済ませたらしい。少し安心だが、できれば布団も取り替えたいと思った。
俺はペットボトルからグラスにミネラルウォーターを注ぐと、それらをベッドから手を伸ばせば届く勉強机の上に置いた。
「あ、もしもし……おかーさん? あたし。風邪引いちゃった。うん。ごめん。忙しいのに。……うん。……うん。病院は、まだだよ。一人じゃ辛くて……歩けないよ」
辛いとか、歩けないという彼女の言葉がザックザックと突き刺さり、うずくまりたくなるくらいに胸が痛んだ。
「うん……わかった……ありがと」
彼女の携帯が、短い電子音を放って、通話は終了したらしい。
「おかあさん、何だって?」
「来てくれるって。だから、もう大丈夫だから……学校行きなよ。遅刻しちゃうよ」
「いや、しかし……」
「アキラちゃん。行って、英語の宿題提出しないと、単位落とすよ? あたし、落第する人とか、遅刻する人とか、嫌いだよ?」
みかんに嫌われるわけにはいかない!
でも、できれば学校を休んでここでみかんを看病したい気持ちでいっぱいだ。
「俺は……」
「大丈夫。私は絶対に死んだりとか、消えてしまったりしないから……絶対……。自分の身体のことは、自分が一番、わかってるから」
「本当か?」
「ごめんね……宿題のノート、破いちゃって」
「お互い様、というか、どっちかっていうと、絶対に俺の方が悪かったよ。ごめん」
「……アキラちゃんは、やさしいね」
「とりあえず、ミカン食べて、はやく元気になれよ」
俺はそう言うと、みかんの頭の横に置かれた携帯を手に取って、自分の携帯の電話番号を勝手に登録した。
「……いま何したの? 勝手に他人の携帯電話いじるとか史上最低だよ?」
言われてみれば確かにそうだ。一言断ってからするべきだった。俺は自分の軽率さとか馬鹿さをもっと恥じるべきだ。
「ああ、すまん。俺の番号いれといたんだ。何かあったら、掛けてくれ。授業抜け出してでも、飛んでくるから」
「……うん」
みかんは目を閉じ、小さく頷いた。