9.如月慎、高山にとんでもないところを見られ、もう嫁に行けないと嘆く。
どうやってこのマンションまで帰り着いたのか記憶も曖昧で、
それよりも気になるのが、自分は果たして水瀬先輩の前でちゃんと笑えていたのだろうか、
ということだった。
ただ今はひどく疲れていて、ベッドに身体を横たえると、
もう二度と起き上がれないような気さえする。
それにしても一体なんなのだ。
この胸に満ちる苦い思いは。
苦くて、苦しくて、まるで高山から取り上げた煙草を吸ったときみてぇな気持ちになる。
なんだか妙な気持だった。
目を閉じると瞼の裏には、高山の切なげな表情ばかりが思い浮かぶ。
(俺は一体どっちに対して嫉妬しているのだろうか)
そう思ったら、涙とともに乾いた笑いが込み上げてきた。
『なんで俺じゃない? 慎』
そういって俺を抱きしめた高山を思い出した。
「俺だとお前を幸せにできないからだよ。高山」
とめどなく流れる涙をそのままに、俺はそう呟いた。
不意にスマホが鳴った。
俺は慌てて涙を拭って電話に出る。
「もしもし?」
スマホ越しに、高山の声がした。
「俺だ、慎。無事に着いたぞ」
高山の声を聞いたら、涙が溢れてうまくしゃべれなかった。
「おい、慎? お前ひょっとして泣いているのか?」
「うっ……うるせぇ。ちげぇよ、ちょっと風邪気味なだけだ」
「風邪をひいたのか。お前、ちゃんと病院には行ったのか?
夏の風邪は長引くというから、厄介だな。ボディーガードの長谷川に病院に付き添うように、指示をだそうか」
スマホの向こう側で、高山は真剣に悩んでいる様子だった。
そんな高山に思わず微笑が誘われる。
「いらねーよ、薬飲んどきゃあ、勝手に治るつうの。それより、お前、俺に用だったんだろ? なに?」
「いや……用というか……そのっ……」
スマホの向こう側で、高山が珍しく歯切れの悪い物言いで、なにかもそもそと言っている。
「なに? 高山、聞こえない」
そう聞き返すと、
「うっ、うるさいっ、ただ単にお前の声が死ぬほど聴きたくなっただけだ!」
ほとんど怒鳴っている。
「ばーか」
なんだか笑いがこみ上げてきた。
「本当はなにもかもを放り出して、お前のもとに飛んでいきたいのだけどな」
スマホの向こう側で高山が小さくため息を吐いた。
「そんなこと、俺は望んじゃいない。お前は社長なんだから、全力で仕事をしてこい」
「だけど俺はっ……」
「いいんだよ。とっとと仕事終わらせて、それから帰ってこい」
「ああ、そうだな」
ここで会いたいといえば、高山は仕事も、何もかもをほっぽり出して、俺に会いにくるような気がした。
言ってみたいような気もした。
高山は優しいから、その優しさにつけこんでコイツを独占したいと思った。
昔からコイツといると妙な気持ちになる。
心のどこかが、歯止めがきかなくなると警鐘を鳴らし続けていて、だから去った。
だから遠ざけた。
「恋愛中のヒステリックな女じゃあるまいし、そんなこと望んじゃいねえよ。
てめぇは男なんだから、とにかく仕事を優先させろ。……でもさ……」
バカだ、俺。
何言おうとしてんの?
「でも……なんだ?」
「お前がちゃんと取引成功させて、日本に帰ってきたらさ」
「なんだ?」
「一緒に……飲みに行かないか?」
これぐらいは、許されるよな。友人の範疇として。
「仕方ねえな、わかったよ。速攻で仕事終わらして、今週末には日本に戻るようにするから、それまで待っていろ」
「ああ、週末にまた会おう」
そういって、先に電話を切ったのは俺のほう。
だけど通話の途切れたスマホを、
ずっと胸に抱きしめていたのも……俺のほう。
ほんと、どうかしているぜ。
会いたいのだ。
高山に会って、笑って、そして……。
そして?
触れたい。
そんな欲求が確かに自分の中に息づいている。
じゃあ、あいつは?
あいつはなんで俺にキスなんてしたんだろう。
高山との初めてのキスは、全然嫌じゃなかった。
(だったらその先は?)
そう考えて、俺は愕然とする。
例えばアイツは俺とヤりたいとか、そういうこと思ったりするんだろうか?
(じゃあ、俺は?)
俺は果たしてアイツに抱かれたいと思えるんだろうか?
「あーやめやめ、シャワーでも浴びて頭冷やしてこよ」
俺は発作的に思考を停止させた。
頭から冷水を浴びて。ぶるっと頭を振って、顔を手で拭った。
そして浴室を見回す。
(この場所で、毎日アイツも風呂に入っていたんだよな)
当たり前だ。ここはアイツの家なんだから。
視線をあげると、いつもそこにいて、それが当たり前だと思っていた。
ここにアイツがいない。
そのことが胸にぽっかりと穴を空けた。
そしてそれはごまかしきれない、自分の気持ちだった。
その穴は水瀬先輩でも、仕事でも、他の何であってもきっと埋まらない。
バスルームを出て、俺は高山の寝室に向かった。
ベッドの上に無造作に置かれてあった、高山のシャツを素肌に羽織った。
高山の匂いがした。
「なんでお前はここにいない?」
そう呟いたら、涙が溢れてきた。
この気持ちを何と呼ぶのかは知らない。
だけど俺はこの気持ちを知っている。
バスケをやめて、高山から去ったときの気持ちだ。
切なくて、悲しくて死にそうなくらいに、狂おしい。
このマンションに初めて泊まった日、目覚めたのはこのベッドの上だった。
裸の高山に抱かれて、それは至極幸せな眠りだった。
そんなことを思い出して、俺はベッドの上に横になった。
この場所で高山に抱かれる自分を想像した。
(ここに、高山が触れたなら……)
「高山……はぁっ……たか……や…ま…うっ…」
その名を呼ぶと、切なくて涙が溢れた。
「高山……たかや……ま……」
俺は泣きながら絶頂を迎えて果てた。
声がした。
「慎……お前は一体何をやっているんだ?」
枕もとで幻聴ではなく、リアルな高山の声がした。
俺はがばっとその場に起き上がり、部屋を見回した。
「高山? 高山なのか? いるんだったら……お化けでもなんでもいいから、姿を見せやがれ!
でないと、俺、切なくて、苦しくて死んじまいそうだ」
必死だった。
「俺もお前が、好きだ!」
気がついたら、そう叫んでいた。
「慎、残念ながら俺は今ロスにいるが、パソコンを見てみろ。
スカイプで一応こちらとそちらはつながっている」
その言葉に、俺はパソコンを振り返った。
そういえば、真っ暗な部屋で、確かにパソコンは起動していた。
そして俺の思考回路は停止する。
は? なにそれ? 聞いていないんですけど……。
じゃあなにか? ひょっとして、さっきの俺のひとりエッチ見られちゃったとか?
パソコンの画面上に、ちゃっかりと鼻の穴から赤い液体を二本垂れ流した高山が映っていた。
(鼻血か? それ鼻血だよな。めっちゃ古典的だけど……ってことはっ!)
「うっ、うわーーーーーー」
遅ればせながら、俺の絶叫がパソコンを通して高山の耳に届いた、と思う。
「今更なにを慌てている。
俺は今すぐにでも、飛んで行ってお前を抱きしめたい気持ちでいっぱいだ。愛しているぞ。慎」
「あのっ……あのっ……俺っ」
悪夢だ……これは悪夢に決まっている。