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第1話 書き直し/木林いのり

 家族四人での朝食の後に食べたミカンは甘くて、もうミカンの季節かと思って、とてもうれしくなった。自分に、家族がいるということが嘘みたいで、大いなる嘘の世界に居るんじゃないかと疑った。


 でも、俺の身体はここにあって、俺の心もここにあって、頬を叩いてみても、引っ張ってみても、やっぱり俺は俺だった。ようやく「普通」に生きていくことができるんだと思って、それが、何より、うれしかった。


 そんなことを考えた十一月のある日。その放課後のことである。


「えっと……出席番号三十九番、結城アキラくん。ごめん、これ書き直し」


 職員室に呼び出された俺の耳に入ってきたのは、梨々子先生と呼ばれる担任教師の声。若く見えるものの年齢不詳の女性教師で、波打つ髪がチャーミングである。


「え? 書き直し?」


 なぜなのか。理由がわからない。耳を疑いたい。


「うん、書き直し」


 梨々子先生はゆっくりした口調で言って、俺が提出した五枚の原稿用紙を、俺の胸元に差し出してきた。


「何でですか?」


「だって、私は英語教師よ? 作文っていったら英語の作文に決まってるじゃない」


 あ、やられた……。すごい恥ずかしい。


「すみません。やり直してきます。明日でいいですか?」


「ん、提出期限はね、明後日の授業終了までだから、それまでに出してくれればいいわよ」


「……わかりました。失礼します」


 梨々子先生に一礼し、足早に職員室の床の上を歩く。扉を開けてそっと閉めた。廊下に出た俺は、勢いよく駆け出した。


『廊下は静かに』


 と書かれた貼り紙が、俺のせいで、はためく音がした。


 言うまでもなく、俺はルール違反をしている。だが俺には、禁則を破ってでも、走らなければならない理由があった。


「あの野郎……」


 俺は呟き、スピードを上げる。一刻も早く教室に行かなければならない。そして教室に居るであろう俺に大恥をかかせた男に、ちょっとした罰を与えなくてはならないのだ。


 俺の所属する二年三組の教室が見えた。戸は既に開いていた。


「おい! 石河(いしかわ)ァ!」


 壁に手を掛けながら叫んだのだが、石河は居ない。代わりに教室中央の席に一人の女子がいた。一人ぼっちで座っていた。


「…………」


 俺の大声に怯えているようだ。


 おいおい、犯罪者を見るような目で俺を見ないで頂きたい。誓って言おう、高校生女子と教室に二人きりだからって、俺は何もしないと。


「ご、ごめんなさい」


 強盗に命乞いをするかのような調子で謝らないで頂きたい。襲おうとしたわけではないのだから。


 そこにいた女子は、美人系で、すらっとしている。思わず撫でたくなるような長い黒髪と透き通った白い肌。身長は、俺よりも少し低いくらいだ。百七十センチほどで、女子としては、高い方。


「ええと、石河開(いしかわひらく)を見なかったか?」


 俺はその女子に訊ねる。


「石河くんなら、さっき帰ったけど……」


 あの野郎、逃げやがったな。


 だとすれば、もうこの教室に用は無い。俺はその女子に背を向けて、教室の外に足を踏み出そうとした。


 ところがその時、俺は彼女に呼び止められたんだ。


「結城アキラくん……だよね……?」


 その女子は確認するように俺の名を呼んだ。おそるおそる、薄氷に踏み出すような声で。


「ん? ああ。何か用事か?」


「ううん。訊いただけだよ」


 変な女だな。名前は確か……何だっけ……。


 何しろ転校してきて一ヶ月程しか経っていないから、まだ顔と名前を記憶していないクラスメイトも多い。彼女もそのうちの一人だ。


「あ、忘れたでしょう? 私の名前」


 見破られた。けれども正確ではない。忘れたわけではなく、はじめから記憶しようとしていなかったというのが正直なところだ。だけど、それは忘れるよりもさらに人を傷つけるだろうと想像できるので、忘れたことにしておこう。


「そう、だな。すまん」


「同じクラスなのに、ひどいな」


「すまん。次は忘れないから、もう一度教えてくれ」


「絶対に、忘れないでね」


「ああ」


 そして彼女は、俺の目を直視しながら、


「木林いのり」


 それが彼女の名前らしい。


 それまでの俺にとって、彼女はそれほど重要な存在ではなかった。会話を交わしたこともほとんど無い、ただのクラスメイト。この世界を構成する名もなき一つの要素であるというだけの認識だった。


「そうか、木林いのり。よし、おぼえた。良い名前だな、いのりって」


「ん、ありがとう」


 感謝の微笑みをみて、俺は小さく手を振った。


「それじゃあ、俺は急いでるから、じゃあな」


「うん、バイバイ」


 柔らかな微笑みを見せたまま小さく手を振り返した木林。俺も軽く手を振って別れた。


 廊下を歩いて、階段を一段ずつ下り、昇降口で靴を履き替え、校門から出た。そこには、どこの町にでもある風景。無機質なアスファルトの上を歩いていく。


 木林いのり、か。何の目的で人の居ない教室に居残っていたのかは不明だが、誰も居ない教室のど真ん中で、ただ座っていた制服少女。その光景を思い返す。


「綺麗だったな」


 そして、性格も抜群に良さそうだった。


 もっと早く出会っていれば、恋に落ちていたかもしれない。なんてな。


 さて、彼女の姿や表情、やわらかな所作などを思い出しながら、静かな都会の街を歩いていると、やがて自宅に到着した。


 学校の門を出てから約三分。築十五年の、鉄筋コンクリート造りの一軒家だ。4LDK。リビングダイニングとキッチンの他に、四つの部屋がある家に、俺を含む家族四人が暮らしている。優しい両親と地味な眼鏡の姉と俺という構成である。


 門を開け、玄関の鍵を開ける。


「ただいまー」


 階段を上り二階へ行く。自分の部屋の戸を開け、鞄を投げ捨てるように置いた。


 家には誰も居ないようだった。


 なんだか寂しい。この一ヶ月、いつもなら、すぐに「おかえりー」って応えてくれる母親が居たんだけどな。


「さてと……」


 俺は、携帯と財布、そして家の鍵という最低限度の荷物を制服のポケットに入れると、外に出る。しっかりと施錠し、赤い自転車に跨って漕ぎ出す。目的地は、石河開(いしかわひらく)という男の家だ。


 五分。少し急な坂を上って、俺に恥をかかせた男の家の前まで来た。自転車から飛び降り、躊躇わずにインターホンを押した。


 ピンポン音がして、


「はーい」


 扉の向こうから、石河開の、男にしては少し高い少年のような声が響いた。


 すぐに扉が開いて、制服姿の石河が出てきた。ちなみに、俺は石河が学校の制服以外の服装をしているのを見たことが無い。土日祝日関係なく常にブレザー姿で、非常に謎の多い男でもある。


「結城じゃないか」


「ああ。石河、お前のせいで呼び出しくらったぞ」


「何のこと?」


 とぼけるか。まあ、そうだろうな。こいつはそういう奴だ。大人しそうな顔立ちに似合わず、少し腹黒い男なのだ。


「昨日、英語の宿題の内容をメールで訊いたろう?」


「訊かれたなぁ」


「その時に、お前は、作文を縦書きで原稿用紙五枚分だよとか送ってきただろう? しかも『将来の夢』をテーマにした作文だと」


「言ったなぁ」


「英文を縦書きで書くのなんて効率悪すぎることくらい俺にもわかる。だから、日本語の作文だと思って必死になって原稿用紙五枚分書いて提出したよ。そしたら呼び出しだよ」


「僕としては冗談のつもりだったんだけどね」


「なっ……しかもだ、石河。原稿用紙五枚分とか言って、本来の宿題は、五行くらいの英作文じゃねえか! 何倍に膨らませてんだよ!」


「ごめんごめん」


 軽い調子の謝罪だ。こんなものを謝罪とは呼べない。


「それで、何て書いたの?」


「は?」


「だから、結城の将来の夢って何?」


「それは……」


 思い浮かばなかったから適当に書いた。普通の大学に行って、普通の女の人と結婚して、普通の家庭を築いて、普通に死にたいという、「普通(Ordinary)」と連発した限りなく夢の無い内容の文章を書いた記憶がある。大丈夫、夢はこれから見つけるんだよ。夢ってのは普通の生活の先にあるもんだからな。


 今は普通ってやつを心行くまで味わうことを許してもらいたい。


「……とにかく、寒いでしょ? 家の中入りなよ」


「ああ」


 石河の言葉に甘えることにする。確かに外は寒かった。


 扉を静かに閉める。この一軒家に足を踏み入れるのは三度目なのだが、何だか慣れない。


 冷たく寂しい雰囲気のフローリングの廊下を歩き、がらんとした十八畳ほどの空間に出た。洋室だった。家具は一切無く、生活感というものが皆無だった。窓からの西日のおかげで、廊下よりも気温が高かった。


「あ、適当に座ってくつろいでいてよ。お茶か何か持ってくるから」


「ああ」


 そう返事したものの、床しかない部屋でどうくつろげと言うんだ?


 外の景色も、特筆すべきものが無い色あせた芝生の庭と、隣の家の囲いが見えるくらいで、面白くも何ともない。


 暇だった。



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