8.水無瀬先輩の告白
駅前に立ち並ぶビル群の一角に、店はあった。
座敷に続く明りを絞った廊下に、灯篭がおかれ、
ちりちりと不安定に揺れる細い明りが、あたりを照らしていた。
和服姿の若い仲居さんに案内されて通された座敷には、すでに料理がならんでおり、
菖蒲の花が一輪、禅の前に生けられていた。
食前酒で、乾杯をし、前菜の小鉢に箸をつけた。
鱧の梅肉和えだろうか、ほろっと崩れる鱧の身が、
ほどよい梅の酸味とともに口の中に広がった。
障子の向こうには、ライトアップされた中庭が見渡せる。
自然のものではない、切り取られた人工的な空間の中で、
紫の濃い額紫陽花が、健気に咲いていた。
(そういえばアイツ、ちゃんと飯食っているのかな。
外食はただでさえ野菜が不足しやすいから、野菜ジュース持たせてやりゃあよかったな)
高山に対する後悔の思いばかりが、果てのない躊躇いの思考を繰り返す。
『逃げるな! 慎。
俺から目を背けるな』
出国の前に、高山が言った言葉を思い出す。
(俺って……たいがい卑怯だよな)
そんなことを思って、俺は下を向く。
高山は俺から逃げない。
俺から目を逸らさずに、堂々とその思いを俺に告げた。
それに対して俺はどうだ?
『多分好きかも』
そんな予感に、高山から逃げて、
そのくせ水無瀬先輩と高山のことを誤解して、
一人でグルグルして……。
今でも思う。
高山の横には、俺よりも水無瀬先輩の方がお似合いだよなって。
小さな自分が、悲しくて、なんだか泣きたい気持ちになった。
「なんだか今日は元気がないわね。如月君」
そういって不意に顔を覗き込まれてどぎまぎとしてしまう。
「い……いえ、全然俺、元気っス!
ほんとに……水瀬先輩みたいな美人を前にしているから、緊張しちゃったのかも……なーんて」
あははと頭を掻いて、その場を取り繕った。
会社は慣れたかとか、仕事の対人関係なんかにさり気なく気を使ってくれて、
そんな水瀬先輩の優しさが嬉しかった。
「ねえ、もう一軒付き合ってよ。如月君」
そういって食事の後で、水瀬先輩にバーに誘われた。
一見外からは普通のビルにしかみえないのだが、
中に入るとこじんまりとした店の中央には、高そうな水槽が置かれてあった。
水槽には色鮮やかな熱帯魚が泳ぎ、幻想的で非日常な空間を演出していた。
「水瀬先輩も、こういう所にくるんですね」
「なに~? その意外そうな口ぶりは」
水瀬先輩は、不服そうに口を尖らせた。
「ちょっとね、気分が落ち込んだときなんかによく、ここに来るんだ。
ここでお酒を少しだけ飲んで、それで自分をリセットするの。
今日はなんだか如月君、元気がなかったから。元気が出たらいいなって思ったのよ」
そういって、水瀬先輩は慣れた雰囲気でカウンターの前の丸椅子に浅く腰掛けた。
ジャケットを脱いでいたから、シャツ越しにバストのラインがもろに出ていた。
華奢なくせに、豊満で、ウエストもきゅっとくびれている。
美人で、頭も良くて、性格よし。
ここまで条件がそろっている女の人っていうのも、そうそうお目にかかれるものではない。
「なに? ひょっとして私に見とれてるの?」
水瀬先輩が、少し酔ったような視線を俺に向けた。
「えっと、水瀬先輩、なんか色っぽいなって思って」
俺の好きだった人。
そんな思いを込めて、もう一度、じっと水瀬先輩を見つめた。
「そう?」
水瀬先輩もまんざらでもなさそうに小首を傾て見せた。
「如月君てさ、彼女いるの?」
「いません」
俺は即答した。残念ながら、それは事実だったから。
「じゃあさ、好きな人は?」
そういって子供っぽくカウンターに肘をついた水瀬先輩の華奢なうなじから、なんだか甘い香りがした。
(うーん、返答に困る)
脳裏に高山の顔が過った。
消そうと思って、だけど消せない強烈な想いが、俺を蝕んでいくのがわかる。
「私はね、高山社長が好きなの」
彼女の言葉に、横っ面を張り飛ばされたかのような衝撃を覚えた。